Prologue
済みません。
何一つ中途半端ですが、そういう人間なのです
読んでくださる方には、せめて無病息災でありますように。
本作品は多少の残酷描写等があります。気になる方は避けてください。
◇
キッチンの中で火に向かい、鍋で何かを煮込む女性が居た。
私は板張りの床を鳴らさないようにそのすぐ後ろに付く。
息を潜めていなければ、呼吸がきっとはっきりと聴こえた筈だ。
彼女は私に気付かない。だから、私は一つに束ねた両手を、弓を限界まで引き絞るように振り上げる。
振り上げる。
振り上げる。
ぴたりと、頭上より背中側まで手を引き、振り上げた。
愉しい事に、私の手には包丁が握られている。今夜はきっとお刺身だった。だって包丁は刺身包丁だから。
「‥‥‥‥ただいま」
そっと呟いた瞬間、余程料理に集中していたのか肩がびくりと跳ねた。
振り返ろうと首を捻る。
振り返られる前に、私は力一杯、両手を背中の中心に打ち込んだ。
包丁は順手ではなく逆手に。
柄は両手でしっかりと抑え込み、圧縮した渾身を一気に解放する。
ちらりと、彼女と目が合った気がした。
驚きと怒りと怖れ。
笑えるくらい複雑な感情の破片が瞳から溢れて、その次の瞬間には噴水から温かい羊水が吐き出された。
倒れていく体から包丁を抜くと、ズルリとおかしな感触がして、ブシュッと聴いた事のない音を背中から吐いた。
床に伏す女性の体から小さな海が広がって、私の心を表す真っ白なニーソックスに染み込んだ。
片足を上げると、バケツの水を水面に引っくり返した時に似た音がした。
パシャリ、パシャリ。
少し下がって、包丁を傍の台の上に置いた。
空いた手で長方形を象り、カメラのファインダーのように片目を瞑って覗き込む。
そこには、薔薇園があって、女性が横たわっている。
包丁をまた掴んだ。
汚れた。
軽く汗もかいた。
そう思って私はワンピースの襟を摘まみ、そこに包丁の刃を当てた。
最初に切れ目を入れて両手を添え、左右に引き下ろす。ビリビリと軽快な音を立ててワンピースが縦に割れ、二つになる。脱ぎ捨てると、露出した肌を撫でる空気がひんやりと気持ち良くて、アレのように思わずブルッと身震いしてしまった。
ギシギシと床を軋ませて廊下を渡る。
ドアを開き、洗面台で下着を脱ぎ捨ててその先のバスルームに入る。
包丁をパネルの床に放り、耳障りな音を聴きながらシャワーヘッドを手に取る。
適温の温水を出すと、静寂の中で心地好い水音が谺した。
それをまず全身に浴びた後で、ボディソープなどを使って丹念に体を洗った。手足の指先から、手の届く範囲を。
ざっと汚れが落ちた事を確かめてタオルで髪を拭く。
丁寧に、ゆっくりと。
長い分手間が掛かるが、髪は不出来な私の数少ない自慢だった。
髪をふきふき階段を上がり、私は自室に入る。
頭からタオルを被ったまま小さな箪笥を開け、中をまさぐる。
上段の小さな引き出しからは下着を取り出し、下段の大きな引き出しからは白い長袖の服とジーンズを取り出す。
手早く下着を身に付け、服をメイキングされたベッドの上に広げた。
背中に天使の羽根、胸に大きな十字架がプリントされたそれを着て、髪を服の下から引き出す。
ジーンズを穿き、簡素なベルトを通した。
一つ息を吐いて、私はCDプレイヤーを操作し、ぼふりとベッドの上に腰を降ろした。
曲目はクラシック。名前は知らないが、強さと儚さの曖昧な曲だ。
壁に掛かった時計の長針は九を指し、短針は五と六の間にある。
ぼんやりとしていると、さっきの感覚が戻ってくる。
肌が熱っぽくなって、頭がぽーっとする。
私は何をするでもなく体を満たす熱を感じ、重厚な音楽の世界に浸った。
私はイケナイ快感に陶酔している。それが、背徳的だと知っていながら、下腹部が疼く興奮を抑えられず、ベッドへと倒れ込んだ。
音楽と時計とそれだけが響く空間で、私は次第に微睡んでいった。
ゆっくりと、綿雲のような暗闇に包み込まれて。
◇
私は男性に跨がり、手にしている彼のモノのように小さなナイフを振り降ろした。
何度も。
何度も何度も。
既に彼の胸は真っ赤に染まり、抉れ、無数の穴が穿たれていた。
私と同様に貫かれた皮膚が裂け、そこから赤とも黒ともつかない液体が零れ、刻まれた肉はハンバーグが作れそうなくらいにミンチだった。
彼が生き絶えて既に久しい。いや、もしかすればそれは単に私の疲労がそう感じさせるだけで、本当はまだ一分と経ていないかもしれない。
首を傾いで時計を見ると、本当に二分しか進んでいない。
さっきから、この薄暗い地下室には同じ音しか響かない。
水気を含む柔い何かを刺す音。
ザシュ、ザシュ、ザシュ、ザシュ、ザシュ。
無限数を繰り返す音は、私と私が跨がる男性が奏でる最後の曲だ。傍聴者は、壁際に鎖で繋がれた無能力な牝犬だけ。
ザシュ、ザシュ、ザシュ、ザシュ‥‥‥‥。
流石に、刺し続ける事に飽きてきた。
私は冷たい石畳の上に四つん這いに降り立ち、広がった湖をパシャパシャと鳴らして男性の頭の上に移った。
いやらしかった目にはもう、滑らかな闇が沈殿しているだけだ。
手にしたナイフを左目に突き立て、引き抜いて反対にも突き立てる。
私はそれでナイフを手放し、ふらりと立ち上がった。
余程、頭に血が昇っていたのだろう。立つと同時に緩い頭痛と強い目眩がして体が振られ、たたらを踏みながらも倒れる事だけは回避した。
私がナイフを手放した事を合図にしたのか、途端に鎖の金属音がガチャガチャと反響した。
耳障りではあったが、高揚している私には不快ではなかった。それどころか、それが私の逸脱的な演奏に対する喝采のように聴こえて、潤むのが判った。
火照った体に、ふわりと冷えた心地好い風が吹く。
反射的にそちらを見ると、そこには地上に続く唯一の両開きのドアに隙間が開いていた。
私は地下室を見回す。
天井から吊り下がった電球がぼんやりと照らす四角い部屋。
壁際には一糸纏わない六人の牝犬がいて、首輪から伸びた鎖で繋がれている。
部屋の中央には仰向けに倒れた湖に浮かんだボロ雑巾な男性。
全てが普遍的に、不変的にそこにあるがまま。
滑稽で、私は下腹部から手を下に滑らせた。
付着した液体に触れ、目の前に持ってきて舌先で拭う。
鉄か、錆の味。美味しいようにも、そうでないようにも感じる、全身の熱が膨張するような味。
それを想うと、頭の中の脳の中に満ちた鮮烈な瘧が発作を起こして、くらくらと私を快楽させる。
一瞬、足元がふらついたが、特に意識するまでもなく重心を維持した。
視線を上げ、牝犬達を見渡す。全員が私を注視し、口々に鎖を外せと懇願する。
私は微笑み、囁く。
「さよなら‥‥‥」
ぴたりと、喧騒が止む。
私への眼差しは鋭く、怪訝となる。
私は甘んじてそれを背に受けながら、そっと更なる世界へと足を踏み出した。
躊躇うことなく。
◆
窓の外を見ると、赤く色付いた木々が空風に吹かれていた。
路を行く人々は寒そうに寄り添い、恋人達は楽しそうに笑い合う。
風が吹いて、僅かに窓を揺らす。
笑う声が聴こえる気がする。
私は冷えた寒空の下にいる訳ではなく、温かく密閉された部屋にいた。
いつから、ここにいるだろうか。
朝目覚めて、日課をこなし、それからはずっと窓辺の椅子に腰掛けて外を眺めていた。
もうどれくらいの間、こうしているのだろう。
私には時計は不要らしいから、私にそれを確かめる術はない。ただ、お日様が頭上より少し傾いた気がする。
定かではないけれど。
ふと、路を歩く女性に目がいった。
茶色のロングコートを羽織り、マフラーを巻いた彼女。長く綺麗な黒髪が後ろに棚引き、足取りはとても優雅だ。
その人はちらりとこちらを一瞥して、私と目が合うと、見惚れる仕草でウインクしてくれた。
そして、私からは見えない世界へと消える。
そしてまた空風が吹く。木々を鳴らして、窓を叩く。
まるで私を外の世界に呼ぶように、何度も、何度も、繰り返し、かたかたと鳴らす。
かたかた、かたかた。
鳴らす。何度も。
かたかた、かたかた。
繰り返す。何度も。
どうして繰り返すのだろうか。私はどうやってもこの暖かな牢獄から逃れられないのに。
私は、外の世界には相応しくないのに。
黒く美しい外の世界にとって、私は白く穢れた汚物の筈だ。
ずっと、そうだと言われ続けた。
それなのに、今更外の世界を私に望ませるのはどうして。
外の世界は夜空の星のように近く遠い。
手が届きそうで、絶対に届かない。
中の世界だけが罪深く穢れきった私を許諾してくれる。
いてもいいと赦してくれる。
私はその為にこの終わらない無間の苦痛に耐えてきた。
泣きたくとも泣かず、笑顔で赦しを請い続けた。
そんな私が、外の世界に出てもいいのか。
中しか知らない私は、外を見てもいいのか。
そして空風が吹く。
かたかたと窓を揺らし、今度は私の眠気を誘う子守唄のように、かたかた、かたかた、繰り返す。
頬を叩く音と鞭の音ばかりを子守唄に聴いていた私には、その優しい慈愛的な子守唄は心地好かった。
私は、耳を傾ける。
望まれたことと、望まれないこと。
望むことと、望まないこと。
一体、何を求めることが正解なのか。
得ること叶わないと知りながらも、その答えを窓外の空風に問う。
私は、私の全てを放棄してまで、外の世界を望んでもいいのか。
中の世界は、捨てることを赦してくれるのか。
空風はからからと鳴る。
かたかたと窓を叩く。
そして、答えに辿り着いた。
暖かな部屋の空気がすーっと冷たくなるのと反対に、その高揚は限りなく私のナカを熱していく。
答えは答え。
答えは一つ。
私は、私が望むから、外の世界へ行こう。
もう、煩わしい全てを、捨てる。
私は、椅子から立ち上がった。
外の世界が。
私を呼ぶ空風が、教えてくれる。
私に、できることを、教えてくれる。
初めから、外の世界こそが私の唯一の世界。
私を綴じ込めるだけの牢獄は、私の世界なんかじゃない。
だから。
私は窓から振り返り、反対側に視線を投げる。
広い部屋をちょうど二分する、整然と並ぶ冷徹なもの。
シャンデリアの吊り下がる天井から伸び、絨毯の敷かれた床に突き刺さった鉄格子。
それにゆっくりと近付き、額を押し付けると鉄の冷たさは私の熱を冷ましていく。
冷静に、機会を窺え。
私は私の為に。
彼女の為に。
この檻を、破壊しよう。
◇
空が目覚めたように、深々と雨が降り始めた。ほんの数秒で視界を切り裂くように世界を禊ぎ、熱を冷ませ、穢れを洗い流していく。
俺は、その下に傘も差さずに立ち尽くし、頭の芯の痺れを漠然と感じていた。
自分自身の凶行の断片を繰り返し反芻し、その結果をぐるりと見回す。寝転がったいくつもが、静かに眠っていた。
ぴくりと動かないそれはまるでマネキン人形のようで、少し不気味と雨に身を晒していた。コールタールが溜まったようなそこを雨粒が叩き、散らし、音を立てながら清々しいシンフォニーを奏でる。荘厳で、清浄で、汚濁としたミサ曲のようなシンフォニーを、不作為に奏でる。
耳を震わす悉く全てが、世界の嘆きのように聴こえた。
まるで、赦されざる罪を責め立てるかのように、繰り返される冷雨に混じって密やかに嘲笑する。
「‥‥‥‥」
そして、彼は静かに言葉もなく、いつの間にか後ろに立っていた。
責めるでもなく。
憐れむでもなく。
無機的に。
無感動に。
無関心に。
背中に刺さる視線と撫ぜる気配は、温かく柔らかかった。