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case3 捕らわれの探偵1

 《2078年5月25日》


 後頭部の痛みで、泥濘に沈んでいた意識がようやく浮かび上がる。

 どうやら長いこと眠っていたらしい。蛍光灯の明かりに目を焼かれそうになり、反射的に俺は開きかけた瞼をギュッと閉じた。

 だが、いつまでもこうしているわけにはいかない。眩しさに慣らすよう、恐る恐ると瞼を開く。


 見えた景色は、見覚えの無い倉庫のようだった。

 隅にはダンボールなどが積まれており、窓は見当たらない。全体的に埃っぽく、ここが長い間使われていなかったのだろうと推測出来る。

 そんな三メートル四方の狭い部屋に放り投げられ、床を転がらされている俺。


 唯一の出口である扉へ向かおうとグイッと体を捩ってみたが、ゴロンと寝返りを打つのが精一杯だった。

 立ち上がろうにも足首は束ねて縛られ、手で解こうにも後手にされている。もちろん親指の付け根同士をガッチリ拘束された状態でだ。


 有体に言えば、なるほど。

 天才的な特殊探偵である龍ヶ崎トウマは、どうやら拉致されてしまったようである。


 ……冗談じゃないっ!


 一瞬パニックになりかけたが、そこで大声を出すなどという愚を犯す俺ではない。俺を拉致した不届き者が、まだ近くにいるかもしれないからな。

 冷静に。冷静にである。


 見える限りの周りの状況を確認し、自分の身体に異変がないか隅々まで意識を巡らせ。

 そうして全てを把握してから、俺は大きく息を吸い込んで


「おしっこに行きたいっ!!」


 全力で尿意を訴えてやった。


 うむ。これは仕方ない。下手に我慢をして、明日から『漏らし探偵』などと不本意な呼ばれ方をするわけにはいかないのだ。そんなことになったらロマンスもハードボイルドも、二度と俺の手には戻ってこないだろうからな。

 映画の最中だろうが拉致されている最中だろうが、膀胱さんの意向には素直に従うべし。我が家の家訓である。


 しかしさて。

 どうしてこんなことになっているのだろうか。

 漏らすのが先か。誘拐犯が俺をトイレに連れて行ってくれるのが先か。

 なるべく後者であるようにと願いつつ、誰かがこの部屋にやってくるまでの間。俺は、こうなるまでの経緯を思い起こすことにしたのだった。



 ……。



 遡ること三日前。

 清潔な空気の中に、ふわりとコーヒーの香りが漂う龍ヶ崎探偵事務所。その来客用椅子に座っていた雨宮カナタは、お茶請けのクッキーに手を伸ばしながら、誰に言うでもなく愚痴を零していた。


「全然依頼が来ないじゃない」


 テーブルに肘を付き、手に顎を乗せながらポリポリとクッキーを齧るカナタ。こんなところで油を売っているくらいなら署に戻ってはどうかと思うのだが、彼女はそれを頑なに拒否したのだ。


「国民様の血税で飯を食いながら怠惰を貪るとは。良いご身分だなぁ」


 皮肉を乗せて突っついてやると、叩き切られそうな視線が飛んできた。


「仕方ないでしょ。他にすることがないんだから」


 龍ヶ崎探偵事務所と同様に、対策課の方にも魔物絡みの事件が発生したという話は入ってきていないらしい。法ヶ院邸を襲った凶悪な魔物『ジャルジャバ』については目下捜索中ということだが、手がかりどころか目撃情報もパッタリと途絶えてしまい、手持ち無沙汰なのだとカナタは言う。

 とはいえ、犯人を追うだけが仕事ではない筈だ。


「署に行けば書類整理なりなんなりあるだろう? オッサンの手伝いでもして来いよ」


 はぁっ、と溜息を零し、景気づけだと言わんばかりに甘めのコーヒーをグイッと呷って。おもむろに立ち上がったカナタは、腰に手をあてこちらを見下ろしてきた。


「いい? 私がここにいる理由は三つよ」

「そんなにあるのか。暇。動きたくない。面倒くさい?」

「そんなわけないでしょっ! 一つは、その先輩からのお達し。先輩が内勤に移った分、私が貴方を見張れってことね」


 うぇ~っと、俺は露骨に顔を顰めてやる。

 カナタの先輩こと渡利嶋カズオ。俺がオッサンと呼ぶ老刑事は、この春から正式に内勤事務を専任することとなっていたのだ。

 彼は外回りの時に時折俺の様子を見にきていたのだが、どうやらその後任に雨宮カナタを選んでしまったらしい。普通ならば老男性よりも若い女性の方が断然良いに決まっていると考える俺だが、この件に関してだけは違う。


 オッサンにとってはいつまでも手のかかる坊主なのかもしれないが、俺はもうお守をされるような歳ではないのだ。

 そしてなにより。雨宮カナタは俺の好みとはかけ離れている。俺の好みはもっと柔らかい雰囲気で、おっとりしていて、優しげな微笑を見せる、胸の大きな女性である。まったくもって正反対と言えるな。特に最後の部分が。


「貴方がどれだけ失礼で、不埒で、下種なことを考えているのか分かってしまうのが悲しいわ」

「一緒にいる時間もそこそこ長くなったしなぁ」


 その程度で怒らなくなったのも、それこそ同じ時間を共有してきたからだろう。

 と、気を取り直して、カナタは二つ目の理由を声高に語った。


「次にミューのことね。貴方がまたこのアンドロイドに手を出さないか、それを見張る義務が私にはある」

「嫉妬か?」

「純然たる治安維持行為よ。この娘にどれだけの爆薬が仕込まれているのかは知らないけど、貴方のセクハラでここら一帯が吹き飛んだなんて冗談にもならないわ」


 この間のことはカナタに説明したのだが、彼女はその意味を深く考えてくれなかったようだ。ようするに『出張して溜まった性欲を、我が家のアンドロイドに解き放とうとした』程度の認識なのである。

 もちろんそんなプライベートな事柄は、別段咎められることではない。ミューに自爆機能などという物騒なものが付いていなければの話だが。


「もう一つは?」


 ここまで語気を強めていたカナタ。それが最後の段になると、急激にその気勢を弱めた。

 ついには消え入るような声で、ボソッと漏らすように


「……嫌味ばっかり言われるからよ」


 と言ったのである。


「嫌味? 誰にだ」

「一課の連中。なんでもあっちは今大変らしくて。暇そうにしているとその度に嫌味が飛んで来るの」


 捜査一課と言えば刑事部の花形。凶悪犯を取り締まる部署である。そこが大変となると、何か凶悪犯罪でも起きているのだろうか。


「ミュー。最近のニュースで殺人なんかの凶悪犯罪はあるか?」

「報道はされてないわよ」


 ミューが答える前に、カナタは溜息混じりにそう答えた。


「報道規制? そんなにヤバイ案件なのか?」

「詳しく言えるわけないでしょ」

「そりゃそうだ」


 対魔物に関しては、師匠と弟子のような関係である俺とカナタ。しかし民間人と公的機関で働く者という境界線はしっかり保たれており、彼女から捜査情報などを聞き出すことは出来ない。やってはならないと、俺も肝に銘じていた。


「ま、そんなわけで、ちょっと署には戻りたくないのよ」

「だからってここを溜まり場にされても困るんだが? 俺もそんなに暇じゃ――」

「暇でしょ。依頼がないんだから」


 そう断じられると、ぐぬぅと唸らざるを得ない。実際のところ、電子のお城以降めっきり依頼の数が減ってしまっていたのだ。よもや魔物までもが五月病なのかと勘繰らずにはいられない。

 おかげで俺の聖杯に溜まっている魔魂は未だに八個。使うことすら出来やしない状態である。

 こんな時に再びジャルジャバのような魔物が現れたらと思うと、正直ゾッとしない。


「んじゃ、その依頼とやらを探しに行ってみるか」


 思わぬ言葉に、カナタが眉を寄せた。


「なにか当てでもあるの?」

「あんまり当てにしたくない当てだがなぁ。まぁ、依頼があったら連絡してやる。今日のところは大人しく帰りな」


 それに納得したのかしていないのか。やや不満げな顔を覗かせつつ、雨宮カナタは渋々と引き上げていったのだった。

 緩くウェーブの掛かったセミショートを見送り、俺もジャケットを羽織る。

 向かうのはシガーバー『LosAngeles』

 胡散臭いあの日焼け顔を思い出し、俺は一つ溜息を零すのであった。



 ……。



「おや旦那。随分と暇を持て余してそうな顔つきをしていますね」


 薄暗い店内に入るとシガーの残り香と共に、嫌みったらしい声が耳を突いた。


「お前もな。相変わらず閑古鳥が大挙して押し寄せてるみたいじゃないか」

「へへっ。ま、こっちは趣味みたいなもんですから」


 相応の返しをしてやり、俺はカウンター席へ腰を下ろす。

 するとマスターであるドン・ベイパーは、何も言わずにそっと炭酸飲料を俺の前に置いた。


「おごりか? 気前がいいな」

「とっといて下さいや。迷惑料みたいなもんです」


 その言葉に俺は疑問符を浮かべたが、次の瞬間確信にも近い懸念が頭を過り


「てめぇ。さては俺を売りやがったな?」


 ドスを効かせてドンを睨みつけてやったのだ。


「情報屋は情報を売るのが商売ですからね。恨みっこなしですぜ?」


 年中日焼けしており、暗い店内でも真っ黒なサングラスを外さない胡散臭いこの男。ドンの稼業は情報屋である。

 俺もちょくちょく利用させて貰っているので信用はしているが、奴はその信用さえも金に換える男なのだった。まぁ売られて困るほどの情報もないし、売られたくないなら金を掴ませておけばいいだけの話。そう諦めると、俺の興味は買い手に移った。


「誰に売った?」

「へへっ」


 俺が聞くとドンは下卑た笑いを浮かべつつ、そっと手を差し出してくる。

 俺はそれに舌を打ちつつ、仕方なくと金を握らせてやった。どんな情報であれ、それはすべからく彼の飯のタネなのだから。


「宮園マイって女です。なんでもタブロイド紙の記者をやってるとか」

「記者? それがなんだって俺の情報なんか」

「正確には旦那の情報ってわけじゃありやせんね。『海の子事件』の生き残り。彼女はそれを探しているみたいですぜ」


 それは『海の子供達』という新興宗教の信者が暴走して起こした、爆破テロ事件のことである。

 俺や法ヶ院トシゾウのメイドをしている大和スズヒ。彼女もその事件の被害者だ。それにもう一人。忘れもしない名前が頭を過ぎったが、俺はそれを無理やり追い出す。


「もう十五年以上も前の事件だろ。そんなもん今更掘り起こしてどうしようっていうのかねぇ」

「さぁ? そこまでは存じませんが。なんにせよ、近々旦那のところを訪ねるかもしれやせん」


 悪びれもしないドンに呆れつつ、俺は炭酸飲料を口に運ぶ。

 正直あまり美味しいとは思えないが、コーヒーを置いていないこの店ではマシなほうだ。


「美人か?」


 スッキリした頭で気になったのはその一点。近々訪ねて来るとなれば、そこは聞いておかねばならない。それによって、丁寧に持て成すか居留守を使うか決まるのだから。


「可愛らしい女性でしたよ。あまり旦那好みとは言えないかもしれやせんがね」

「俺の好みまでばっちり把握しているとは、情報屋恐るべしだな」

「へへっ。そりゃどうも」


 そんな会話を最後に俺は店を出た。

 結局俺の欲しかった情報。依頼に繋がる話はなかったのである。


 辺りはすでに暗くなっていた。だがこのまま帰ってミューと顔を突き合わせていても仕方がないし、たまには一人酒としゃれ込むか。

 そう思い、俺は行きつけの居酒屋『五平』へと向かうのだった。


 この後で宮園マイと出会い、そしてとんでもない事件に巻き込まれていく。

 そのような考えは、まだ欠片も頭には浮かんでいなかった。


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