case2 ダブルブッキング6
法ヶ院邸で過ごす三日目の昼過ぎ。
俺は魔物に荒されたという庭の一角を調べるつもりでいたのだが、昨夜から降り積もった雪が全てを覆い隠してしまっていた。なので仕方なく、朝からずっとぬくぬくとベッドに包まっているのだ。
そうしてふかふかのベッドの上を転がりつつ、今日の早朝に届いたメールに何度目か分からない視線を走らせる。
『依頼していた弟の件ですが、どうやら街の西側にいると目撃情報がありました。私も向かってみますが、龍ヶ崎さんも引き続き捜索をお願い致します』
差出人は、あの巨乳の女性リスラである。
俺はこのメールにいまだ返信出来ずにいた。
引き続きと言われてもまだこちらは動いてもいないわけだし、なにより捜し人である弟。それが魔物である可能性が出てきているのだ。そして、当然それは依頼主であるリスラ本人にもである。
「まいったな」
なんと返すべきか。どう動くべきか。
まずは弟とやらが本当にカナタの追っている魔物なのかどうかを調べるのが先決なのだろうが、今の俺はこの屋敷に捕らわれているようなもの。こちらが片付かなければ、身動きが取れないのである。
同時に依頼を受けてはならないというオッサンとの約束。あの意味をこのような形で身に染みさせられるとは……。年の功とは侮りがたいものである。
――コンコン
と、うんうん唸っていると、不意にノックの音が響いた。
「どうぞ」
「失礼します」
許可を出すと、すぐに入ってきたのは大和スズヒであった。彼女は今日も変わらずのメイドスタイルで、ふわりとした頭の上には白いカチューシャが乗っている。
「どうした?」
「旦那様から早めに帰るとご連絡を頂きましたので、そのご報告に」
「そうか」
ならば一緒に魔物も連れ帰ってくれると仕事が終って有難いのだが。
そんな不謹慎な俺の願いを読み取ったわけではないだろうが、俺を見るスズヒの目は若干冷ややかだった。
「やることがないのは存じてますが、一日中そうしているつもりですか?」
「仕方ないだろう。本当にやることがないんだから」
まぁ彼女が怒るのも無理はないか。なにせ今日は、ずっとベッドの上から動いていないのだ。
自堕落ここに極まれり。自宅警備員もかくやといった有様である。
「少し外を散歩してみては?」
「嫌だ。寒い」
「もう……」
とはいえ、確かにこのままというのもどうかと思う。
一応俺は雇われてここに来ているのだ。雇い主の前で、ベッドに包まる姿を見せるわけにもいかないだろう。
「ったく、仕方ないな。なら昨日は見ていない裏手の庭でも見に行くか」
「はい、そうしましょう。私もお供しますので」
「雪に埋もれて何もないと思うけどな」
……。
亀よりもゆっくりと、牛歩戦術並の鈍重な動きで着替えを済ませ、ようやく俺は庭へと出て来た。
止んではいるが、降り積もった雪があたり一面を真っ白な世界へと変貌させている。
思ったとおり、これでは魔物の痕跡もなにもありはしないだろう。
「寒いですね」
隣では、上にカーディガンを羽織ったスズヒが肩を震わせていた。
「だから言ったじゃないか。無理に捜査しても碌なことなど……」
ないと言いかけて、俺は不自然な箇所を見つけてしまった。
「龍ヶ崎さん?」
「ちょっと待て」
咲き誇る花々を投影するための装置も雪に埋もれてしまっているのか、今日は本当に一面が真っ白になっている広大な庭。
だがその隅に、黒ずんだ箇所があるのだ。
それがなんなのか確かめるため、俺はしゃくりしゃくりと新雪を踏みしめながら庭を横切る。
「どうしたんですか急に」
その後を、スズヒも訝しみながら着いてきた。彼女は足元を濡らさないようにか、慎重に俺の足跡をなぞっているようだ。
「これはどういうことだと思う?」
黒ずんだ一角に辿り着き、振り返ってスズヒに訊ねてみる。
彼女は首を傾げ、うぅんと唸ってから首を振った。
「なんでしょう。ここだけ踏み均されているような……」
「そう見えるよな」
そう。そこはただ黒ずんでいるだけではない。その一帯だけ踏み固められているのだ。
まるで一晩中、誰かがここにいたように……。
「以前にこんなことは?」
「分かりません。ここはお屋敷からだと見え辛いですし、仮に誰かがいたとしても気付かないでしょうね」
注意深く周りをさらに探ると、外と庭とを隔てる鉄柵。その一部も雪がずり落ちているのが分かった。
恐らくここが侵入経路。
一晩中ここにいたと思われる何者かはこの鉄柵を乗り越えて庭へ侵入し、夜が明ける前にまた同じ箇所から帰ったのだろう。
「旦那様を狙っている魔物でしょうか?」
怯えるように、スズヒが肩を震わせた。
あれだけの被害をもたらした凶悪な魔物に、一晩中見張られていたのかもしれない。そう考えて落ち着かなくなったのだろう。
しかしそれだけに、俺は強く首を振る。
もちろんそれはスズヒを安心させてやるためだ。実際にその可能性がないわけじゃないしな。
だが相手は屋敷の真ん中で大暴れするような豪胆な魔物だ。今更こそこそと、そんなことをするだろうかという疑念も、同時に浮かび上がっていたのである。
となれば、一体この跡は何者が残したのか……。
パズルを完成させるピースが圧倒的に足りないことに歯噛みし、俺はさらに思考を巡らせる。そんな俺に、否定されたことで少し安心したのか。スズヒは余裕を取り戻した顔で時計を見やり
「あ、龍ヶ崎さん。お考えの途中で申し訳ないのですが、旦那様がお帰りになられるみたいです。出迎えに行かなければなりませんので、私はこれで失礼しますね」
と言ってきた。
俺は立ち去りかけるスズヒの背中を呼び止める。
「いや、俺も行こう。顔を合わせるのも嫌ではあるが、聞いておかなければならない話もあるしな」
これ以上ここで考えていても埒があかない。その埒をこじ開けるには、トシゾウを問い詰める必要があるだろう。あの爺様が、きちんと答えてくれればの話だがな。
そうゲンナリと肩を落とし、俺はスズヒに同道することにしたのだった。
……。
「お帰りなさいませ旦那様」
俺に対する時よりも遥かにビシッとした態度で、スズヒは腰を直角に曲げていた。
もちろん俺は平然と突っ立ったままであるが。
「ぐぬぅ! なんじゃ貴様はっ! ワシの血圧を上げさせるためにここにいるんじゃなかろうなっ!」
「爺様に頭を下げるとこまでは料金に含まれてないんでねぇ。なんならオプションつけるかい?」
「やかましいわっ!」
ズンズンと肩を怒らせて進むトシゾウ。その後ろを着いて行くスズヒは、一度俺を振り返って『めっ!』と声には出さず口だけ動かした。それに肩を竦めつつ、俺もその後ろをついていく。
どうやらトシゾウはそのまま自室へは戻らず、書斎へと入るようだ。
ここは当然ながら、俺も初めて入る部屋である。今は紙媒体の本など珍しいが、古い人間であるトシゾウは好んで紙の書籍を買い集めているようだった。壁一面を、ところ狭しと本棚が埋め尽くしている。
「で、なんじゃ? なにか話しでもあるんじゃないのか?」
椅子にどっかりと座り、すぐさまパソコンを立ち上げたトシゾウ。視線はモニターに固定したまま、棘の含んだ声音でこちらに問いかけてきた。
「そろそろ退屈だ。帰りたいんだが?」
「魔物も倒さんうちにか?」
「出てこないじゃないか」
「まだ三日じゃろ。せめてあと数日は我慢せんか」
俺の提案は、二もなく却下されてしまう。まぁ予想通りではあるが。
「ならせめて、もう少し魔物に怯えてくれないか?」
「どういう意味じゃ?」
そして、これこそが俺の懸念事項だった。
トシゾウが魔物に狙われている。これは本当のことなのだろう。
しかし当の本人にはそんな危機感を感じられないし、恐れているようには全く見えないのだ。
魔物が『恐怖を喰らう』タイプである場合、これでは一向に現れてくれないことが予想される。餌の付いていない針を垂らし続けても、魚が食いつくことなどないのである。
それを説明するとトシゾウはふんっと鼻息をならし、こちらに視線を向けた。
「心配せんでもじきにやってくるわい。お主はただそれを待ち、首尾よく撃退すればそれでよい」
「なぜそう言い切れる」
するとトシゾウは立ち上がり、こちらに背を向けて窓の外を見た。ここからだと先ほどまでいた庭の黒ずんだ箇所。あの場所が、視界の端に少しかかっている。俺はそちらを見ながら、トシゾウから答えが返ってくるのを待ち続けた。
しかしもったいぶったように微動だにしなかったトシゾウが次に口を開いた時。そこから飛び出したのは、予想外の言葉であった。
「未来とはなんじゃ?」
唐突に。
あまりにも不意打ちな質問に、俺は思わず面食らってしまった。
「例えば占い。百発百中の占い師がいたとして、未来を当てられるということは、未来は確定している。そういうことではないのか?」
「随分とオカルティックな話をするんだな。大企業を一代で築き上げたというから、もっとリアリストなのかと思っていたぞ」
もう一度ふんっと鼻を鳴らしたトシゾウは、ゆっくりとこちらへ振り向いた。その顔には質問に答えろと書いてあるようで、俺は少しだけトシゾウの与太話に付き合ってやることにする。
「そもそも未来なんてものは今を積み重ねた結果でしかない。なら今から未来を予測することは出来ても、確定した未来があってそこに向かっているだけなんて話は荒唐無稽もいいとこだ」
「ならば未来は変えられると?」
「決まってないもんは変えるも変えないもないだろ。爺様の寿命がそう長くはなさそうだってのは、変えられない未来かもしれないがな」
皮肉混じりに答えてやるが、トシゾウは意にも返さないようである。
思案気に顔を俯かせ、右へ左へと視線を泳がせていた。
「そうじゃ。未来は決まっていないかもしれないが、決まっている。いや、避けられぬことというのは必ずある。だがどうしてもそれを避けたいと思ったなら、どうするべきかの」
寿命で死にそうだからそれを避けたい。トシゾウが言っているのは、そんな単純なことではないのかもしれない。俺はそう思った。
「どうしても避けられないってんなら、そもそも道を間違ってんだろ? そこに行き着くずっと前。どこかに分岐路はあった筈だと俺は考えるがね」
「ほぅ?」
「もっとも間違っていたかどうかなんてその時になってみなけりゃ分かる筈もない。それに、間違ったと思っていた道が思わぬ抜け道だった。そんなことだって、人生には往々にしてあるもんだろ」
俺の答えに賛同したとは言い難いものの、トシゾウは一定の満足を得たようだ。ふむと頷き、爺様は再び椅子に腰を下ろした。
そして目頭に指をあてると、ヒラヒラと手を振る。もう出て行けということだろう。
こちらの質問を大して受け付けず一方的に哲学問答をしただけとは、何様のつもりなのだろうかこの爺様は。
「ちっ。俺も暇じゃあないんだ。魔物を退治して欲しけりゃ、さっさと魔物を目の前に連れて来て欲しいもんだな」
俺は一休さんのトンチのような言葉を吐き捨て、トシゾウの書斎から退室した。
しかし、神様というやつはいるのかもしれない。
その深夜。
大きな獣の足跡が、正門から真っ直ぐにこの屋敷へと踏み入って来たのだ。
威風堂々と。その存在を主張するように。
全身を鋼の体毛で覆われた二足歩行の巨大な獣は、額についたバツ印の傷跡をゴシゴシと撫で擦り、電子のお城を見上げたのだった。




