一話 妻の名は、みどり
ヒロインが登場します。
ヒロインです。誰がなんと言おうと、彼女がヒロインです。
「なぜだ!」
肌を突き刺す寒さが猛威を振るう二月。
首都圏平野部で珍しく雪が積もった、冬の土曜日の昼下がり。
神奈川県内にある自宅のマンションで、急に叫び始めた中年の男がいた。
二年前、彼は結婚を機に三十年ローンを組んで、マンションを購入した。
ローン地獄の入り口に足を突っ込んでしまった男の名前は、御幸青太という。
先日、三十七歳になった、冴えないおっさんだ。
青太は、某ソフトウェア会社に勤めるサラリーマンだが、別の顔も持つ。
ラノベ作家志望。それが青太の、もう一つの顔だ。
彼が小説を書き始めたのは、大学一年生の時。
初めて新人賞へ投稿したのは、大学三年生の夏。年齢は二十歳だった。
それから、かれこれ十七年。
投稿と落選を繰り返し、いまだに夢は叶えられていない。
今日もまた、新人賞の途中経過を確認すれば、落選していた。
昔は、落選を糧にして、次の作品へ繋げたものだ。
十七年もたつと、素直に結果を受け止めることもできない。
「面白いだろ! 最高だろ! なのに一次選考落選だと! ふざけてんのか!」
感情を爆発させた青太は、手に持っていたタブレットを、クッションに向けて思い切り投げつけた。
ただの八つ当たりだが、壊れないように配慮する自制心は残っていたようだ。
ボスン、という情けない音がするが、青太の気は晴れない。
「見る目ない! 審査員連中は見る目がない! そもそも、ちゃんと読んでるのか!? 飽きるくらい投稿してきたせいで、『またこいつか。どうせつまらない作品なんだし、読まずに落選にしてやれ』とかしてるんじゃないのか!?」
非常に失礼なことを言いながら、髪の毛をかきむしる。
三十代も半ばを超えて、生え際が気になりだした頭から、貴重な毛が数本、はらりと儚い命を散らした。
愚かな真似をしなければ生きられたはずの命が、哀れにも。
無意味に頭皮を傷付けてしまったこと、毛を無駄にしてしまったこと。
これも全ては、審査員が悪い。青太の作品の面白さを認めない審査員が。
責任転嫁もはなはだしい暴論だが、今の青太に正論は通じない。
次なる八つ当たり対象を探す青太の前に、格好の獲物が現れた。
「何やってるのよ、一体」
青太に声をかけてきたのは、地味な様相の女性だ。
暖かそうだが色気は皆無の部屋着を着て、髪は無造作にヘアゴムでまとめている。容姿は可もなく不可もなくといったところで、スタイルだって凡庸だ。
特徴と言えそうな点は、身長だろうか。百五十センチに届かないであろう小柄で細い体つきのせいで、実年齢よりもやや下に見える。
しかし彼女は子供ではなく、立派な大人。
それも、三十路まであとわずかと迫っており、若いとは言えなくなりつつある。
「人が掃除してるのに、髪の毛を落として汚さないでよ」
手に持った掃除機を見せつけるように前に出して、青太の行動を批判した。
彼女は今、掃除の最中のようだ。
取り乱している青太とは違い、実に冷静で落ち着いた話し方だった。
「ええい、うるさいうるさい! 掃除がなんだ! お前は、ショックを受けてる人間を慰めることもできないのか!」
「ああ、うん。今の言葉で、事情はあらかた把握できたわ。また、落ちたんだ」
「ぐはっ!」
また、の部分を強調されて、青太は胸を押さえてのけぞった。
大げさな反応だが、これは彼なりの甘え方だったりする。
先ほどから青太と会話をしている女性の名は、御幸みどり。
苗字が同じである点から推察できるだろうが、青太の妻だ。
二年前に結婚した妻は、なんだかんだノリのいい性格をしているため、青太は時々こうやって突っ込み待ちのような行動に出る。
案の定、妻のみどりは、追い打ちをかけるように言葉を続けた。
「そういえばこの前、ライトノベルの新人賞に応募してたもんね。毎度のことながら、落選が目に見えてるのによくやると思ってたけど、やっぱり落ちたんでしょ。応募から二ヶ月ちょっとだし、一次選考落ち? 十年以上書いてるくせに?」
切れ味鋭い言葉が投げかけられ、青太は芸人のようにわざとらしくよろめく。
「休日は私を放ったらかしで、家事も手伝わずに小説を書いてばかりのくせに、その成果が一次選考落選。いやあ、見事ね。あなたの苦労はなんだったのかしら。陰で支えた私も報われないわね、本当に」
「いやあの、ちょっと……」
「落選するだけならまだしも、関係ない私に八つ当たりするとか、人としてどうかと思うわよ。聞き分けのない小さな子供が癇癪起こしてるわけでもあるまいし、いい歳した大人が。小説を書くっていう青太の趣味は認めてるし、プロの作家になりたいって夢も応援するけどさ、だからって私に当たらないで」
「あぅうう……」
「大体、長年書き続けて、いまだに一次選考で落選するようなら、才能ないんじゃないの? いい加減、現実を見て、諦めたら? 最近は仕事も忙しくなって、小説を書く時間が作れないって言ってたじゃない。いい機会よ。サラリーマン一本で定年まで勤め上げる気概でいる方が、よっぽど有意義な人生になりそうだけど」
「…………」
「言っておくけど、会社を辞めて小説家を目指すとか言い出したら、離婚だからね。仕事をしながら書いてるから、認めてあげてるの。夢を追いかけるのは自由だけど、その夢に私を巻き込まないでちょうだい」
最初は、わざと傷付いたふりをしていた。
だが、妻の歯に衣着せぬ物言いに、演技ではなくガチで傷付いてしまった。
というか、みどりは随分と辛辣だ。
普段はここまで冷たくないので、よほど腹に据えかねていたのかもしれない。
青太は、両手両膝を床について、がっくりとうなだれる。
言いたいことを言い切ったみどりは、青太を無視して掃除機をかけ始めた。
心なしか、すっきりした表情をしているように見える。
容赦のない発言に加えて、青太を邪魔者扱いするように掃除機をかけられてしまい、彼の脆弱なメンタルはボキボキに複雑骨折してしまった。
もちろん、みどりは無視だ。慣れた手つきで掃除を続ける。
青太がうなだれている場所を除いて掃除機をかけ終わると、掃除機を置いてそそくさと部屋を出て行った。
あなたのいる場所は自分で掃除してね、と暗に言っているのだ。
なんとも冷たい態度だが、これでも一応、夫婦の仲は良好……のはずだ。
青太はみどりを愛してるし、みどりも青太を愛してくれている……はずだ。
時々、「離婚」の二文字が飛び出すが、際どい冗談を言える仲……のはずだ。
はずだ、と連呼してしまうほど自信がなかったりもするが、きっと大丈夫。
だって、まだ結婚して二年だ。倦怠期に突入するのは早い。
それにもう一つ、夫婦仲は大丈夫だと言える根拠がある。
みどりは現在、青太の子供を身ごもっている。要は妊婦だ。
妊娠六週目で、先日産婦人科に行き、妊娠が確定したばかり。
男の青太には知識がなかったが、妊娠したと思っても、すぐに確定するわけではないらしい。みどりは、妊娠検査薬で陽性反応が出たので産婦人科を受診したが、最初は確定せずに翌週もう一度と言われてしまった。
で、妊娠六週目になって、ようやく妊娠確定となった。
いつ確定するかは個人差があり、早い人もいれば遅い人もいるとか。
妊娠確定となった時は、青太もみどりも、それは喜んだものだ。
結婚して早二年。二人とも、結婚当初から子供が欲しかったのに、なかなか妊娠せずにやきもきしていた。
それが報われたのだから、喜ばないはずがない。
まだ妊娠初期だが、子供ができたというのは感慨深いものがある。
ただ、青太にとっては嬉しいだけで済む話でも、みどりにとっては苦労も多い。
例えば、これからつわりが重くなり、辛くなり出す。
今でも若干の吐き気はあるそうだが、さほど酷くない。
つわりを考えると、みどりは憂鬱だそうだが、こればかりは耐えてもらうほかない。妊婦の試練のようなものだ。
せめて、みどりの負担を減らすために、家事を手伝うくらいはすべきだろう。
それなのに青太といえば、頭にあるのは小説、小説。
さらに、みどりに八つ当たりする始末だ。
みどりは、不調気味の体でありながらも家事をちゃんとやってくれているし、青太のアホな冗談にも付き合ってくれる、よくできた妻だというのに。
情けない話だ。夫婦仲が険悪になって、本当に離婚されても文句は言えない。
青太は深く反省した。反省して、一つの決意をした。
十七年もの間、ずっと続けてきた、ラノベの新人賞への投稿。
それを最後にしようという決意だ。
元々、うっすらと考えていたことではある。そろそろ潮時ではないか、と。
二十代の頃はよかったのだ。
学生時代は勉強、社会人になってからは仕事があったが、それ以外のプライベートな時間は、ほぼ全て自由に使えた。自由な時間で、思う存分小説を書けた。
三十歳を過ぎた頃から、事情が変わり出す。
会社で責任のある仕事を任され始めると、残業や休日出勤が増えた。
自由な時間が減り、なかなか小説を書けない。
さらに、みどりと付き合うようになれば、彼女との時間も作る必要があった。
執筆を最優先に考えられた二十代とは違う。仕事にデートにと忙しくなった。
幸いにもみどりは、ラノベ作家を目指して小説を書くという青太の奇行に、理解を示してくれた。
思い返せば返すほど、みどりには迷惑をかけたものだと思う。
よくぞ青太を見捨てずに、結婚までしてくれたものだ。
まあ、青太が必死にアプローチをかけたので、ほだされたのかもしれないが。
顔やスタイルという点では、失礼ながら、たいしたことはない。みどりよりも優れている女性はごまんといる。
しかし、何よりも性格がいい。青太が惚れ込んだのは、みどりの内面だ。
すると不思議なもので、平凡な容姿すら可愛く見えるから、現金な話だ。
みどりのような女性とは、この先の人生で二度と出会えない。
そう思ったからこそ、絶対に手放すまいと、青太は必死になった。
なのに、結婚できたら安心して冷たくなってしまうとか、あり得ない。
だが、青太は反省した。酷い夫は卒業する。
これからは、妻と、産まれてくる子供のために、頑張ろう。
青太は、長年の夢に別れを告げる。惜別の情はあるが、家族を優先する。
ただしその前に、みどりにあることを頼まなければならない。
夢への未練を断ち切るためにも、避けては通れない道だ。




