case7 何の為に、誰の為に5
ヒュッと風が頬を撫でたかと思った次の瞬間、燃えるような熱さを感じた。
「ぐっ……」
呻きながら振り返ると、ジャルジャバは鋭い爪をペロリと舐め、そこに付着した真っ赤な血液を味わっていた。
あれは俺の血。風が吹いたと錯覚するほど、奴は素早い動きで俺の頬を掠めて行ったのだ。
「あの夜は随分と加減をしたからな」
「らしいな。もう少しゆっくり動いてくれ」
軽口を叩きながらジリジリと間合いを調整する。
こんな時は、本当にカナタの異能が羨ましくなってしまう。
俺の異能は瀕死からでも即座に完治するというものだが、言ってみれば騙まし討ち。
死んだフリをして油断したところを襲い掛かる程度しか、有効な使い方がないのだ。
つまり、一度披露してしまったコイツには、ほとんど効果が見込めない。
「貴様はあの夜のままか? であれば、ここで死ぬことになるぞ?」
余裕たっぷりの顔でジャルジャバが唇を歪めた。
あの時のままかと言われれば、否と答えたい。
あれから魔物と幾度も戦い、聖杯を使ったことも何度かある。
俺の魔物に対する経験も能力も、あの夜に比べて格段に上がっている筈なのだ。
しかしいくら魔物に対する力が上がっても、身体能力はさして変化してくれない。
『銃なんかに頼って鍛錬を怠るから、そんなに軟弱なのよ』
思い浮かべたセミショートに、まったくその通りだと苦笑が零れる。
「戦いの最中に、随分と余裕だな」
「そういうわけじゃあないんだが、まぁしかしそうか」
女の事を思い出すなど、それこそ余裕と取られても仕方ないだろう。
実際は、余裕なんてこれっぽっちもないけどな。
――ベキッ
突如聞こえた破砕音にハッとなり、意識を戦場に戻した。
それが、ジャルジャバが大地を蹴って地面が割れた音だと気付いた時には、すでに奴の牙は目の前であった。
「んぬぁッ!!」
リンボーダンスのように無理やり上半身を後ろに倒すと、その直上を魔獣の巨体が通り過ぎていく。
そのどてっ腹にカミーラをぶち込みたいところだが、反応出来るような速度ではないし、体勢が悪すぎた。
結果的にどっちつかずの動きになってしまい、バランスを崩した俺は、そのまま背中から硬いコンクリートの上に倒れてしまっていた。
視界全てが夜空の黒に覆われた直後、そこにジャルジャバが割り込んできた。
奴は飛び上がり、真上から俺を踏み潰そうとしてきたのだ。
「ぬおぉぉぉッ!!」
慌ててゴロゴロと横に転がると、先ほどまでいた地面がベキベキッと陥没したのが見えた。
実にデンジャラスな魔物である。
こんな恐ろしい魔獣が――。
「逃げたんだってな?」
以前聞いた話を思い出した俺は、思わず口を滑らしていた。
「なんだと?」
すると魔獣はゾワリと全身の毛を逆立て、血走った眼で俺を睨みつけてくる。
「だから逃げたのかって聞いてんだよ。異界にいたヤベェ奴から」
激昂しワナワナと震えだしたジャルジャバは、怒りに任せて俺に襲い掛かってくると踏んでいた。
その隙をついて攻撃するつもりでカミーラを構えていたのだ。
だがフッと、急に奴から力が抜けてしまう。
「逃げたよりも尚悪い」
真っ暗な海の果てでも見るように、白い息を豪快に吐き出して、魔物はそう言った。
拳だけが小刻みに震えているが、あれは怒りではなく、悔しさなのではないだろうか。なぜだか俺はそう感じたのだ。
「あと一年でゲートが固定され、そこから奴はやって来る」
「らしいな。……あぁ、お前が土間に協力してんのは、それを食い止めたいってことなんだな?」
「……そうだ。アレが現れればこの世界は終るだろう。それほどに、アレは強い」
再び俺に視線を合わせたジャルジャバ。その表情から読み取れる感情は、悔しさ、恐怖、そして諦めだった。
この魔物にそこまで言わせる化物の存在に、俺は言葉を失ってしまっていた。
と、何を思ったのか、ジャルジャバはその場でバッと両手を広げ
「撃ってみろ」
とアホな提案をしてきた。
アレとやらが恐ろしくて、一足先に死にたくなったのだろうか?
そう訝しむ俺に焦れたのか、空気が震えるほどの怒声がぶつけられた。
「いいから撃てッ!!」
「後悔すんなよ?」
一瞬だけビクリと怯みそうになったが、なんとか誤魔化しつつ銃口を向ける。
狙う必要もないほどデカイ図体に照準を合わせ
プシュッ
躊躇することもなく、俺は引き金を絞った。
「グオオォォォォォォォッッ!!」
今のが俺に隙を作らせる罠という可能性も考えていたのだが、放たれた血弾は真っ直ぐにジャルジャバの腹へと吸い込まれ、直後に魔獣の咆哮が天を劈いた。
奴は被弾箇所を手で押さえながら地に膝を付き、尚も痛みに呻き続けている。
一体何がしたかったのか。さすがに無防備な背中にトドメを刺す気にはなれず、銃口は向けたまま、俺はしばらく様子を見ることにした。
すると、今まで後方に避難していた土間がジャルジャバに歩み寄ってきた。
「ふんっ。どうなんだジャルジャバよ」
顔から脂汗を垂らし、ゴハッと口から血を吐いてから、ようやくジャルジャバは土間を見上げた。
痛みに呻いてはいるものの、奴の表情はどことなく明るい。
「以前とは比べ物にならん……。これが奴等の言うところの可能性……」
「それは分かっておる。で、あるのか?」
「まだない。が……あるいは……」
一人と一匹は俺を無視してそんな会話をし、もう一度「ふんっ」と傲慢に鼻鳴らせてから、土間は車へと戻って行く。
まだ話は終っていない。そう呼び止めようとしたが、起き上がったジャルジャバが間に立ち塞がってしまった。
「とはいえ、だ。そんな微かな可能性に賭けられるほど、ベットするものは安くない」
土間へ駆け寄りかけた足を止め、再び魔獣と対峙せざるを得なくなってしまった俺は、仕方なくとカミーラを構え直す。
だがジャルジャバに戦いを続ける様子は見られない。
もっとも戦いを続けたくても、先ほどのダメージが残っているのだろう。未だに奴は、被弾した腹部を手で押さえ続けていたのだから。
ならばそこを退けと食って掛かる寸前、魔物は薄っすらと笑みを浮かべながら、静かに口を開いた。
「もし貴様がアレの前に立つつもりなら、相応の準備と覚悟はしておくことだ。少なくとも、今のままでは他の者より死ぬのが早まるだけでしかないぞ」
「ご忠告痛み入るね。で、お前はどうすんだ? また尻尾巻いて逃げんのか?」
「方針は変わらんさ。空間を歪め、ゲートの固定化を防ぐ。その先に貴様等の滅亡があったとしても、それは俺には何の関係もないことだからな」
自嘲気味に「ククッ」と喉を鳴らした魔物は俺に背を向け、次の瞬間には闇夜の中にその巨体を消してしまっていた。
気付けば土間が乗った車もいなくなっている。
寒空の下。
一人残されてしまった俺は、なんとなく海を眺めた。
一年後に現れるという世界を破滅させかねない魔物。
2113年に発症するという、人類を滅亡させるSOLT。
どうにも、路地裏の探偵が扱うにはスケールの大きすぎる話だ。
「……あ。土間を殴り損ねた」
現実から逃避するように、心残りがポロリと夜空に溶けていった。




