第六話 救援
暗闇の中で、ケイのPDAが鳴った。
浅い眠りを破られたケイが、枕元からPDAを取り上げて画面を見ると、プロメターからの着信であった。
すぐに受信をタップすると、プロメターの顔が画面一杯に映った。
久しぶりに見るプロメターは、見るからにやつれているが、タチアナを通して聞くケンジントンの現状からすれば、無理からぬ事であった。
「どうした、ネッド?」
ケイは、内心の不安を圧し殺して、努めて軽い調子で呼び掛けた。
「いや、別に用事がある訳じゃ無いんだが、ちょっと手が空いたもんでな。」
プロメターも、さりげない様子で応えたが、ケイはその調子に違和感を覚えた。
「おい!ちょっと待て。変な事を考えているんじゃ無いだろうな?」
ケイが鋭く問い質すと、プロメターは肩の力を抜いて笑った。
「やっぱりお前は誤魔化せんな。義弟に最期の挨拶をしておこうかと思ってな。」
「馬鹿な、何をしようって言うんだ?」
プロメターは、坦々と話し始めた。
「今は、禁書館に立て籠る事で、ようやく一息ついた所だ。もう完全に包囲されているし、こっちの手勢は、禁書館防衛隊と禁書館に入ることができたガーディアンと合わせて200人程だから、反撃するには絶対的に人数が足らん。その上、崇高賢人会議メンバーで今ここにいるのはケネス師とアリソン師と俺だけで、その他の崇高賢者は殆ど向こうに押さえられている。」
「外部からの応援を要請する事は出来ないのか?」
「今ビジフォンで、あちこちに呼び掛けているが、反応は芳しくない。目処が立っているのは6000人程で、それも支度を整えるには、どう急いでも二週間は要るし、その他は洞が峠を決め込んでいる。」
「向こうの半分強か・・・そのまま籠城して時間を稼ぐ事は出来ないのか?」
「現状の見積りでは、籠城は一ヶ月が限界だ。」
ケイは、禁書館戦争を思い出した。
あのときは、長くても一週間以内に片がつくと思っていたので、色々無茶をしたが、それを思えば、一万の軍勢を相手に一ヶ月保てるというのは、相当入念に準備しているのであろう。
しかし、それだけの持久に成功しても、やって来る援軍は包囲軍の半分強でしかない。
まず、歯が立つまい。
「だからケネス師は、自分が直接掛け合いに行って、洞が峠の連中を引っ張り出すしかないと判断した。自身が包囲陣を掻い潜って脱出する覚悟だ。失敗しても、このまま座して死を待つよりは華々しく散る方が良いと考えている。俺も同感だ。どうせ、今更降伏しても吊るされるだけだからな。万に一つの僥倖を期待して今夜、脱出を試みる。恐らく明日の朝にはもう片が着いているだろう。これからその準備に掛かるんで、忙しくなる前にお前の顔を見ておきたかったんだ。」
その口振りから、プロメターは成功の見込みは無いと思っている事を知ったケイは愕然とした。
「待つんだ!そのまま籠城を続ける訳にはいかないのか?」
プロメターは、まるで他人事のように応えた。
「それで事態が好転する見込みは無い。今考えられる希望はこれしかない。それに、ダグが望みも無いのに助けに来ようとしている。止めても聞くやつじゃないからな。そうなれば、ダグや教団の若者達も巻き添えになる。だから、その前に片を付けなくてはならない。」
プロメターが諦めているという事は、事態はほぼ絶望的だという事だ。
ケイは、必死に引き留める言葉を探そうとしたが、何も言えなかった。
「最期にお前と話せて、気が楽になったよ。いままで有り難う。」
そう言って、プロメターは通信を切った。
ケイは、PDAの時刻表示にちらりと目をやった。
現在時刻は午前2時、こことケンジントンの時差は14時間だから向こうは正午だ。
夜襲と言うからには、相手方が寝入ってから動き出す積もりだろうから、恐らく0時以降だろう。
つまり、残り時間は、12時間程な訳だ。
その間に、思い止まらせる手立てを講じなければならない。
ケイは必死に考えを巡らせた。
現状では、エピメターにどんな手があるとしても、絶対的に人数が足らない。
ケンジントンを包囲しているケルブ軍は、ざっと一万だという。
対抗するには、同程度の戦力は必要である。
つまり、後4~5千人は必要だという事だ。
とても、エピメターに集められる人数ではない。
それ以前に、単独でそんな軍勢を動員できる勢力は、炎の剣以外には存在しない。
まあ、中央アジアやアフリカの、多数の人口を抱える国家なら可能かもしれないが、そんな国に知り合いは居ない・・・
いや、一つだけ心当たりがあった!
思わずケイは、躍り上がったが、直ぐにまた座り込んでしまった。
交渉しようにも、通信手段がないのだ。
ケイのPDAでは、外部への発信は事前に申請して承認されたアドレスにしか出来ない。
つまるところ、厄介者でしかないケイの信用は、その程度の物だ。
ケイは、ベッドサイドに座り唇を噛んで、身動ぎもしなかった。
その頭の中は、必死に回転していた。
「仕度は進んでおるか?」
ケネスの問い掛けに、マクロードは頷いた。
「只今決死隊の志願者を募っておりますが、大半の者が志願を申し出ております。保安局長と相談しながら、絞り込みを行っているところございます。」
脱出用の部隊は本当に脱出する事を目的とする脱出隊と、その脱出を可能とするための混乱を惹き起こす決死隊の二つで構成される。
脱出隊は成功しなければ死ぬ事になるが、決死隊はその成否に関わらず、全員死ぬ事になる。
「それは頼もしいな。だが、人数は最低限として、出来るだけ妻子の居らぬ者を選ぶようにせよ。」
「畏まりました。」
ケイは、空が白むまで外部に連絡を取る手段を考え続けたが、何も考え着かなかった。
いっそタチアナに相談しようかとも思った。
彼女はプロメターの直属の上司であり、プロメターがケイを助けると決意した時に、彼の判断に全幅の信頼を置く彼女は、緊急事態として独断でこれを認めて受け入れの準備を進めた。
最高指導部が報告を受けたのは、既にクレメンズビルでの緊急手術が始まった後であり、ほぼ、事後報告の形であった。
結果として、彼女はケイの身元保証人として、ケイの崑崙での全行動に全面的責任を負う事になった。
だからケイは、今まで何をするにも自発的にタチアナに相談という形で事前に報告を入れて来た。
プロメターの妹であるシンシアにプロポーズされた時でさえ、プロメターより先にタチアナに相談した位である。
心臓に先天的な欠陥を抱えるシンシアとの結婚は、様々な問題を孕んでいる事は明らかであった。
特にシンシアはケイの子供を本気で望んでいたので、どうしても踏み切る事が出来なかったのである。
タチアナは即座に祝福の意を表明し、全面的なバックアップを約束してくれた。
だからこそ、結婚に踏み切れたのだ。
シンシアとの夫婦生活は幸福ではあったが、結局はシンシアの体は出産に耐えられなかった。
タチアナは、シンシアに出産を断念する様に説得する努力を惜しまなかったが、最終的には、母体よりも子供を優先したいというシンシアの意思を受け入れ、シンシアが亡くなった後は母代わりに育ててくれたのだ。
しかし今回は、余りにも曖昧でそれこそ雲を掴むような話であり、とても協力を得られるとは思えなかった。
結論としては、諦める以外に無さそうだった。
最早頭が事実を認識する事を拒み、何も考えが纏まらないままに、ぐるぐると空回りしている。
突然、洗濯物を纏め忘れている事を思い出した。
前日の洗濯物を朝一番で取りに来るので、それまでにランドリー袋に押し込んで部屋の前に出しておかなければならないのだ。
事実を受け入れられない頭が逃避する為の口実を探そうとしているのだと、他人事のように思いながら苦笑した。
のろのろと立ち上がるとクローゼットを開き、ランドリー袋を引っ張り出した。
昨日の汚れ物を押し込みながらぼんやりと考えていた時、何か固い物が手に触れた。
その瞬間にケイは電撃を受けたように顔を挙げ、大慌てでジャンプスーツのポケットから固い物を引っ張り出した。
それは、サーリムが返して寄越したPDAだった。
このアカウントがまだ凍結されていなければ、外部への発信が可能かもしれない!
もう4時間も無駄にしてしまった。
時差を考えれば、向こうは真夜中の筈だが、そんな事を考慮している場合ではなかった。
祈る様な気持ちで電源を入れ、焦りに震える指で画面からアドレスを探す。
しばらく呼び出し音が鳴っていたが、やがて画面が明るくなった。
「はい、こちらはイフリーキア共和国大統領府です。」
イフリーキア共和国主席大統領補佐官チャールズ・ンバギラは、真夜中に叩き起こされ、突然出てきた名前に当惑していた。
起き抜けの頭の霞を振り払うように頚を振ると、確認した。
「本当に、その男はケイ・アマギと名乗ったのか?」
「はい、確かにそう名乗ったそうです。」
アマギ監査官は、もう随分前に死んだと聞いている。
「何かの間違いとか、悪い冗談じゃ無いのか?」
「勿論その可能性が高いと思います。しかし、何しろケイ・アマギですから、オペレーターも扱いかねて上にあげ、その上も同様に上にあげ、を繰り返して私の所まで来た訳です。勿論、私の判断できる事でもありませんので、ご報告に参りました。」
どうする、大統領に報告するか?
ンバギラはしばらく考え込んでいたが、やがて言った。
「判った。とにかく私が出てみよう。」
ケイは、焼け着くような焦りに苛まれながら、ディスプレイの向こうの空席を見詰めていた。
ケイが嘗て訪れた時、イフリーキアは帝政を敷いていた。
ケイの尽力で連邦加盟を果たした後に、ケイと親交のあった皇帝ロベルト2世は崩御した。
続いて即位したジョン2世ともそれなりにやりとりがあったが、その親交は、禁書館戦争でのケイの(形式上の)死によって途絶えた。
その後、革命が起こり帝政は廃されたが、皇帝は穏やかに退位し、それなりに安逸な余生を過ごしたと聞いている。
従って、現行政府とは全く交流が無い訳だが、政権の移行は至って穏やかに行われた為に、帝政時代の官僚で、そのまま新政権に横滑りした人間も多かったらしい。
もしかしたら、ケイを覚えている人間が居るかも知れないという、微かな望みに賭けたのだ。
幸い向こうはケイの名前を知っていた。
ともかくも、要路の人間との面会に漕ぎ着けたら、後は舌先三寸で丸め込んで、兵を出させなければならない。
今や、ケイは世界中のどこにも属していない、全くの一個人である。
ゲームをしようにも、手持ちの札自体が殆ど無いのだ。
「誰だって、配られたカードで勝負するしか無いんだ。」
自分自身に言い聞かせるように呟いた。
やがて、仕立ての良いスーツを着た男が、ディスプレイの向こうに現れた。
「大統領主席補佐官のチャールズ・ンバギラです。」
男が名乗ると、ケイは表情に出ない様に努力しながら心の中で快采を上げた。
いきなりこんな高官に行き当たるとは、幸先が良い。
ンバギラは、続けて訊ねた。
「失礼ですが、アマギ監査官は禁書館戦争でお亡くなりになったと伺っておりますが?」
ケイは、慎重に応える。
「ええ。ある事情により、そういう体裁を取る事になりました。」
ンバギラは、ケイの秘密めかした言い方に、興味を惹かれた。
「ある事情と言いますと?」
よし、まずは軽い当たりが来た、だがここで焦ってはいけない。
上手く合わせなければ、バラしてしまう。
「その点については、まだご説明するわけには参りません。」
わざと冷たくあしらう事で、軽く怒らせて、しっかりと餌に喰い付かせる方向へ持って行こうとした。
「そうですか。それよりもまずは、貴方が本当にアマギ監査官である事を証明する手段は有りますか?」
挑発は軽く受け流されてしまったが、それでも餌を吐き出そうとはしない。
こういう反応は予想していなかったケイは、軽く狼狽した。
まともな手持ちの札が無い以上、こちらのペースに巻き込むために、相手の冷静さを失わせる他は無いのだ。
ケイは、危険を承知の上で、さらに挑発を重ねる事にした。
「それについては、信用して頂く他はありませんね。」
ンバギラの反応は、さらにケイの予想を裏切る物であった。
「勿論事情がおありの事とは存じますが、当方としても、お言葉をそのまま受け取る訳にも参りかねますので、失礼ながら、こちらで確認する手段を用意させて頂いても宜しいですか?」
まさか向こうから喰い付こうとして来るとは思わなかったが、ケイとしては否やは無かった。
「結構です。」
「それでは、準備のためしばらくお時間を頂きたいと思います。」
まずい、棚上げするつもりか、とケイは焦った。
「事は緊急を要しますので、余り時間はありません。」
再度挑発してみたが、ンバギラは、至って冷静に応えた。
「余りお時間を取らせる事は無いでしょう。一時間後に、再度ご連絡を頂くという事で、いかがでしょうか?」
「了解致しました。」
「それでは、一旦接続を切ります。」
画面が消えたPDAを睨みながら、ケイは、相手側の予想外の反応の裏に何があるのかを訝しみつつ、この後どうやって騙すかを必死で考えていた。
「どうですか?」
「まだ何とも言えんな。とりあえず、本物のアマギ監査官かどうかを確認するのが先だ。例の彼女は、今どこにいる?」
「確か財務省で働いているかと。」
「判った。彼女に連絡を取って、すぐにここに来るように言ってくれ。その間に、私は大統領に状況報告をしてくる。それから、後は私がやるから、君は帰って良いぞ。」
そう言って、二人はヴィジフォン・ブースを後に、それぞれの方向へ歩いて行った。
大統領ロベルト・タントは、夜明け前だというのに叩き起こされて、上機嫌とは言い難かった。
「お休みの所申し訳ありません。」
「どうした?」
「閣下、アマギ監査官を名乗る人物から、連絡が入りました。」
ンバギラは、滅多に冗談を言う様な男ではないが、冗談を飛ばして機嫌を伺ってから本題に入ろうとしていると思ったタントは、笑顔で応えた。
「判った。で本当は何の用だ?」
ンバギラは、表情を変える事無く、無言で立っている。
「もしかして、本当なのか?」
タントがおそるおそる尋ねると、ンバギラは頷いて言った。
「現状で申し上げられる事は、アマギ監査官を名乗る人物から連絡が入っており、1時間後に再度連絡がある、という事だけです。悪い冗談か、何かの詐欺ではないかと考えますが、一応検証してみます。」
「そうか、結果が判明したら、すぐに報告してくれ。」
タントが、真面目に受けとめたのを確認して、ンバギラは、続けて言った。
「向こうは一刻を争う様子ですので、念のために顧問殿に声を掛けておかれてはいかがでしょうか?」
「判った。起こしてこっちに来てもらうように頼んでおく。」
「宜しくお願いします。」
ケイは、自分の連絡がイフリーキア大統領府に、ちょっとした恐慌を巻き起こしているとは、夢にも思わなかった。
サーリムは、PDAの呼び出し音で目覚めた時、暗闇の中でしばし茫然としていた。
やがて、枕元で明滅するPDAを取り上げ、こんな夜中に何かと訝しみつつ、ディスプレイを確認する。
掛けてきたのはレイである。
同時にディスプレイの右下の時刻に目をやると、午前8時であった。
この部屋には窓がないため、明かりをつけない限り昼間でも真っ暗なのだ。
明かりの調節は自在に出来るのだから、薄暗くしておけばよかったのだろうが、調節出来る明かりという物自体に慣れていないサーリムには、そういう発想はなかった。
とりあえず、ディスプレイをタッチする。
「お早うございます。朝食の準備ができています。出られますか?」
サーリムは、慌ててベッドから飛び起きると、答えた。
「済みませんが10分待って貰えますか。」
「判りました。10分したら、ノックします。」
サーリムは、大慌てでバスルームに向かった。
ケイは、言われた通り一時間待って再度接続した。
驚いた事に、ンバギラは既にディスプレイの向こうで待機していた。
「お忙しい中、度々お手数をお掛けして申し訳ありません。」
そう言いながらケイが頭を下げると、ンバギラは
「いえ、こちらの都合でお待たせして、申し訳ありません。」
と、丁寧に礼を返した。
その肩越しに、中年女性が立っているのが見えたが、ンバギラはその女については何も言わなかったので、ケイも特には触れなかった。
「さて、それでは、失礼の段は重々承知しておりますが、確認をさせて頂いて宜しいですか?」
「勿論です。」
ケイが応じると、ンバギラは、おもむろに切り出した。
「貴方が初めて当地を訪れた日に、市場の入口付近で少年が関わるちょっとした事件があったと伺っておりますが、その件について、少々お尋ねします。」
「はい。」
ケイは答えながら、何か違和感を感じていた。
「少年を取り囲む男達は、少年の事を、何と呼んでいましたか?」
その点は、今でもはっきりと覚えている。
「『エボラ』ですね。」
ンバギラは、振り返ると女の表情を確かめた。
「それでは、そう言われた時、貴方は最初に何を確認しましたか?」
これも、衝撃的な言葉に反応して咄嗟に行った事なので、良く覚えている。
「瞼を捲って、眼底出血を確認しました。」
ンバギラは、再び振り返る。
「その次に、少年の口の中を確認した時、舌はどんな状態でしたか?」
ケイは言葉に詰まった。
冷や汗が背中を流れる。
子供の口の中の様子が、思い出せない。
焦りながら、必死に記憶を辿ろうとする。
「どうしました?思い出せませんか?」
ンバギラの声を遠くに聞きながら、無意識の内に両手であの時の動作を再現する。
右手の親指で瞼を捲って、次に左手の親指で、反対の瞼を捲る。
右手を口に滑らせて、親指を唇にかける・・・
「舌の状態は判りません。口を開ける前に、引き剥がされました。」
その答にンバギラは、頷いた。
それを見て気が抜けた途端に、違和感の原因に気付いた。
「それでは、その少年が・・・」
ンバギラがそう言いかけた時、ケイは割り込んだ。
「ちょっと待って下さい。」
ンバギラは、軽く首をかしげる。
「どうしました?」
「あの子供は、男の子だったんですか?私は女の子かと思っていました。」
ンバギラが振り返ると、女は叫ぶ様に言った。
「間違いありません。この人はアマギさんです!」
「確かかね?」
「ええ、そうです。私はあの優しい声を忘れたりはしません!間違いなくこの方です。」
ンバギラは、ディスプレイに向き直った。
「失礼しました。彼女は、ネイデ・フェンダと言います。あの時貴方が助けた少女です。」
そう言ってにっこり笑うと、付け加えた。
「余談ですが、彼女の息子はケイ・フェンダといいます。」
ンバギラは振り返ると、フェンダに言った。
「有り難う。これからアマギさんと色々相談があるので、君は戻りたまえ。」
フェンダは、ディスプレイ越しにケイに深々と一礼すると、ブースから出ていった。
「さて、アマギさん。ご用件を伺っても宜しいでしょうか?」
事態が余りに急展開したためケイは軽く呆然としていたが、その言葉に慌てて気を引き締める。
ここからが正念場である。
「失礼ですが、貴方は政策決定者に話を取り次ぐ事は可能でしょうか?」
ンバギラは、穏やかに応えた。
「私は、貴方のご用件を大統領に直接取り次ぐ事のできる立場に居る、と考えて頂いて差し支えありません。」
これ以上思わせ振りに引っ張っても益は無さそうだ、と判断したケイは、ンバギラを騙せるかどうかに賭けてみる事にした。
「まず、私が死んだ事になっている事情から、お話しましょう。」
その言葉にンバギラは、ディスプレイの前で居住まいを正した。
「禁書館戦争の経緯を見た当時の最高賢者スペンサー師は、いずれ炎の剣と最終的な決着を着けなければならない、と堅く決意しました。そして、炎の剣との来るべき最終対決のために、極秘に反炎の剣の意思を持つ団体を捜し、各団体間の意見調整活動を行うエージェントを任命する事にしたのです。そして、私がそのエージェントに選ばれました。」
ンバギラは、黙って頷いた。
「極秘での活動が前提ですから、表舞台から消える必要があったのです。ですから私は、あの戦争で死んだ事にされたわけです。」
ンバギラは、特に意見を差し挟む事無く聞いている。
「私は、最高賢者直属の秘密エージェントとしてスペンサー師に仕え、スペンサー師の引退後は、次の最高賢者であるディミドロフ師の命で活動を続けました。そして今も、ケネス師の許で反炎の剣のための各団体の糾合の為に奔走しております。」
ンバギラの表情からは、どう感じているかは窺えなかった。
「そして、ようやく炎の剣包囲網形成の目鼻がついた所で、炎の剣に先を越されてしまいました。今ケネス師は、ケンジントンで炎の剣の軍勢に取り囲まれて、窮地に立っておられます。しかしこの危機を乗り切る事ができれば、今度は炎の剣打倒の勢力が世界中で立ち上がり、状況は逆転します。ですから、ケネス師は貴殿方の助けを心から待ち望んでいるのです。今ここで、炎の剣の包囲網を破ってケネス師以下連邦政府を救出すれば、炎の剣打倒が成った暁には、貴殿方は大賢人会議において、比類なき立場に立つ事ができるでしょう。」
かつて師匠のランドルフは、ケイに「嘘をつかねばならないなら、中途半端な事は言うな。相手が容易に想像できる範囲の話では、簡単に矛盾点を見つけられてしまう。だから、相手が検証する必要を感じないくらい小さな嘘を少しずつ順に並べ立てて、時間をかけて信用させるんだ。だが、もしそれだけの時間が無いなら、相手の想像を超える程の壮大な嘘を一度にぶつけろ。どっちにしても、やるときは自分自身がその嘘を信じ込んで、誠心誠意嘘をつくんだ。」と教えた。
ケイは、その教えを思い出しながら、思い付く限りの壮大な嘘をでっち上げた。
ンバギラは、最後まで表情を変えなかった。
「大変興味深いお話でした。今のお話は、全て大統領閣下にお伝えしましょう。」
そう言って、ンバギラは立ち上がった。
「待って下さい。今ケンジントンの状況は、正に焦眉の急と言わざるを得ません。とにかく時間が無いのです。」
ンバギラは、丁寧に応える。
「その点もお伝え致します。お約束は出来ませんが、出来るだけ早く話を進めましょう。今度は、こちらからご連絡差し上げます。今のアドレスで宜しいですか?」
「宜しくお願いします。」
ケイは頭を下げた。
もう、今のケイにできる事は、祈る以外に何もなかった。
先頭に立っているアジア系の男は、身長は余り高くないが、固太りで見るからに精力的であり、同時に不思議な威圧感を纏っていた。
ツヤツヤと張りがあり血色のよさそうなその顔は、サーリムの目には50代前半と映ったが、 タチアナの例もあるので70代前半と見積もっておいた。
「私は、トゥートン・MA0。最高指導部の議長を務めておる。」
そういって、トゥートゥンは右手を差し出した。
「初めまして、サーリム・ラティーフ・マンスールです。」
挨拶を返しつつ握ったその手は、肉付きが良く、暖かだった。
次に議長の右隣の男が進み出てきた。議長とは対照的に学者を思わせる落ち着いた感じであった。
恐らくは議長と同年配なのだろうが、なんとなく見覚えがあるような気がした。
「遠いところようこそ。ウィリアム・MBA01です。最高指導部の副議長を務めています。」
男はそういって右手を差し出した。
「初めまして。」
トゥートンとは対照的な、枯木を思わせるウィリアムの上品な掌を握りながら、その穏やかな話し振りや全身に纏った知的な雰囲気を、どこかで見た事があった様な気がしてならなかった。
ウィリアムに続いて、次々と一通り最高指導部の議員達との挨拶が終わった時、漸くどこで見たのかに思い当たった。
サーリムは、笑われるのを覚悟で訊ねてみた。
「ウィリアムさん、失礼ですがエドワード・プロメターさんをご存知ありませんか?」
驚いた事に、ウィリアムは相好を崩して答えた。
「そちらでは、そういう名前で通っているようですな。あれの本名はエドワード・DPBB0301と言います。」
そして冗談めかして声を潜めながら言った。
「ここではこういう言い方は好ましくないとされていますが、敢えて申せば、ネッドは私の自慢の息子です。」
サーリムは、自分達が彼等の掌の上でずっと踊らされていたことを悟った。
まだ後ろに控えている三人の中年男が紹介されていない。
その内二人は、枯木の様に痩せているが陽気そうな男と、だらしなく肥って脂ぎった感じの精力的な男で、体型は対称的だが、その印象が陽性である点では共通していた。
しかし、もう一人は特に痩せても肥ってもおらず、敢えて言えば締まっている男で、一見すると特にこれと言って特徴の無さそうな中年男性に見えるが、内面を窺わせる手がかりを外観に出さない陰性の印象を見せており、時折こちらに向ける刺すような鋭い視線は、男の正体が見た通りの平凡な者ではない事を物語っている。
サーリムの視線に気づいたウィリアムが、三人を呼び寄せる。
まず陽性の二人の内、痩せた方の男を紹介した。
「こちらはパオロ・DPA01、外交部長です。この後、彼からここの歴史の沿革について説明があります。」
「初めまして、パオロです。」
差し出された手は、男の表情同様に柔らかで暖かかった。
ウィリアムは、次に肥っている方の男を紹介した。
「こちらはエドガー・HBA01、生活安全部長です。ここの治安と環境整備の総責任者です。」
「初めまして、エドガー・HBA01です。」
その手は、外見同様に脂ぎっており、精力的であった。
そして、最後の男を紹介した。
「 彼はミハイル・HBAA001、生活安全部の警備課長です。ここの治安に関する責任者です。」
「ミハイルです。」
差し出されたその手は堅く締まっており、人差し指の堅い胼胝 は物騒なスキルの高さを示していた。
一通り紹介が終ると、一行はパオロを残して部屋を出ていった。
部屋を出た議員達は、それぞれ思い思いの方向に散って行った。
ウィリアムは、副議長の執務室に戻ると、PDAを取り出し、メッセージを打った。
ンバギラが大統領執務室に入ると、タントは白髯を胸の半ばまで垂らした老人と話をしている最中だったが、ンバギラが入って来るのを見て、顔を上げた。
「おお、どうだった?」
「まず、アマギ監査官は本物でした。」
「信じられん。」
タントは、呆然とした様子で呟いた。
続いてンバギラは、ケイの話を全て説明した。
全て聞き終わると、タントは老人の方を向いた。
「どうですか、顧問官殿?」
老人は、黙って首を振った。
プロメターが、自分に割り当てられた部屋で、今後の対応を考えていた時、突然PDAが震動した。
取り出して見ると、最高指導部副議長のウィリアムからのメッセージである。
その文面は、『打合せ通り、ケンジントンを出よ。』であった。
プロメターは、ウィリアムを父として嫌いではなかったし、むしろ尊敬していると言えた。
しかし、今回の件に関する限り、従う気は無かった。
既に別のルートから、そのままケンジントンに留まる様に要請されている。
更に、今回のウィリアムの意図自体に、賛成は出来かねると感じていた。
と言っても、ウィリアム本人から説明があった訳ではない。
『別ルート』から入ってくる情報を総合して、その意図を類推しているのである。
そういう点では、もしかしたら、その意図を見誤っている可能性はある。
とは言え、今回の件についてウィリアムを取り巻く仲間達が気に入らないのは、間違いない。
正直、あんな奴等と行動を共にするぐらいなら、死んだ方がましだとさえ思っている。
特に、今この情況でプロメターがケンジントンを出られると思っているという事は、周りが正しい情況を伝えていないという事である。
それに気付かない時点で、ウィリアムの能力は、自分が思っているほど高くないのであろう。
そう思えば、ウィリアムが可哀想な気もする。
ここで敢えて真実を伝えて、紛糾の種子を蒔いても仕方がない。
とりあえず、調子を合わせておく事にした。
目前の重大事を何とかしなければならないので、それどころではないのである。
『了解。本日中に出ます。』
とだけ返しておいた。
どうせ今日中にここを出る予定なのだから、満更嘘でもない。
多分、出た時点で生きてはいないだろうが。
「さて、取り合えずお座り下さい。少々長くなりますよ。」
そう言ってパオロは微笑むと、椅子を勧めた。
「貴方の様な責任ある立場の方にお時間を割いて頂くとは、お忙しいでしょうに、誠に申し訳無い限りです。」
サーリムが頭を下げると、パオロは、大袈裟に手を振って笑った。
「いえいえ、とんでもありません。ウチは、下にいる課長連中以下みんな有能なので、私には仕事らしい仕事は殆ど無いんですよ。だから、一番暇な私にお鉢が廻ってきた訳です。」
そう笑って、話し始めた。
「ここは、元々は方舟計画が建設したわけではありません。2051年から4年間を掛けて中国政府が建設しました。 当時世界的な核廃棄運動の流れが進行していた事はご存知ですか?」
『方舟計画』という聞いた事の無い言葉が気になったが、取り合えず話を進めて貰う事を優先する事にした。
「ええ。」
サーリムは相槌を打ちながら、近代史に関する記憶を辿っていた。
『危機の40年代』と言われた時代は2042年のパキスタンによる偶発的な核使用から始まった。
パキスタンはその時点で国内の主に経済的な諸問題について、有効な解決手段を提供する能力を保有していなかった。
そこで、国民の目を政府への批判から逸らす為に、タリバンの流れを汲む国内のイスラム原理主義勢力を利用しようとした。
そのキャッチフレーズは『反ヒンドゥー・反グロ ーバリズム・アッラーの御心のままに!』である。
ところが、一旦走り出した原理主義の暴走を押さえる手段は存在しなかった。
現実から目を背けさせるために焚付けたスローガンは、そもそも当初から現実に立脚する足場を持っていなかったわけだが、スローガンと言うものは、空疎であればあるほど(言い換えるなら、『現実から自由で』あればあるほど)燃焼効率が高いものだ。
パキスタン政府指導部は、自らを将来の展望と目の前の現実を止揚して行動する現実主義者であると信じていたが、その実態は、目の前の現実の上面だけを見て右顧左眄する機会主義者でしかなかった。
やがて彼等は、原理主義運動を道具として使いこなせると信じた自らの『現実的判断』は、実際には根拠の無い希望的観測に過ぎなかったという本物の現実を目の当たりにする事となった。
彼らが気づいた時には、政府の中枢まで入り込んだ原理主義者達は、拳をふりあげつつ「反ヒンドゥー・反グローバリズム・アッラーの御心のままに!」と本気で叫んでおり、最早打つ手は何も無かった。
その熱狂の行き着く果てとして、インドに向けて核ミサイルが発射されたときにも、呆然と眺めている他は無かった。
国境に近い都市ジャイプールが蒸発するのを見たインド政府は、躊躇すること無く核による報復を実行し、パキスタンの首都イスラマバードは暴走する原理主義者たちと共に、そして残念な事に原理主義者以外の市民達も道連れにして、地上から消滅した。
世界各国は、この核紛争に参加する事を自制し、結果的にそれ以上の犠牲が出る事は避けられた。
しかし、これほど下らないきっかけが、2都市合わせて50万人以上の即死者と、放射能障害による事後の死者100万人の大惨事と言う結果へ繋がった事に、戦慄を覚えない国は無かった。
この事件の反省が、折から流行中のスピリチュアリズムと結びついて、 世界的な『人道的反核運動』になった。
核兵器の保有を無条件に否定する以外の意見は、全てあの悲劇を繰返したがっている『J-Iアンコール(ジャイプール&イスラマバードよ再び)』主義者(勿論そんな事を主張する人間など居なかったにもかかわらず)と呼ばれ、良くて潜在的犯罪者、悪ければ悪魔の化身と見なされる事になった。
酒場で政治談義が起こった時など、誰かが「おい!こいつは『JIE』主義者だぞ!」と叫ぼうものなら、指差された人間はあっという間にその場で文字通り袋叩きに遭い、そのまま命を落とす事も珍しくなかった。
結局のところ世界は、この経験から『核の危険』については学んだものの、より恐ろしい『熱狂の危険』については、何も学ばなかったと言って良いだろう。
「あの時代、核保有国は好むと好まざるとに関わらず、核の放棄を迫られました。勿論中国も例外ではありませんでした。国際社会でやって行くためには、核の放棄以外の選択肢はありません。しかし、中国は欧米各国との間に、長きに渡る相互不信の歴史を持っていたました。」
「中国の歴史を考えれば、特に意外な事ではないですね。」
サーリムは、同意した。
「そういう事です。ですから中国政府は国際的圧力の下で表向きは核の全面廃棄を装いつつ、極秘裏にゴビ砂漠の中に新しい核ミサイル基地を建設したわけです。」
「どうして、そんな事が出来たんですか?」
サーリムの質問に、パオロは反問する。
「どうして、とはどういう意味でしょう?『どうしてIAEAその他の査察機関の目を誤魔化す事が出来たのか?』ということなのか、それとも、『どうして国民に秘密にする事が出来たのか?』と言う事なのか、どちらですかな?」
「両方です。」
「ふむ、前者に関して言えば、IAEAもその他の査察機関も、加熱した国際世論の圧力のために、かつてのような堅実な、言い換えれば悠長な査察を実施する事が不可能になっていました。直ぐにでも赫々たる成果を挙げなければ、自分たち自身の首が危ないと言う状態で査察を実施させられていたわけです。だから、中国政府とIAEAの間に、目に見える部分で派手に廃棄してくれるなら、数量的な精査は御座なりに済ませても良い、という暗黙の了解があったのです。中国政府はそれを逆手にとって、表向きは核の廃絶を進めながら、その裏で国際社会から隔絶された場所にこれほどのものを建設し得た、というわけです。また、国内的な秘密保持に関して言えば 、ご存知かと思いますが、中国には元々国民による政府監視を可能とするような仕組み自体が存在しませんでした。当時の中国におけるマスコミとは、政府の広報機関か提灯持ち同然だった訳です。だから、政府の枢要に就いているごく一部の人間達が決定すれば、これくらいの施設は極秘に建設できたんですよ。 」
「なるほど」
少なくとも、話の筋は通っている。
「今言った通り、この施設は初めから極秘に建設・運営される事が前提として計画されたものですから、エネルギーから食料に至るまで、全てを外部に依存しない『自立都市』としてデザインされました。そして、この都市は稼動を開始すると共に、外界から完全に隔離されたのです。ところが、その後いわゆるスピリチュアル革命が遅蒔きながら中国全土にも及びました。スピリチュアリズムの重要な柱の一つである東洋的自然思想を支える基盤の中で大きな割合を占めている物に、タオイズム(道教的思想)がありますから、元々中華的教養とスピリチュアリズムとは親和性が高いのです。従って、中国には欧米各国以上にスピリチュアリズムに対する広範な支持基盤が存在しました。しかし、中南海、即ち中国のホワイトハウスの共産主義的イデオロギーを権力基盤とする古い政治家達は、これを歯牙にもかけませんでした。そこで、未だ中南海入りを果していなかった少壮官僚の中の野心家達は、これを奇貨として、中南海内部の長く果てしない泥沼の様な権力闘争を勝ち抜くより、スピリチュアル革命の熱狂に乗って外部から打倒する方が実りが多いと判断しました。彼等は正に騎虎の勢いで中南海に迫りました。こういう場合に、議会制民主主義の伝統を持つ国家なら、世論を背景とした交代が穏やかに行われ、情報資産もスムーズに相続されたんでしょうが、悲しいかな中国には勝って生き残るか、負けて死ぬかの対決的な世代交代の長い伝統がありましてね、結局スピリチュアリズムの国際的連帯を背景にした若手世代が旧世代を追い落とし、目隠しをして壁の前に立たせた訳です。その結果、2070年代の半ばにはこの都市の情報は中国政府内から失われてしまったのです。そして、政府との連絡が途絶えた時点で、見棄てられた事を悟った関係者はここを去りました。その際に彼等は、ここに関係していた事を知られると新政権に迫害されると考えて、ここに関する一切の情報を隠し通す事を決めました。それはつまり、ここが世界中から忘れ去られた事を意味します。そして、方舟計画がここを発見したのが2090年の事でした。」
一区切り着いた様なので、サーリムは、疑問を口にした。
「ちょっと良いですか?先程からお話の中に出てくる『方舟計画』とは、何でしょう?」
パオロは、頭を掻いた。
「これは失礼。そちらから先に説明すべきでした。方舟計画とは、反科学の激流に抗って人類の未来を繋ぐ科学を保存しようという、科学者有志の秘密活動でした。」
そう言ってパオロは、再び語り始めた。
「そもそも箱舟計画が結成されたのは2063年の捕鯨船撃沈事件がきっかけでした。」
日本の調査捕鯨船が環境保護団体に無警告で砲撃されて沈められた事件 だ。
日本政府はその不当性を世界に対して訴え、その船の国籍であるオーストラリア政府に対して、犯人の逮捕・引渡しを求めた。
それに対するオーストラリア政府の回答は、「これは鯨を守るための正当防衛であり、何ら問題は無い。むしろ撃沈された捕鯨船から救助された生き残りの船員達を、鯨殺害の罪でこちらに引き渡せ」という要求であった。
さらに、争点となったのがスピリチュアリズムの重要なシンボルの一つである 『鯨』であったことから、自らスピリチュアル先進国を持って任じていたアメリカ及びEU各国は、自ら語る事のできない鯨を代弁するというオーストラリアの姿勢を賞賛したため、国際社会はこの対応を黙認した。
「勿論当時の日本が全く正しかったと言っているわけではありません。日本の『調査』捕鯨という言い分も、充分怪しげではありましたからね。」
そうして、一呼吸置いて更に続ける。
「しかし、科学的調査を標榜するものを、一方的に攻撃して殺害する事が 国際的に正当化された事に、我々の先達は戦慄したのです。当時の各国の指導的立場にある科学者達の大部分は、より高度な技術的成果を見せ付ければ、一般人の蒙を啓く事が出来るだろうと信じていました。しかし、少壮学者たちの中には、そこまで民衆を信じる事は出来ないだろうと悟っていた者も少なくありませんでした。」
「『悟っていた』訳ですか。」
サーリムの口調には揶揄するような響きが含まれていたが、パオロは気づかぬ振りで説明を続けた。
「彼らは、遠からず科学が暴力的に破壊される日が来ると予測し、手遅れにならない内に科学技術を保護するため手段を講じる必要があると決意した訳です。」
サーリムは、ようやく得心が行った。
「それで名前が『箱舟計画』なんですか 。」
「そういう事です。そうして、彼等は水面下で連携を進め、科学技術保存を目的とする国際的な科学ネットワークを形成しました。」
そこまでは判ったが、その後の方向性の選択はどうなのだろうか。
「それがどうして、ここへ引きこもる事に繋がるんです?」
「その後も一般民衆の反科学的な姿勢は尖鋭化する一方で、実際に科学者が『科学者である』と言う理由で襲撃される事件が頻発するようになったのです。」
その低い声からは、懸命に感情を押さえていることが見て取れた。
「どうしても箱舟計画としては、科学技術だけではなく、科学者自身の待避所を見つける必要があったのですよ。ところが、主導的立場の科学者達は、 ここに至っても、民衆に大きな科学的成果を見せ付ければ、その蒙を開くことが出来ると言う楽観的過ぎる考えに基づき、より劇的な成果をそれも今すぐに挙げなければという焦りに取り憑かれていました。結果として彼等が主導する最先端科学はより地に足のつかない投機的なものへと変貌して行き、危険を顧みない幾多の実験が実行に移されました。その代表的なものが、あのブラックホール計画だったわけです。我々の先達は、ブラックホール計画の無謀さに早い時期から気づいていたので警告を重ねましたが、彼らは聞く耳を持ちませんでした。」
サーリムはカマをかけてみる事にした。
「それで、一般民衆を煽って、潰させたわけですか。」
驚いた事に、パオロは平然と認めた。
「その通りです。彼らを放置すれば早晩にも取り返しのつかない事態を引き起こすのは避けられなかったでしょう。また、彼らの突出した姿勢に対する一般民衆の反感は、いずれこちらにも向かってくるに決まっていましたからね。人類の未来のためにも、我々自身の安全のためにも、科学界で主導的立場を占める急進派が、一般民衆の手で葬り去られる必要があったのです。だから箱舟計画は、ここを恒久的な根拠地として押さえ、科学技術のサンクチュアリとした上で、急進派の危険を少々大げさに煽って一般民衆の蜂起を扇動したわけです。」
「じゃあ、貴方達が文明を破壊したと言う事じゃないですか!」
サーリムは、思わず非難の声を上げた。
「それは違うでしょう。我々はあくまでも急進派の危険性を世界に知らしめただけで、それに対する非理性的な行動、すなわち大破壊は、 大衆自らが選び取ったものですよ。そして大衆は、予想通り暴力で急進派を葬り去り、その返す刀で、崩壊寸前の世界を辛うじて支えていた最後の理性的社会構造を含む国家体制を叩き潰しました。しかし我々は大衆を破滅させたかったわけではありませんから、あらかじめその後を考えた手は打ってあったのですよ。」
サーリムは納得は出来ないが、ともかく続きを促した。
「というと?」
「『炎の剣』はご存知でしょう。」
ようやく合点が行った。
「あれは、あなた方の作った団体だったんですか。」
「そういうことです。その目的は2つ、1つは大破壊後の世界に食料とエネルギーを供給する事で、一定の秩序を取り戻す事。そしてもう一つは、世界を滅ぼすに至った蒙昧な大衆を、科学から隔離する事です。」
その言葉には引っ掛かりを覚えた。
「科学から隔離する、とはどういう意味ですか?」
「この箱舟計画においては、名字というものが否定されています。」
突然の話題の転換にサーリムは、戸惑った。
「それは昨日伺いましたが・・・」
その当惑の表情を見つつ、パオロは説明を続ける。
「つまり、ここから外世界に出て行くものは、新たに名字をつける必要がある、という事です。」
「だからそれが何の関係が・・・」
「かつて、キリスト者が発心して俗世を棄て修道院に入る際に、必ず何らかの誓願を立てました。」
サーリムは、いよいよ完全に話の転換についていけなくなったので、いずれ何処かに着地するだろうと開き直って、黙って聞く事にした。
「彼等は、その多くが俗世での名前を棄てて、新たな名を選んだ訳ですが、それを選ぶにあたり、誓願自体をその名とする者もいました。」
サーリムは、漸く着地点が見えた。
「つまり、ここから出た人間の名字は、その誓願だと?」
「その通りです。かつて自分が名乗っていた、あるいは世代が降ると親や、そのまた親の名字を名乗ったものも居ますが、大半は新たに名字を作る事にしたのです。そしてその名字には何らかのメッセージが込められている事が多いのですよ。」
つまり、それが炎の剣の本当の目標という事だろう。
「じゃあ、『ケルブ』に何かのメッセージが?」
「ええ、『ケルブ』はヘブライ語でしてね、複数形になると『ケルビム』となります。」
サーリムは、考え込んだ。
「ケルビム・・・と炎の剣・・・創世記か!」
「その通り。ヤハウエは知恵の実を食べたアダムとイブから生命の実を守るために、智天使ケルビムと炎の剣を置きました。残念ながら我々には生命の実の持ち合わせは無かったので、せめて愚昧な大衆から知恵の実を守るために、ケルビムと炎の剣を置いたわけです。」
炎の剣が頑なに科学技術を否定しようとする理由が、それだった訳だ。
「つまり、この世界が科学技術を否定しているのはあなた方が・・・」
「まあ、待って下さい。それは順番が逆でしょう。貴殿方一般大衆が科学技術を理不尽に嫌悪した結果としての現状があるのではありませんか。我々は炎の剣を通じて、『再び科学技術に手を出さないように』抑制して来たに過ぎないのですよ。」
その言い分は、炎の剣にケンジントンが蹂躙されつつある現状では、肯首し難いものである。
そんなサーリムの気持ちを表情から読み取ったのか、パオロは話を続ける。
「それに、今現在でも我々は、貴殿方の連邦を、いや、外世界全体を崩壊から救うべく支えているんですよ。」
「それは、重力の使命を通じた活動の事ですか?」
パオロは、笑いながら手を振った。
「いえいえ、ここ崑崙から直接支えています。」
サーリムには、何の事か見当も付かない。
「今の非効率的な連邦政府の行政機構で、辛うじて世界が回っているのは、世界中をリアルタイムに接続する高度な通信システムがあるからです。」
勿論これは、ヴィジフォン網の事である。
古代から、小旅行程度で移動可能な距離の範囲内を纏める領域国家の規模を大きく越える大帝国は何回も勃興してきたが、それらは多くの場合、短期間で崩壊または縮小した。
国内での意志疎通に時間がかかるので、統一的政体による全体統治が難しく、特に周辺地域では、どうしても自治権を拡大せざるを得ないため、それを基盤とする離心力が働くためである。
アレクサンドロスの帝国しかりチンギス・ハーンの帝国しかり、騎虎の勢いで領土を拡張しても、それを維持することは容易ではない。
結局のところ短期間の内に、その時点での通信手段の制約による意志疎通の可能な範囲の領域に分裂してしまう。
ローマ帝国は、この点に特に留意して、領土の拡大と通信網の整備を表裏一体とし、その版図の隅々まで拡がる通信網(具体的には、馬車の疾走できる幅広い石畳の道路網)の整備に力を注いだ。
その結果、当時としては並ぶものの無い程の大帝国を、稀有な程の長期に渡って維持する事ができた。
それでもやはり限界点は存在し、それを越えたとき帝国は東西に分裂した。
そう考えれば、ローマ程の道路網を構築する能力の無い現在の連邦政府は、本来であればローマ程の版図を維持する事も不可能なはずなのだが、ローマ帝国では考えられなかった世界中をリアルタイムに接続するヴィジフォン網のお陰で、全世界を(曲がりなりにも)統治出来ているのだ。
「それは判りますが、それを貴殿方が支えている、とは、どういう意味ですか?」
「ヴィジフォン網が、どの様にして相互間の接続を確保しているかは、ご存知ですよね。」
「ええ。」
ヴィジフォンの端末それ自体が、直近の他端末と無線通信する事で、ノード(結節点)としてヴィジフォン網を構成する。
だから、ヴィジフォン網を拡張するのは、ごく簡単な作業である。
余っているヴィジフォン端末を、荷車で新しいエリアまで運んで据え付けるだけですむ。
「ヴィジフォンの膨大な情報量をリアルタイムにやり取りするためには、マイクロ波による通信が必要となりますね。」
この辺りになってくると禁書館で読んだ本にそんな話があったような気がする程度であるが、確か電波の周波数と単位時間辺りの伝送可能情報量は比例していたはずだ。
つまり、ヴィジフォン程の大量データを伝送するために使用される電波の周波数は、相当高くなる。
「なぜ、ヴィジフォンが太平洋・大西洋を越えて通信できるのか、疑問に思った事はありませんか?」
虚を突かれたサーリムは、あっと短く声をあげた。
言われてみればその通りだ。
マイクロ波の様な短波長の電波は、電離層で反射されない。
つまり、直進しかしないので、水平線の彼方には届かないのだ。
「つまり、通信衛星を経由しているという事ですか?」
直進しか出来ない電波を、水平線の彼方まで送るには、上空で反射(実際には、受信・増幅・再送信)しなければならない。
趣味の知識がこんな形で役に立つとは思わなかった。
パオロは、サーリムの理解の早さに驚いた様であった。
「良くご存知ですね。」
どうやら彼等が掴んでいるサーリムのプロフィールには、『趣味』の欄は無いようだ。
「ご存知無いでしょうが、人工衛星というのは、常にメンテナンスを必要とする物なのです。」
それはそうだろう。
摂動(他の天体の重力の影響による軌道のずれ)等を放置すれば、じきに正常な動作に支障が出るようになる。
「つまり、貴殿方がそれを行っている?」
「そうです。衛星の内蔵する時計の同期から摂動による軌道ずれの補正、更には寿命が尽きた衛星の後継機の打ち上げまで、全て我々が面倒を見ている訳です。今我々がこの作業を止めれば、連邦が崩壊するのは時間の問題です。」
その口ぶりは、自慢げでも無ければ恩着せがましくも無く、単に事実を述べているだけであった。
「後継機の打ち上げまで、となると、ここでロケットも作っているんですか?」
一つの都市程の規模を持った世界とは言え、ロケットの建造ができるほどだとは思わなかった。
パオロは軽く笑った。
「いえ、流石にロケットの建造は、我々の手に余ります。」
サーリムには、パオロの言い分が理解できなかった。
ロケットを建造する事無く、どうやって衛星を打ち上げるのか。
「作らなくても、ここには沢山ありますからね。」
サーリムは、再びあっと声を上げた。
弾道ミサイルとロケットは、ほぼ同じ物なのである。
「ご存知かもしれませんが、核弾頭と言うのは大変重い代物でしてね。これを他の大陸まで運ぶ能力があれば、ごく軽い通信衛星を軌道に載せるのは簡単な事なんですよ。」
ICBM(大陸間弾道弾)の平和利用という訳だ。
ケイはテーブルの上に置いたPDAを睨みながら、ひたすら着信を待っていた。
ケイの人生の中で最も長かった2時間は、唐突に終った。
PDAに着信が入ったのだ。
弾かれる様に立ち上がると、慌ててPDAを拾い上げ、接続をタップする。
ディスプレイが明るくなると、ンバギラの顔が現れた。
「お待たせしました、アマギさん。」
ケイは、内心の焦りを努めて面に表さないように気持ちを抑えながら、さりげない様子で言った。
「いえ、こちらこそ、お忙しい中お時間を取らせて申し訳ありません。所で、結論は出ましたか?」
「その点につきましては、大統領閣下ご自身から、お話し致します。」
そう言ってンバギラが身を退くと、恰幅の良い初老の男とその斜め後ろに立つ白髯を胸まで垂らした枯木の様な老人が出てきた。
「始めまして、イフリーキア共和国大統領のロベルト・タントです。」
前に立つ男が名乗った。
「始めまして、連邦政府特命エージェントのケイ・アマギです。」
すると、後方の老人が割り込んできた。
「いや、長生きはするものですな。禁書館戦争の英雄にお目見えが叶うとは、正に望外の幸運です。」
ケイが虚を突かれて絶句すると、老人が言った。
「これは失礼。私は、この国で大統領顧問を拝命しておりますアレクサンデル・ベクシンスキーと申します、」
そう言って一旦言葉を切ると、事態が呑み込めないケイに向かって、言葉を継いだ。
「こちらでお世話になる前は、ディミドロフ師の政治顧問を勤めておりました。」
ケイは、賭けに負けた事を覚った。
無言で立ち竦むケイに、タントが気遣う様に話し掛ける。
「さて、アマギさん。貴方は極めて誠実な方だと伺っておりました。」
ケイには、何も答えようが無かった。
「その貴方がこんな詐術を弄する必要があるという事は、それほど追い詰められている、と考えて宜しいのですか?」
「ええ、そうです。」
今更取り繕っても仕方がない。
「もし、差し支えなければ、事情をお聞かせ願えませんか?」
説明してどうなるという物でも無いのは判っていたが、大統領まで引っ張り出してしまったのだから、せめて本当の事情を話しておこう、とケイは思った。
「今ケンジントンには、私の親友がいます。彼は禁書館戦争で私と共に戦った男なので、このままケンジントンが陥落すれば、炎の剣は彼を生かしてはおかないでしょう。」
「ご自身ではなく、ご友人のためですか?」
タントは、少し驚いた様であった。
「彼は、私の命の恩人でもあります。私が代われるものなら、そうしたいくらいです。」
タントはしばらく考えていたが、やがて話し始めた。
「今、イフリーキア陸軍の兵力は、一万二千人です。」
ケイは何の話なのか判らず、ぼんやりと聞いていた。
「ですから、出せるのは五千人が限界ですが、それで宜しいですか?」
タントが何を言っているのか、理解するのに少し時間が掛かった。
「ほ、本気ですか?」
ケイは、思わず叫んだ。
「はい、本気で言っています。」
「私が申し上げた秘密エージェントの話は、全て嘘ですよ!今の私は、貴殿方に何もお約束できる立場ではありません。」
狼狽して言い募るケイを軽く制して、タントは答えた。
「その点も、十分に理解しているつもりです。」
「それでは何故?」
わけが判らず思考停止状態のケイに、タントは穏やかに説明し始めた。
「ロベルト二世陛下は、後崩御に際して、後継者であるジョン二世陛下に「アマギ氏はイフリーキアの恩人だ。その事を決して忘れてはならない。アマギ氏に何事かあれば、いかなる犠牲を払ってもお助けせよ。」とご遺言なさったそうです。」
あの爺さん、いつもの皮肉な調子の裏でそんな事を考えてたのか、とケイは驚いた。
「ジョン二世陛下は、禁書館戦争の知らせが入ると即座に兵を送る用意をお始めになりました。しかし事態の進展が早すぎて、何もできない内に貴方がお亡くなりになったとの知らせが入り、陛下は極めて落胆なさいました。その後、革命が起こった訳ですが、その際に陛下は、退位して新政権に平和裏に政権委譲するための条件の一つとして、アマギ氏の遺族に何事かがあった場合は、国を挙げて援助する事をご提示になりました。それ以来、この件は共和国政府の最重要課題の一つとなり、歴代政権は常に貴方のご遺族を捜し続けて来ましたが、貴方は全くの天涯孤独の方だったようで、今に至るまで捜し出す事ができないままとなっていました。今こうして我々は、ロベルト二世陛下以来の悲願を達成する機会を、ついに得た訳です。」
ケイは、溢れ出る感謝の気持ちをどう現せば良いのか全く判らなかったが、辛うじて言葉を絞り出した。
「有り難うございます。」
そう言って頭を下げるケイは、自分が涙を流している事に気づいていなかった。
「ただし、お分かりの事と思いますが、五千の兵を海を越えて送る必要がありますから、到着までに一ヶ月くらいは必要です。」
その言葉に、我に帰ったケイは、素早く考えを廻らせた。
「恐らくそのくらいが、籠城できる限界でしょう。出来るだけ早く到着できるよう、お願い申し上げます。」
そう言って、ケイは再び最敬礼した。
やがて、画面が消えた後でケイは自分のPDAを取り出した。
素早くプロメターのアドレスを探し、震える指でタップした。
呼び出し音が響くが、いつまでたってもプロメターは出ようとはしない。
まさか、もう出撃してしまったのではないか、結局は間に合わなかったのではないか、嫌な想像ばかりが、頭の中でぐるぐると駆け巡る。
パオロは、手元のPDAを操作した。
部屋の壁に、人型をした機械らしきものの映像が浮かび上がる。
「これを見て下さい。」
その画像の胸のあたりに、アルファベットの列と、4桁の数字が浮かんでいる。
「ロボットですか?」
「そうです、20世紀の終わりから21世紀半ばにかけ て、各企業が開発したロボットのうち主要なものを、時系列順に並べてあります。4桁の数字は公開された年です。」
何が言いたいのかわからないが、サーリムはとりあえず黙って見る事にし た。
続けてみていると、中々興味深いものではあった。
いかにも機械であるという角張ったシルエットから、段々と人間らしいシルエットに変わって行き、顔も、目・鼻・口を記号化した窪みか、顔全体を覆うのっぺりとしたフェイスプレートから、段々と人間らしい造作に変わり、表情に近いものまで持つようになって行く。
時間の経過とともに、顔の造作はリアルさを増し、素材も皮膚を思わせるやわらかそうなものに変わっていった。
もしかしたら毛穴まであるのではないか、と思われるほどにリアルなものが出てきた。
ところが、ある点を境に突然、硬質なプラスティックで黒い単色のフェイスプレートに覆われたロボットに戻ってしまった。
胸の前に浮かんでいる4桁の数字が相変わらず増え続けているのを見る限り、時代を遡った訳では無さそうだ。
すると、この頃から技術の衰退が始まったと言うわけか、とサーリムは 思った。
「何か気づいた事はないですか?」
パオロが尋ねる。
「途中までは着実に人間に近づいていたのに、ある時点から急に作り物めいた物に戻ってしまいましたね。」
パオロは、我が意を得たりとばかりに頷いた。
「何故だかわかりますか? 」
「あの辺りから、技術の衰退が始まったと言う事でしょうか?」
「順当な解釈ですが、残念ながら外れです。あの後も科学技術は着実に進歩を続けました。勿論ロボット工学も例外ではありません。」
「では、何故です?」
再びPDAを操作すると、ロボットの映像が消え、新たにグラフが映し出された。
縦軸・横軸共に 0から100の目盛が刻まれている。グラフ左下から右上に向かって、横軸の数値の増加に伴い急激な勢いで上昇している。
縦軸が80に到達したあたりで、曲線は上昇度をやや鈍化させながら、それでも右肩上がりを維持していたが、その先を目で追うと、横軸が90を超えたあたりで縦軸が0に向かって突然殆ど垂直と言って良いほどの落ち込みを見せる。
そこからまた急激に立ち上がって縦軸・横軸共に100に到達している。
「このグラフは何の数値なんですか?」
「横軸は、その外観をどこまで人間に似せられているかで、これが0ならそのロボットの外見は目鼻も無い唯の箱であり、100なら外見からは人間と全く区別が付かないという事です。また縦軸は、そのロボットに対して人間が抱く好意の度数です。50が中立であり、100なら好意的に扱われるというか、積極的に愛されています。そして、0に近付けば嫌悪感が増す訳です。」
「一般的には、ロボットの外観が人間に近ければ近いほど、好意的に扱われます。ところが、充分人間に近くなったあたりで、人間は突然に激しい不快感を覚えるようになります。このグラフに明白に現れているように、人間に極めて近い存在を『不気味』だと認識するのです。この落ち込みを『不気味の谷』と呼びます。これを乗り越えて、100%の好意を獲得するには、外観を殆ど100%人間と同じにしないといけません。ところが どの企業も、この谷を乗り越えて残り10%の好意を獲得するために人間と区別できない程の精巧なロボットを開発する費用を投じるのは、採算が合わないと考えたわけです。」
いつだって、元が取れるかどうかは、忘れるわけにいかない重要な要素である。
「それで、簡単なフェイスプレートばかりになってしまった訳ですか。 」
パオロは頷いた。
「人間と言うのは奇妙なものでね、全く異質のものは平然と受け入れます 。」
再び、真っ黒なフェイスプレートに覆われたロボットの映像が現れる。
「 例えば、このフェイスプレート型のロボットを見れば、フェイスプレー トの下に、実在しない顔を想像するというコストを払ってまで、可愛いと見なす訳です。ところが、」
画面が変わり、人間そっくりの質感を持つ肌のロボットが映った。
「この様なごく小さな違和感は、絶対に許容しません。」
まるで毛穴まで再現されたような、非常にリアルな、しかし全体に作り物めいた感じをまとったロボットは、確かになんとも言えない不気味な感じを纏っていた。
「これほど人間に近いロボットを見ると、かえってわずかな皮膚の質感の違いや、表情の動きの微細な不自然さをクローズアップして、不快だと言い立てるのです。」
「お話は判りましたが、その不気味の谷とやらが、今の我々の話題にどう関係してくるんです?」
パオロは、まるで出来の悪い生徒に言い含めるように言った。
「お判りになりませんか?一般大衆は、科学が正しいと言う事を知っているのに、自分達の知的怠慢の所為で『どう』正しいのかが理解できないのですよ。」
傲慢その物の言い方であるが、サーリムは、感情を抑えて続きを促した。
「それで?」
「結局の所、彼らは『自分達は理解できないがそれは正しい』という事実を受け入れる、勿論その事で少しプライドが傷つくかも知れませんがね、というほんの些細なコストを払う事を拒んで、『水瓶座の時代における宇宙意思と同調する正しい波動が世界をアセンションする』とか言う体の、全く事実を含まない御託を喜んで受け入れるわけです。」
サーリムは異を唱えた。
「ちょっと待ってください。その場合、コストは一般大衆側のみが支払うものなんですか?」
その問いが含む指摘は、パオロにとっては全く考慮に値する物では無かったようだ。
「そうでなければ、誰が払うというんです? 」
「科学の側から啓蒙し、その違和感を取り除いてあげるべきじゃなかったんですか?」
「科学は常に開かれています。彼らに理解する気があれば、十分に出来たはずですよ。彼らの知的怠慢にまで科学が責任を持つのはおかしいでしょう。」
「教主様、私共もお連れ下さい。」
信徒達は、プロメターの膝に取り縋らんばかりの勢いで、請願を繰り返す。
「聞き分けて下さい。ここで出て行けば、まず助かりません。」
もう何度目になるか判らないセリフを繰り返す。
「ですからこそ、お供致したいのでございます。盾となる者は、一人でも多い方が良いと存じます。」
「それよりも、貴殿方が一人でも多く生き残る事の方が大事なのです。」
「いいえ。我々の中には、教主様ご薨去の後の世界を見たい者など居りません。そもそも、教主様のご出陣を指を咥えて見ていたとなれば、エピメター様に会わせる顔がございません。」
「ダグは、その様な事を言う男ではありません。」
先程から、何度も繰り返している会話である。
全くの堂々巡りであった。
重力の使命のケンジントン支部は、総勢で10名程のこじんまりとした規模であり、なまじ信徒達との距離が近いだけに、堅苦しいやり取りの無い家族的な雰囲気でやって来たが、その事が裏目に出てしまった。
プロメター自身は、ケネスの提示する微かな希望のためにその身を棄てても良いと思っているのだが、できれば信徒達は巻き添えにしたくない。
しかし信徒達から見れば、プロメターを見殺しにする位なら共に命を投げ出す方がましなのである。
この調子では、仮にプロメターが破門を盾に脅しても、無視して付いて来かねない勢いである。
出撃までは後一時間程しかないが、到底その間に説得できそうにない。
どうしたものかと内心途方に暮れかけていたとき、胸の内ポケットでPDAがずっと振動し続けている事に気付いた。
「ここで待っていなさい。直ぐに戻ります。」
そう言ってプロメターは席を立つと、別室に入った。
PDAを取り出して見ると、ケイからの着信である。
こっちの状況が判らない筈は無いのに、今更何の用だろう?後回しにしようかと思わないでもなかったが、ケイは意味の無い事はしない。
とりあえず、手早く片付けよう、と画面をタッチした。
「どうした?」
プロメターの顔を見たケイは、気が抜けてへたり込んでしまった。
ケイの気が抜けた様な顔を見たプロメターは、訳が判らず繰返し訊ねた。
「どうしたんだ?」
その声で我に帰ったケイは、ここまでの経緯を一気に捲し立てた。
最初の内は何の事だか見当も付かず生返事を返していたプロメターだったが、事態が飲み込めるにつれてケイの興奮が伝染していつの間にかPDAを握り締めていた。
「そういう訳だ。とにかく石に齧り付いてでも一月持たせろ。必ず彼らは来る。」
説明を聞いたプロメターは、上気した表情で言った。
「判った。そういう事なら士気も上がるだろうから、何がなんでも一月保たせる。」
ここでケイは、トーンを落として続けた。
「それから、片がついたらケネス師にうまく取りなしてくれ。」
「判ってるよ。ケネス師は恩を忘れる様な人物じゃないから、彼等を粗略には扱わんだろう。それから遠征費用については、もしケネス師が渋るようなら、重力の使命の資産を売り払ってでも工面する。」
そう言って、プロメターは胸を叩いた。
「宜しく頼む。」
二人はしばらく無言であったが、やがてプロメターが、ポツリと言った。
「それにしても、お前は本当に底が知れない男だな。シンシアがお前に惚れた理由が判った様な気がするよ。」
少なくとも、今回の件に関しては予想外の幸運が連続しただけである事を認識しているケイは、苦笑するしか無かった。
信徒達は、突然別室に消えたプロメターを、訳が判らないまま辛抱強く待っていた。
やがて、晴々とした表情で出てきたプロメターが言った。
「もう大丈夫です。我々は助かりました。」
何の事だか全く判らないが、敬愛する教主がそう言うのであれば、心配は要らなくなったのであろう。
全員が、ほっとしてへたり込んだ。
「今すぐにケネス閣下の所へ行ってきます。このままここで待っていなさい。」
そう言い置いて、プロメターは大急ぎで出ていった。
その背中を見送りながら、言葉を発する者はいなかった。
パオロは言った。
「だから先達たちは、一般民衆自身が科学を望まないのであれば 、再度世界が正しい科学を受け入れる準備が出来るまで彼らを科学から隔離しようと決心したわけです。」
「その手段が炎の剣だったわけですか。」
サーリムの問いにパオロは頷いたが、それから嘆く様に頸を振って続けた。
「そういうことです。しかし、彼らは目的を見失ってしまいました。」
「彼らとは?」
サーリムはその慨嘆の原因の見当が付かず、訊ねる。
「ウィリアムと炎の剣の初期の幹部達は、民衆に過ちを犯させないように、穏やかに民衆を科学から隔離しつつ時期を待つ、という自分達の使命を良く理解していました。しかし、今のアルフォンス達は違います。手段が目的化してしまいました。」
「と言うと?」
ようやく、核心に迫ってきた様だ。
「アルフォンスは、一般民衆が科学を嫌悪するように仕向け、本気で世界を中世に引き戻し、その中で唯一科学を保持する自分達が指導者として大衆を指導すべきだと主張しています。しかし本音は、指導者のノブレス・オブリージュを盾に大衆に君臨する事を正当化しようとしているだけです。」
「なるほど、それで禁書館を焼き討ちしようとしたわけですか。」
炎の剣がSI局に対して示してきた敵意の原因が判った様な気がしてきた。
「いいえ。アンソニーは、ああ見えて結構一途な人物でしてね。その使命を彼なりに突き詰めた結果が、禁書館の破壊でした。勿論我々はそこまでの事は意図していませんでしたが。あれは彼等の暴走であって、決して我々の本意ではありません。とはいえ、アンソニーは外世界の民衆の安全のためには、科学技術を彼等自身の手の届くところに置いてはいけないと判断して、除去しようとしたのです。しかし、今のアルフォンスは違います。彼は、外世界をその支配下に置きたいという妄想に取り憑かれています。もう我々の言葉に耳を貸そうとはしません。」
日が変わった直後の前庭に立ったケネスは、篝火を頼りに出撃前の最後の確認に余念の無い兵士達を眺めていた。
彼等は言葉少なに、互いの装備に緩みやほつれ、そして忘れ物が無いかを確認しあっていた。
敢えて勇ましい言辞を吐する者も無く、淡々と最後の支度を続ける姿は、その決意の固さを物語っていた。
彼等は、これから夜陰に乗じて塀を乗り越え、広場に撃って出る。
身を潜めつつなるべく広場の奥に入り込んでから、一斉に手当たり次第に斬りかかる。
勿論生きて帰る事は出来ない。
彼等が命懸けで騒ぎを起こしている間に、ケネス達は裏の塀を越えて、舟で川を下るのだ。
ダレスは、ガーディアンも含め陽動班と脱出班で合わせて50人以上を出す様に強行に主張したが、ケネスはマクロードに、最低限の人数に絞る様に厳命した。
そして、マクロードが出した見積は、禁書館防衛隊から陽動班20名と脱出班10名であった。
そしてマクロード自身は、脱出班ではなく陽動班の先頭に立っていた。
陽動班は勿論のこと、恐らく、脱出班も(勿論ケネス自身も)今日の朝日を見る事は叶わないであろう。
もうそろそろ裏庭に移動して脱出班に合流する必要があるが、ケネスはここを去り難かった。
もし、万に一つ上手く行っても、この20名は全て命を落とす事になろう、そう思うと、彼等にこの場で土下座して謝りたい衝動に駆られたが、それではかえって彼等の決意を汚す様な気がして、思い止まった。
せめて、彼等が塀を越えて出て行く所を見届け、その雄姿をしっかりと目に焼き付けようと思った。
改めて周りを見回すと、ジョーンズは側に控えて居るが、プロメターは居なかった。
既に裏庭にいるのかもしれないが、この期に及んで翻意したかとも思った。
そうであったとしても、特に腹は立たなかった。
あの男は、ここで死ぬよりは生き延びて貰う方が将来の為になるであろう、そう思っていた。
そうしている内に、最後の確認を終えた陽動班は、マクロードを先頭に整列した。
「それでは、我々は参ります。」
そう言うと、マクロード以下全員が敬礼した。
「うむ。そなたらの功績は、連邦が存続する限り永遠に語り継がれるであろう。宜しく頼むぞ。」
ケネスの言葉に、全員が再度敬礼すると、踵を反して歩み出した。
「お待ち下さい!」
その時、プロメターの叫びが響き、全員が一斉に振り向いた。
彼は叫びながら、兵士達を掻き分けて走ってくる。
何故来た、と軽い失望を感じつつ、ケネスはプロメターを見た。
「事情が変わりました!出撃は中止願います!」
「ところで、先程のお話では、貴殿方が我々の間に入ってくる際の名字には、何らかのメッセージが含まれているという事でしたが、そうなると、プロメターにも意味があるんでしょうか?」
「ええ、勿論そうです。彼のメッセージは、『我再び人類に科学の炎をもたらさん』です。」
そう言ってパオロは、言葉を切った。
どうやら、謎かけのつもりらしい。
「『人類に炎をもたらす』・・・成る程、プロメテウスですか。」
パオロは、満足げに頷いた。
プロメテウスとは、ギリシャ神話に出てくるティターン(巨神)の一人で、オリンポスの神々の意に逆らって人類に炎をもたらした罪で、カウカーソス山の頂上に鎖で繋がれ、地獄の責め苦に苛まれる事になった男である。
余談ながら、神々の怒りはそれでも収まらず、神々はプロメテウスを心から敬愛していたその弟エピメテウスに対して、人類に災厄をもたらす美女パンドラをあてがった。
自己犠牲を覚悟の上で人類に炎をもたらすとは、プロメターらしい覚悟である。
サーリムは、プロメターの誠実さと、エピメターのプロメターに対する無条件の信頼を改めて思い返した。