指輪のキモチ
長い人生のほんのひとコマを切り取って表現しました。
今後もいくつかの断片を繰り広げたいと思います。
ヒマつぶしに楽しんでいただけたら幸いです。
「あら、落とし物ですよ」
人のよさそうな老婦人に呼び止められた。婦人がさし出す手には、白い小箱が乗せられている。
ぼくは丁寧に礼を言うと小箱を受け取った。
――また失敗だ。
公園のベンチにカフェのテーブル、さらに電車やバスの座席……。席を立つたびに小箱を「落とし物」してくるが、世の中は思ったよりいい人が多すぎる。このように必ずぼくの手元に戻ってきてしまう。
ぼくは――落とし物をしたいのだ。
純白で金色のふちどりが輝くジュエリーケースには、いかにも高そうな指輪が入っていそうで、一目で金目の物だとわかるはず。もちろん、本当に給料三か月分以上のダイヤモンドの指輪が収まっている。
拾った人は、警察へ落とし物として届けなくていい。換金ショップに急げばいい。あるいは自分で買ったふりをしてプレゼントに用立ててもいい。もちろん呪いのダイヤではないから安心して、自分用にしてくれてかまわない。要は拾った人の人生の足しにしてほしいのだから。
あーあ。それなのに、だ。
ぼくはまたもや手元に帰ってきてしまった小箱をキャッチボールでもするように、高く放り投げてはキャッチした。抜けるような青空に、ふちどりの金色が太陽の光を反射してキラキラ輝く。
つい昨日までは、ぼくの気持ちもキラキラ輝いていた。
とても順調に交際が続いていた、と思っていたのはぼくだけだったようだ。
奮発して予約を取ったレストラン。食後のデザートを待つ間にキャンドルの下で、そっとさし出した。
小箱は開けられることなく、ぼくの手に押し戻された。
「……ごめんなさい」
小さいけれどはっきりした声は、想定外の返事だった。
小箱を見たとたん、彼女からは魔法が解けたように甘い笑顔が消えた。その表情には、「そんなつもりではなかったのよ」とはっきり書いてあった。
呼べばすぐ来るタクシーのごとく、食事をご馳走し、心地よくさせる言葉を提供する都合のいい男。それが自分の立ち位置だと、はっきりと気づかせられた。
レストランを出て、一人で街を歩いた。
行き先もなく、理由もない。とにかく歩いた。歩きたかった。歩くことで燃え尽きて炭化した自分を何とかしたかった。
やっと疲れを感じて、座りたい。もう歩けない。と思えた頃、ようやく濁った水が沈殿して澄むように、気持ちが落ちついてきた。
行き先を失った小箱を掌に握ると、歩道の横を流れる濁った川に投げようと思った。持っていても辛いだけだ。かといって換金する気持ちにもなれなかった。
その時、ふっと頭に浮かんだ。
――物は必要とされている処におちつく。
それは、どんな物にも心があって、一番必要とされる処へ行こうとする見えない力を持っている、というぼくの持論だ。
濁った川に消えていくよりは、誰でもいい。必要とされる手に渡ってほしい。もしも指輪に羽がついていたなら、ぼくは掌を高くあげて「必要とされるところへ飛んでいけ」と心からのエールを送るだろう。
さて、どうしたものか。
一段と高く空へ放った。この際、ダイヤモンド好きの宇宙人がキャッチしてくれてもいい。ダメ、か。当然ながら小箱は放物線を描いて戻ってきた。
が。
「あっ……」
ぼくの手からすり抜けてアスファルトに落ちた小箱は、あたりどころが悪かったのかパカッと蓋が開いた。中から飛び出した指輪は台座を離れて、右に左にゆれながらひとりでよろよろと転がった。
そして拾おうとかがみかけたぼくよりもひと足早く、排水溝の網にきえた。
急いで街路樹の枝を拾って、排水溝を覗いた。意外にも深い穴の底から、ドドーッと勢いよく流れる水音がした。
それは滝の音を連想させるような音で、雑踏にまみれた都会には、不釣り合いな清らかな音に聞こえた。
枝を持ったまま排水溝を覗き込んでいるぼくに、背後から誰かが「落とし物ですか」と声をかけてきた。
おつきあいしてくださって、ありがとうございました。
よい一日でありますよう。