case1 残酷な依頼5
白石邸に到着すると、昨日とは打って変わって狼狽した白石アカネが俺を出迎えてくれた。
ダイニングではリンが呑気にテレビを見ている。腕に包帯を巻いているものの、どうやら怪我の具合は大したことないらしい。
だがアカネの顔面は蒼白で、おろおろと落ち着きなくリンの世話をし。ついには俺の腕にしがみ付いてきたのだ。
「お願いです! あの娘を。リンを守って下さい……!」
うぅっと言葉を詰まらせ、瞳は薄っすらと濡れている。彼女にとって娘がどれだけ大切なのか。否応なくそれが感じ取れた。
そんなアカネに頷いてから、俺はダイニングの様子に目を走らせる。
庭に面した窓ガラスはダンボールやガムテープで補強されているが、ここが侵入経路なのだろう。
盛大に割られてしまったようで、ある程度は片付けたようだがフローリングの床にはいくつも傷が付いていた。
「掃除はどの程度?」
しゃがみこんで、魔物の痕跡を探りつつアカネに訊ねる。
「すいません……。まだ軽く掃いただけで……。ガラスも残っているかもしれないので、気をつけてください……」
「あいよ」
床に頬を付けるように屈み、舐めまわすように見渡してみる。
やはり傷は多いが、大して汚れてはいないようだ。あとは体毛が何本かと、点々と血痕。これはリンのものだろう。
「どんな奴だった?」
アニメに夢中になっているリンに声を掛けると、魔物に襲われたばかりだというのに。それを感じさせずに幼女はあっけらかんとした態度で答えてくれた。
「でっかい犬みたいなのだったよ」
「怖くなかったのか? あまり怯えていないようだが」
「う~ん……? いきなりでびっくりしたかな」
しかしリンがその時の状況を語るたびに、アカネの方が恐ろしさに肩を震わせる。今にもヒステリックに叫びだしそうですらあった。
「娘を……。お願いです龍ヶ崎さん……」
搾り出したような彼女の声。
地の底から響いたようなその声には、拒否を許さないという意志が込められているようだ。
しかし言われるまでもない。すでに依頼は受けているのだから。
「もちろんだ。……そうだな、明日から泊り込ませてもらおうと思うが、構わないか?」
「えぇ。今夜からでも構いませんが」
しばし考えてから、しかし俺は首を振った。
「いや、明日からでいい」
若干『なぜ今夜からではないのか』という批難をアカネの視線から感じたが、無理強いも出来ないと悟ったのだろう。
「お願いします」
と白石アカネは静かに頭を下げたのだった。
その様子を見ていたリン。幼女は母を見て、それからダイニングに飾られた赤いゼラニウムの花へと視線を移した。なぜかその瞳は、俺の目に酷く悲しげに映ったのだった。
……。
白石邸から自宅へ戻る道中。
今までのことを一つ一つ頭の中で整理していると、いつの間にか事務所へ向かう地下階段まで到着していた。
階段を下り、龍ヶ崎探偵事務所と書かれた鉄扉を押し開く。と、頭痛の種が増えていることに気付き、俺は思わず頭を抱えざるを得なかった。
「お邪魔してるわ」
家主の帰宅にも関わらず目礼で済ませ、昨夜オッサンに紹介された女刑事。雨宮カナタが、来客用の椅子に鎮座しておられたのである。
ミューに持て成されていた彼女は砂糖とミルクをたっぷり入れたコーヒーを啜り。あまつさえ、お茶請けにまで無遠慮な手を伸ばしていた。
「なにしてんだお前」
横目で睨みつけながらコートをハンガーにかけ、俺はセミショートの後頭部に疑問を。いや、抗議を投げつけてやる。
「命令だからよ。そうじゃなければ、誰が好き好んでこんな吹き溜まりに来るもんですか」
よくもまあ家主の前でぬけぬけと。苛立ちが沸き上がるが、オッサンに言われて来たのならばこちらとしても無碍に追い返すことは出来ない。
苦虫を噛み潰しながら無理やり自分を納得させ、俺は向かい合うように草臥れたソファへ腰を下ろした。
「面通しの次はお見合いかよ。オッサン何を焦ってんだか」
「……気付かなかったの?」
零れた愚痴に、すぐさまカナタが呆れたと苦言を呈した。
「気付く? 何にだ」
「先輩、酷い怪我をしてるのよ。まだお酒なんて飲める状態じゃないのに」
なんだと? まったくそんな素振りは感じなかったぞ。
怪我を負っていた? いつからだ? そういえば、会うのは随分と久しぶりだったが……。
昨日の様子と最近会わなかった不自然さを思い出し、俺は自分の間抜けさに歯噛みする。
「……魔物か?」
「えぇ。もう一ヶ月半くらい前だけど」
カナタの話では、魔物と遭遇したのは一ヶ月半前。緊急コールで呼び出され、出動した先で不意をつかれたとのことであった。
「あのオッサンが不意をねぇ。そりゃ引退も考えるわけだ」
バンッとカナタが拳をテーブルに打ち付けた。睨む視線は怒りと侮蔑が含まれている。
まだ出会って間もないが、それだけでこの女刑事がどれだけオッサンを尊敬しているのかが窺い知れた。怒りを向けられているにも関わらず、俺はそのことに僅かに頬を緩めてしまう。
「見下してるわけじゃねぇよ。むしろ尊敬してる。異能も持たず、これまでずっと体一つで魔物と対峙してきたんだからな」
その言葉が意外だったのか。一瞬きょとんとし、カナタは振り上げた拳の降ろし場所を失ったようだ。
「異能の血がなけりゃ魔物は殺せねぇ。だが触れられるんなら捕まえられる。そう言い続けてきた男だからな、あのオッサンは」
「そうね……。私もよく言われたわ。異能があっても最後に向き合うのは体一つだ。それを忘れんじゃねぇぞ、ってね」
そうだ。あのオッサンはそういう男である。
異能なんてなくとも、困っている人がいるなら体ごとぶつかってやる。
しかしそれほどの信念を抱えていた男が、ついに引退を考えているのだ。それは雨宮カナタという異能持ちの後輩が出来たこともあるだろうが、やはり不意を突かれて怪我を負ったというのが大きいのかもしれない。
「どんな奴だった?」
「人に化けてたそうよ」
思わず「ちっ」と舌を打つ。
普段俺のもとに舞い込む依頼は、そのほとんどが獣型の魔物である。なぜなら見た目で尋常ではないとすぐ気付くからだ。
しかし相手が人に化けるタイプ。こいつらは本当に厄介である。
なにせ襲われる直前まで、そいつが魔物だと気付くことすら出来ない場合が多いのだから。
ならばオッサンが不意をつかれたのも理解出来るが、以前はそれほど人に化けるタイプは多くなかった筈だ。
「最近異常に増えてるからな。そういうのも増えてるとなると厄介だな」
その恐ろしさを彼女も叩き込まれているのだろう。雨宮カナタは首肯で同意を示し、再び拳を握り締めた。もちろんそれを向ける相手は件の魔物である。
「んで頼りない後輩を育成しようと、俺のとこに送りこんだと」
俺の言葉にカナタがギリっと歯噛みする。
恐らくそれは事実。まだ経験の浅い彼女を鍛えるために、俺の元で学んで来いというのがオッサンの意志である。
彼女もそれは理解しているのだろうが、なにせ雨宮カナタの龍ヶ崎トウマに対する評価は最悪だ。
軽薄でいい加減そうな俺に、師事などしたくないというのが本音だろう。
いやひょっとしたら、そんな俺をオッサンが認めている。そのことが、彼女の心に歪な棘を差し込んでいるのかもしれない。
「オッサンに恩義がないわけでもないが困るんだよな。こんなじゃじゃ馬を送られてもよ。お淑やかでたおやかな淑女なら、手取り足取りご教授して差し上げるんだが」
「ふんっ。私も貴方なんかに教えて貰うことなど何もないわ」
売り言葉に買い言葉というやつだ。文句は言いつつもこうして訪ねて来ているところを見ると、彼女も分かっているのだろう。これは必要なことであると。
そもそも公的機関である対策課の刑事。まだ経験が浅いとはいえ、こうした肩書を持つ人間が民間の特殊探偵に師事するというのは一見おかしいことのように感じられるかもしれない。
だが魔物というオカルトめいた存在を実害があるとは知りつつ、警察という組織は公に認めることを嫌がっているのだ。
そのため『対策課』というよく分からない部署を設けはしたが、予算も人員も割くつもりはなく。一向に人材が育っていないのが実情なのである。
ゆえに対魔の力を持つ新人は同じく対魔の力を持つ民間組織。そこで経験や技術を学ぶというのが慣例化していたのだ。こちらとしては迷惑極まりないことなのだが。
「先輩の顔もあるから仕方なくよ」
「はんっ! その言葉そっくりそのままお返ししてやるよ。ったく、これだから面倒くせぇんだ。経験のない奴は」
「……は?」
ふん。意味が通じなかったか?
どうせ真面目そうなコイツのことだ。経験という言葉から想像出来たのは『戦闘の』とか『魔物と対峙する』なんかの枕詞だけだろう。
その様子を嘲笑し、俺は本当の意味を教えてやる。
「お前処女だろ?」
刹那の後。
俺の顔面にカナタの拳が突き刺さったのは言うまでもなかった。
……。
「帰ったか?」
目を開けると、蛍光灯の明かりがチカチカと目に痛い。というか、どうやら気絶していたらしい。
さすが対策課の期待の新人。とんでもねぇ女だぜ……。
「はいマスター。突然マスターがお眠りになられましたので、雨宮カナタにはお帰りいただきました」
「いやお前。あれがそう見えたのなら、ポンコツ具合ここに極まれりだな」
どうやらこっちもとんでもないポンコツらしい。
女難の相に塗れるのはハードボイルドの宿命とはいえ、こういうのは望んでないんだがなぁ。
そう嘆息しつつ、眠りから覚めた脳細胞を俺はゆっくりと再始動させ始めた。
考えるのは、雨宮カナタの突然の来訪で途切れてしまった白石リンからの依頼についてのことである。
「今何時だ?」
「二十時三十六分五十一秒です」
ふむと頷き、俺は天井を見上げた。
星々が煌くように、頭の中をいくつもの推理の欠片が流れていく。
それはまるで、バラバラのパズルを組み立てるかのごとく。一つ一つのピースをはめ込む作業に似ていた。
いなくなった夫。過保護な母。無邪気な一人娘。閉ざされた部屋で見えたもの。かつては居たアンドロイド。
ピースを手に取って眺めては、最適な場所へと置いていく。
荒された寝室。怪我を負った娘。残された体毛。恐怖。
言葉と事象が絡み合い、全てのピースが組みあがった絵を見て。俺は思わず呟いていた。
「そんなことあんのかねぇ……」
出来上がったのは見たことのない図柄。
しかしピースは余す事無く、しっかりとはまっている。
ならば、それが答えなのだろう。
「どうぞ」
珍しく気を利かせたのか。
何を言うでもなく、目の前にコーヒーが置かれた。
導き出した結論を飲み込むように、黒い液体を喉へと流し込む。
だがいつもよりそれは、強い苦味を伴った気がした。