case1 残酷な依頼1
《2077年11月26日 2,317,065》
目の前に犬がいた。だが普通の犬とは様子が違う。
そいつの全身は真っ黒く鋼のような体毛に覆われており、畳をガッチリと噛んでいる爪は驚くほど鋭利だ。血走った眼には相手を射殺すほど殺気を漲らせていて、歯は全てが牙と呼べるほどに尖っている。まるで敵を殺傷することに特化しているかのように。
そしてなにより違うのは、コイツがこの世の理から外れているということ。
通常の打撃、刃、銃弾。それらを受け付けない身体を持ち、そして人を喰らう化物。
――つまるところ、魔物である。
「グルルルルルッ」
その魔物が俺を敵と認識し。いや、恐らくは狩るべき獲物と認識したのだろう。狭い仏間の中で、魔物は俺を睨みつけながら喉を鳴らしていた。
「科学万能のこんな時代なのになぁ。何を迷って出てきてんだか」
とはいえこういう輩と対峙するのは慣れたものである。なにせ俺は特殊探偵。魔物と呼ばれるモノを狩り、魔物が関わっていると思しき事件を専門に解決するのが生業なのだから。
特殊探偵の龍ヶ崎トウマと言えば、この業界ではちょっと名の通った男なのである。自慢じゃないがな。
「見たところ大した力もなさそうだ。ペロリと平らげてやるぜ」
気楽に言ってやると、それを侮辱と受け取ったのか。破れた障子の隙間から差し込む月の光を浴びて、魔物の眼光が鋭さを増した。
奴が吐き出す白い息は血生臭い獣臭。それが畳みの匂いや、仏間特有の線香の残り香までも塗りつぶしていることに不愉快さを感じ、俺は眉を顰めた。
ここまで濃厚な臭気ならば間違いない。こいつはすでに、人を喰らったのだ。
「だからお前はこれから俺に喰われるし、俺はそれを悪いとも思わない。食物連鎖だ。分かるか?」
返答とばかりにズザッと藺草が弾けた。魔物が畳を蹴って飛び掛ってきたのだ。
しかし予測済み。『死線』も見えていない。
――プシュ
水気を帯びた間抜けな音とともに、俺の手に握られた対魔銃から血弾が発射された。
それは吸い込まれるように、寸分違わず魔物の額へ命中する。
「っと」
額を穿たれた魔物は、そうと気付く間もなく一瞬で絶命した。だが飛び掛ってきた勢いまでは殺すことが出来ず、ひょいっとそれを避けると獣の身体はそのまま襖へ突っ込んでいった。
当然ながらその四肢には、もうなんの意志も通っていない。ゆえに着地などと行儀のよいことは出来ず、二転三転した後、魔物は隣の居間にある箪笥にぶつかってようやく止まったのだった。
「あちゃあ……。まさか修理代を請求されたりはしないよな?」
愚痴を零しつつ散らばった木片やガラスを踏まないように。俺はゆっくりと魔物の死骸へと近付いた。
糸の切れた人形のようにぐったりとしているそれを足先でちょんちょんと突き、確実に死んでいることを確認。問題なさそうなので、台所の隅に隠れているであろう依頼人を大声で呼ぶことにする。
「終ったぜ婆さん!」
物音がしなくなったことから片が付いたことを予測していたのか。呼びかけるとすぐに姿を現した老婆は
「ひぃっ」
と魔物の死骸を目の当たりにして息を飲んだ。
「コイツで間違いないかい?」
そんな態度も慣れたもの。老婆の様子には構わず、俺は標的がコレで間違いないかを依頼人に確認する。まぁこの家にいたのだから、老婆を狙っていた魔物というのがコイツなのは間違いないと確信していたが。事実、問われた老婆はへたり込みそうな体を柱で支えつつ、コクコクと首肯していた。
「んじゃ依頼完了ってことで。来週中には依頼料の振込みを頼むぜ?」
背中越しにそう告げると、今度は魔物の額に手を当てる。するとポワッとした光球が魔物の額から浮かびあがり、それは俺の手の平へと吸い込まれていった。
「な、なにをしているんで……?」
怯えからか寒さからか。震える手で必死に柱を掴みながら、それでも俺の行動が気になったのだろう。老婆が怪訝そうにこちらを覗き見ていた。
「喰ってるのさ」
予想外の言葉に再び息を飲んだ老婆を尻目に、やるべきことを終えた俺は立ち上がって居間を後にする。
玄関から外へと出れば、銀色の風が肌を刺した。
「寒っ!」
思わずごちてからブルリと肩を揺すり、俺は深緑色のモッズコートに首を窄める。
澄み切った空は薄墨を零したようで、白い月がぽっかりと浮かんでいた。そろそろ雪が降りそうだなと思いながら、俺は家路を急ぐことにするのであった。
……。
ニューポートセンター街。
一昔前は大都会と呼べるほどの賑わいだったらしいこの街だが、今は寂れた歓楽街だ。
時代の流れに取り残されたような街並みには毒々しいネオンが煌き、そこかしこで性風俗用のアンドロイドが客引きをしている。居酒屋やバーも多いのだが、夜中のこの時間でも客はまばら。だが、そんな街を俺は気に入っているのだ。
雑踏というほど人気があるわけじゃない大通りからさらに一本路地へ入れば、もう人通りは皆無である。ほとんどの雑居ビルが『テナント募集中』になっており、その中の一つ。築五十年は越えていそうな、ボロい五階建てのビル。その地下階段を俺は下りていった。
階段を下りた先は真っ暗な通路になっていて、突き当たりの鉄扉には『龍ヶ崎探偵事務所』と書いてある。ここが俺の事務所兼寝床というわけだ。
「ただいまっと」
ギィッと音を立てさせて扉を開くと、暖かな空気と共にコーヒーの良い香りがフワッと漏れ出てきた。
「おかえりなさいませマスター」
同時に、冷たさすら感じさせる声も掛けられる。
帰宅の挨拶は、別に特定の誰かに向けて発したものではなかった。ただの習慣であり、返事があることを期待したものですらないのだ。
にも関わらず帰宅を迎えられ一瞬戸惑ったものの、その声の主に思い当たって俺は嘆息した。
「そういや居たんだったな、お前が」
コートをハンガーに掛けつつ、声の主を横目で見やる。
と言っても、本当に忘れていたというわけではない。居なくなっててくれないかなとか、実は夢でしたということにならないかなとか、そんな願望混じりの皮肉だったのだ。だが現実というのはそう都合よくはいかないらしい。
望みもしないのに居座っている『家庭用生活補助アンドロイドDe-17Myu』通称ミューは、俺の言葉の意味を計りかねているのか。エメラルドグリーンの瞳で首を傾げてみせた。見た目は十七歳くらい。僅かに幼さを残した、可愛さと美しさが同居する魅力的な仕草である。
「マスターの留守を守るのが私の役目ですので」
「頼んだ覚えはないんだがなぁ」
「そういうものです」
はぁっ、とワザとらしく溜息を零してから、俺は草臥れたソファーへと腰を落ち着けた。するとすぐさまテーブルにカップが置かれ、淹れたてのコーヒーが注がれていく。
「新機種のモニターねぇ。なんの懸賞で当選したのか、皆目検討もつかないんだが……」
今の時代。家庭用のアンドロイドは広く一般に普及しており、その技術も日進月歩。今や一家に一台が当たり前なのだ。
だが俺は好んでアンドロイドを購入する予定はなかったし、必要だとも思っていなかった。むしろ一人でいるほうが安らぐというものなのだが、突如としてコイツがここに届いてしまったのである。
「当たるなら高級コーヒー豆や珍しい葉巻が良かったんだが」
「最高級にして最新鋭の当機を、そのような日用品や骨董嗜好品と比べられるのは遺憾です。マスター、訂正を」
コーヒーをカップに注ぐ手つきは柔らかだが、少し釣りあがった目尻。スッと通った鼻筋。意志の強さを表すように引き結ばれた唇。
作り物らしく欠点の見当たらない美しい顔でぴしゃりと言われると、思わず尻込みしたくなる迫力がそこにはあった。あったのだが、それでも文句を言わずにはいられない。
「並べたんじゃなくて、お前の方が不要だって言ってんだよ。察しろポンコツ」
「一体何がご不満だと言うのでしょうか。プログラム改善のため、ご指摘頂ければ幸いです」
口ぶりは謙虚だが、能面のような無表情から反省の色は微塵も感じられない。というか、コイツはたぶん本当に反省していないのだ。
なので俺は、望み通りに不満点を指摘してやる。
「依頼の受付。お前出来るって言ったよな?」
「当然ですマスター。一般事務は一通りインプットされております」
「で、俺はお前が受けた依頼通り、魔物を退治してきたわけだ」
「お疲れ様でしたマスター」
「うるせぇよ。……依頼を受けるかどうかの判断基準を、俺はお前になんと言った?」
指をこめかみにあて、思い出すような仕草を見せるミュー。なのだが彼女は高性能を謳っているし、付随されてきたスペック表に嘘がなければそれは真実の筈である。なので記憶の読み込みなど一瞬で終るだろうに、なぜこうも人間臭い動きをするのか。
これが人に近付く進歩というなら、そんな拘りは技術者の趣味か下らないエゴでしかない。そのエゴの集大成に苛立ちを感じ始めていると、彼女は思い出したかのように口を開いた。
「遠方の依頼は却下。魔物が絡んでいる可能性が五割以上あるもので、女性の依頼主に限る。そう記憶しております」
「婆さんじゃねぇか!」
「女性です」
まったくもって話にならん。
アンドロイドの進歩を求めるなら、そんな人間臭い動きよりもマスターの心を読み解く方に注力すべきだろう?
つまり俺が『女性の依頼主』と言付けたならば、それは『十八歳~二十七歳くらいの女性』と解釈できるようになれよと、そういうことである。
「改めて聞くが、ミュー。お前を突き返すことは本当に不可能なのか?」
「出来かねます」
無理やり押し付けられた新機種モニター。そこに付随されていた封書には、このように書かれていたのだ。
『当機種のモニター期間は二年です。その間の返品、返却は一切受け付けておりません。また無断での破棄、破壊は賠償金を請求させていただくことがございますので、予めご了承下さい』
新手の詐欺を疑わずにはいられない。もしくは嫌がらせである。
特殊探偵として様々な事件に関わってきた俺だからな。恨みの一つや二つは買っているかもしれないので、その可能性は否定出来ないだろう。
ともあれコーヒーカップを口へ運べば、自分で淹れたよりも香りも味も際立った液体が喉を潤してくれるし、埃っぽかったこの事務所もいつの間にやら清潔感に溢れている。
そこだけみれば、家庭用補助機械としては優秀なのかもしれない。
「コーヒーの淹れ方と掃除だけは上手いんだがなぁ」
「お褒めに預かり光栄ですが、だけとは心外ですマスター」
「なぜに一言多いのか……」
見た目も十分以上に整っているし、なにより流行りとは逆行した色素の薄いセミロングは俺好みである。表情に変化が乏しいため冷たい印象を受けるが、それも相まってヴィクトリアン調のメイド服に身を包んだ姿は王室メイド長のような雰囲気すらある。
「だが使えないことに変わりはないしなぁ。モニターの権利ごと他の人間に譲渡するというのはどうだ?」
「認められておりません」
「マスター権限の移管は――」
「不可能です」
「ぐぬぬ……。いっそ電源を切ってしまうか」
はぁっと溜息を付いたりはしなかったし、そもそもアンドロイドは呼吸すらしていない。しかしそうとしか思えない表情を作り、ミューは静かに告げた。
「電源は工場でしか操作出来ません。また充電は一定以上の光量さえあれば十分ですので、必要ありません。つまり、私が稼動を止めることはありません」
「へー。すごいねー」
「最新鋭ですから」
思いっきり皮肉を込めたにも関わらずサラリと流され、俺は頭を抱えざるを得なかった。
ことここに至っては共生共存……否、強制共存を覚悟しなくてはならないのだ。
「……分かった。ならせめて、依頼受諾の判断基準を書き換えてくれ」
「了承しました。どうぞ」
「若い女からの依頼限定だ。分かったか?」
「かしこまりましたマスター」
ニコリともしないミューにもう一度溜息を零し、俺はソファーへ顔を埋めた。
魔物を倒し、依頼を完了し、そのうえミューの相手で精神が疲れきってしまっていたのだ。
二年という縛りは短いようで長い。
遥か遠くなってしまった平穏な生活を恋しく思い、俺はそのまま眠りへと落ちることにする。
だが、この時の俺は知らなかった。
平穏な生活など、二度と訪れないということに。
なぜならばあと二年。
ミューを返還する前に、人類は滅びるのだから。