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黄昏の彼方に 第三部『崑崙』  作者: ろ~えん
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第五話 接触

部屋に入るとケイはやや気まずそうに言った。

「元気か?」

「ええ、貴方も元気そうでなによりです。」

20年ぶりの再会は、ぎこちないやり取りから始まった。

ケイはサーリムより15歳上の筈だが、目の前のケイは、50歳にしては少々若く見えた。

「局長に成るんだってな。」

ケイは照れ隠しの様に言った。

「ジョーンズ局長は、そうしたがっていますね。」

サーリムは軽く受け流す。

「おめでとう。大した出世じゃないか。」

その声は本当に嬉しそうだった。

「とんでもない。貴方が居なくなったせいです。良い迷惑ですよ。」

実際のところ、サーリムにとっては嬉しい話では無かった。

「もし仮に、俺がそのまま監査官を続けて局長に成っていたら、やっぱりお前を後任に指名したさ。」

ケイの言葉に、サーリムはぶっきらぼうに言った。

「それは買い被りですよ。」

「お前は、ポールの人物眼が信じられないのか?」

からかう様な調子で、ケイが訊ねる。

「ジョーンズ局長にも、眼鏡違いはあるでしょう。」

その答に、ケイは真顔になった。

「自分を疑う事は監査官にとっては常に忘れてはならない重要な課題だが、自己評価を低く見積り過ぎるのはお前の悪い癖だ。それを教えてやる暇が無かったのが唯一の心残りだよ。」

その眼差しは、かつての師匠に戻っていた。

「そんな事より、一体どういう事なのか教えて貰えませんか?」

「判った。」

そう言って、ケイは鐘楼で別れた後の事を語り始めた。

---

プロメターは、ケイを無人の会議室に運び込み机の上に横たえるとドアに鍵をかけた。

ケイは机の上に寝かされたまま、それを黙って見ていた。

「まず、お前の状態だが、俺の見立てではまず助からんだろう。」

ケイは、無言で頷く。

「明らかに刃は内臓に達しているし、今はこの刃が傷口を塞いでいるんで出血がそれほどでもないが、刃を抜けば大量出血を止める手段がない。」

その認識は、ケイ自身の見立てと一致していた。

プロメターはケイの表情を確かめた後、居住まいを正して続けた。

「実は、一つだけお前を助けられるかもしれない方法がある。」

ケイは、その言葉に驚きの表情を見せた。

「ただし、それをするためには、お前をクレメンズビルに運ばなきゃならんし、我々はその方法を公にする事が出来ないから、もし助かってもお前をここに戻してやる事は出来ない。つまり、ここの人達から見れば、お前は死んだ事になるわけだ。」

そう言って、プロメターはケイの目を覗き込んだ。

「それでも良いならやってみるが、どうする?」

ケイは苦しそうな声で、囁く様に答えた。

「そもそもクレメンズビルまで持たんだろ?」

「その点はちゃんと手があるが、お前がさっきの条件に同意しない限り、説明する訳にはいかない。」

ケイは唇の端を歪ませて、笑って見せた。

「どうせ死ぬなら同じ事だ。その方法というやつを是非見てみたい。」

プロメターは安堵の表情で頷いた。

「判った。もうすぐエピメターがメディカル・アンビュランス・ユニット(MAU)という機械を持ってくるから、お前の脊髄を切開して、その子機を埋め込む。そうしたら、MAUが電波で子機を通してお前の代謝を、脳に障害が残らないぎりぎりまで低下させて、いわゆる仮死状態にする。それで数日は持つから、その間にクレメンズビルまで運ぶ。そして手術すれば助かる可能性がある。」

ケイには初めて聞く言葉ばかりで十分に理解したとは言いがたいが、それでもおおよそは呑み込めた。

「その可能性は、どれくらいだ?」

「なんとも言えないが、俺の素人判断では五分五分だな。」

こういうところで安請け合いをしないのが、プロメターの誠実な性格を示している。

それは同時に、瀕死の状態でも事実を冷静に受け止めるであろうという、ケイに対する信頼も表していた。

「判った。それで頼む。だが、切開は痛くないようにしてくれよ。」

ケイは軽口を叩いて見せる事で、プロメターへの信頼を示して見せた。

「安心しろ。ちゃんと麻酔は掛けてやる。」

プロメターは掛け合いに乗ってやる事で、その信頼を裏切らない事を約束した。

---

「そうしてクレメンズビルで応急手術をした後、ここに連れてこられて、本格的な人工臓器移植をして助かった訳だ。」

「なるほど。」

プロメターの立ち居振舞いを見ていると、時折奇妙に現実感の無い、いわば別世界の人間を見ている様に感じられる事があったが、その原因がやっと判った。

プロメターは、文字通り別世界の人間だったのだ。

その正体を隠して生活を続けている以上、その日常は演技で構成されざるを得ない。

勿論、万事において周到なプロメターが、すぐにそれと見抜ける様な底の浅い演技をするはずはないが、それでも恐らくは何かに意識を集中する瞬間に、演技が疎かになる瞬間があるのであろう。

「それで、私をここに呼んで、何をさせたいんですか?」

ともあれ、その点を明確にしておく必要がある。

しかし、ケイは済まなそうな表情で言った。

「ここの上の方が、お前に話したい事があるんだそうだ。その内容については俺は聞かされていない。後で別の人間から説明があるだろう。」

ケイの様子では、これ以上言える事は無さそうだった。

「じゃあ、担当者に引き継ごうか。」

そう言って出ようとするケイに、サーリムは声を掛けた。

「ケイ、ちょっと。」

虚を衝かれたケイが、振り返る。

「何だ?」

サーリムは、ポケットからPDAを取り出した。

「返すよ。」

このPDAは厳密に言えばケイの物ではないが、とりあえず受け取ると深く考える事なくポケットにしまった。


「ともかく、」

そう言いながらケネスは立ち上がった。

「このままここに居ては話にならん。一先ず我らがサンタンジェロへ移ろうではないか。」

その言葉に5人は耳を疑った。

彼らはそのまま絶句していたが、やがてアリソンが代表して尋ねようとした。

「移ると仰られても・・・」

その言葉を遮って、ケネスが言う。

「仮に立て籠るとしても、ここではなく禁書館でなければ意味がない。ケンジントンから脱出するにも、包囲が始まった時点で戦う他は無くなっておるのだから、禁書館の手勢と合流せねばならぬ。いずれにしても禁書館に入る以外に選択肢は無いと思うが?」

アリソンは控えめに訊ねた。

「ええ、その点は私めも承知しておりますが、今のこの状況でいかにして移動致しますので?」

ケネスは5人を見回して、いたずらっぽく笑った。

「そなたらは、なぜ最高賢者の居室が1階にあるのか、疑問を持った事は無いのか?」

言われてみれば、確かに妙である。

居室、特に執務室はその地位の象徴なのだから、最高賢者なら最上階に設けそうな物だ。

ケネスは、壁に設けられた書棚の下部の収納扉を開いた。

空になっているその収納の底板は、寄せ木細工の複雑な模様となっている。

その右端の模様を押すと、模様がくるりと回転して取っ手が現れた。

取っ手を左に引くと、底板全体がスライドして、その下に真っ暗な穴が口を開けた。

「だから、禁書館はカステル・サンタンジェロだと言ったであろう?」

そう言って、ケネスは片目を瞑ってみせた。


ケイに連れていかれた先には、中年の婦人と十代後半とおぼしき少年がいた。

「ターニャ、後は宜しくお願いします。」

「ご苦労様です、ケイ。」

ケイは婦人と短く挨拶を交わすと、そのままサーリムを置いて出ていってしまった。

「マンスールさん、初めまして、私の名前はタチアナ・DPBA001です。 ターニャと呼んでください。そして、この子は貴方がここにいらっしゃる間の身の回りのお世話をします。」

「初めまして、レイ・ESC2143です。」

「初めまして、サーリム・ラティーフ・マンスールです。サーリムと呼んでください。」

二人に挨拶を返すと、タチアナが言った。

「荷物は全てこちらで預からせていただきます。勿論帰るときにはお返ししますよ。それから服も着替えてください。そのパーティションの向うに下着から全てそろえてあります。脱いだ服はその籠に入れて置いてください。こちらで洗浄します。」

言われた通りにパーティションの向こう側へ廻ると、服や下着から靴まで一揃いが透明な袋に入って並べられていた。

一番大きな袋を取り上げて開け口を探したが、完全に密閉されており、開きそうには無い。

やむを得ず端を適当に引っ張ると、袋は少し伸びながら破れた。

良くわからないが、プラスチックの一種なのだろう。

拡げてみると、それはここまでに出会った人間が着ていたのと同じようなジャンプスーツだった。

恐らく、ここの制服なのだろう。

他の袋も、破って行く。

一通り拡げて見て、身に付ける上で支障は無さそうなのを確認すると、身に付けていた物を全て脱ぎ捨てて、足許の籠に丸めて押し込んだ。

下着から順に身につけて行き、ジャンプスーツに足を通し、引っ張りあげる。

そのまま、上半身を羽織りながら袖を通した所で行き詰まった。

前面の合わせ目にボタンやフックらしき物が見当たらないので、閉じ方が判らないのだ。

「あー、その、」

何と声を掛けようかと迷っていると、少年がパーティションを回り込んで来た。

ジャンプスーツの前面が全開のまま途方に暮れているサーリムの様子を見たレイは、直ぐに状況を理解した。

「ええと、これは、ファスナーと言って、この、」

と言いながら合わせ目の一番下にある小さな金具を摘まんで見せた。

「ツマミをこうすると閉まります。」

そう言いながら、ゆっくりと、ツマミを引っ張り上げて見せた。

「開ける時は、下に向かって引っ張ります。」

サーリムは、言われた通りに引っ張り下ろして、動作を確認した後、合わせ目をまじまじと眺めた。

目を凝らさなければ判らないほどの小さなプラスチック片が、びっしりと並んでいる。

こんな小さな部品がスムーズに噛み合う様にするためには、どれ程の工作精度が必要なのかを考えると、背筋が寒くなった。

ファスナーを閉じてみると、スーツは綺麗に閉じ合わされ、全くすきま風が入る余地が無くなった。

更に合わせ目を両手で引っ張って見たが、かなり強く引っ張ったにも関わらず、びくともしなかった。

再度、上げ下ろししてみたが、全く引っ掛かる事なく、スムーズに動く。

その性能に、サーリムは思わず軽く唸った。

レイに礼を言って靴を履き、パーティションから出る。

「どうなさったのかしら?」

「は?」

サーリムはタチアナが何を訊ねているのか判らず、いささか間の抜けた返事をした。

「いえ、何か唸っていらっしゃった様だから。」

サーリムは、軽く赤面しながら答えた。

「あ、いえ、その、皆さんの格好を見て、アーミッシュの様にボタンを嫌う教義でも有るのかと思っていたんですが、このファスナーの性能を見て、純粋に合理的な選択なんだと判って感心したんですよ。」

アーミッシュとは主に北米に拠点を持つルター派の教団の一つで、その主な特徴は、強い信念に基づく科学技術の否定と虚飾の排除である。

大いなる再構築の数百年も前から、科学技術を拒絶し、中世そのものの生活を送ってきた人びとであった。

何しろ、これ見よがしに力を誇示しながら疾駆するスポーツカーや大型トレーラーに混じって、何の気負いもなくごく当たり前の様に馬車でハイウェイを利用していたのだから、その信念は筋金入りであった。

その頑迷とも言える宗教的信念に基づいて、大いなる再構築によって科学技術が排除された事による何の影響も受けず、全く平常運転のままで生きている彼等は、本来なら偉大なる先駆者として高く評価されても良さそうな物だが、実際にはそうはならなかった。

何よりも彼等は、迫害される事はあっても、ついぞ迫害する側に回った事がないという自身の歴史に対して深い誇りを抱いており、大いなる再構築においても、積極的な破壊に従事する事を一切拒絶したのである。

そして、世界がアーミッシュ達と同じ生活水準となった現在でも、彼等は一目で他の団体と区別ができる。

何故なら、彼等は黒や焦げ茶色の様な極めて地味な衣類しか着用せず、更に、その服は全て内ボタンかフックで綴じられており、外から見えるボタンは全く使用されていないのだ。

彼等の言葉を借りれば、『(装飾的要素を持つ)ボタンは傲慢』なのである。

「なるほど、我々の合理性に対する姿勢をそんなに高く評価されるとは、光栄ですわね。」

そう言った後、タチアナはイタズラっぽく笑って続けた。

「でも、そのアーミッシュの喩えは、案外的外れでもないかも知れませんよ。」

それは、宗教的信念と合理性は対極にあると考えているサーリムにとっては、意外な言葉であった。

「それはつまり、貴女方も何らかの宗教的信念に基づいて行動している、という事ですか?」

タチアナは、先程とは打って変わって、真面目な表情になった。

「いえ、我々は個人としてはそれぞれの信念に沿った宗教を持っている者も沢山居ますし、そうでない者も居ます。宗教は全く個人の物であって、それが何であれ他者が口を挟むべき物ではないと考えられて居ますからね。でも全員に共通する点として、合理性に対する極めて強い信頼を、言い方を変えれば執着ですわね、持っているという事実があります。それこそ、神に対して敬虔を捧げるのと同じ様に、科学に対して合理性を捧げていると言えるかも知れません。」

それは、サーリムが今まで見聞きしてきた事実とは矛盾している様に感じられた。

「しかし、私がここまで来る間だけでも、居住区画と職務区画を分離して、間に公園を設けたりといった合理性を廃してまで快適性を実現しようとしている例がいくつか見られた様ですが?」

タチアナは微笑んだ。

「それは、『合理性』をどの大きさで捉えるかによりますね。」

サーリムは話が理解できず、頸を捻る。

「短期間に結果が現れる合理性を優先するなら、その二つは一つに纏めるべきでしょうが、そういう環境から生じるストレスに長期間耐えらえる人間は、そう多くはありません。ストレスを除去するためにそれらを分離するのは、そういう近視眼的な、要するに小さい合理性を犠牲にする事で、長期的に安定した環境を築くという大きな目的を実現する上で、極めて有効な合理的選択でしょう。」

その言葉には、なるほどと感心した。

その時、タチアナがディスプレイにちらりと目をやってから言った。

「ところで、何か首から下げているようですね。」

サーリムは訝しげに訊ねた。

「カメラか何かで監視していたんですか?」

「とんでもない。お着替えを覗く様な無作法は致しません。ゲスト用の服には、お客様に常に快適な環境が提供できるように、モニター機能が着いているんですよ。そのモニター機能が胸の上に異物を検出したわけです。」

サーリムは胸のファスナーを開き、肌着の下から占い石のポーチを引っ張り出して見せる。

「ただのお守りです 。」

「もし、差し支えなければ、中を検めさせていただきたいわ。」

サーリムは皮ひもを首からはずすと、ターニャに渡した。

「どうぞ。」

タチアナは袋の中を覗き、テーブルの上で袋の口を傾けると2個の石が転がり出る。

「まぁ、綺麗。」

溜息をついて赤石を摘み上げると、照明に透かしてまじまじと観察する。

「本物のルビーね。こんなに綺麗なピジョンブラッドは珍しいわね。」

更に、

「そうなるとこちらは」

とつぶやきつつ青石を摘み上げて、同じく照明に透かして見る。

「やっぱり本物のサファイヤね。これだけ深い色の石はめったに見られないわ。」

そして二つの石をそっと皮袋に戻すと、袋を返して言った。

「大変素晴らしいお守りですわね。危険は無さそうだしそのまま身に付けていていただいて結構ですわ。」

サーリムは袋を受け取り、礼を言って再び首にかける。

「ただ、余計なお世話ですけど、宝石愛好家として言わせていただきたい事がありますの。」

サーリムは軽く首を傾げた。

「なんでしょう?」

「ルビーもサファイヤもコランダムと呼ばれる酸化アルミニウムの結晶で、 ダイヤモンドの次に固い鉱物ですから、めったな事では傷付きません。でも、コランダム同士をそうやって摩擦させると、いわゆる『共傷』といって両方の石に傷が入ってしまいます。そんな見事な石に傷が入るのは残念でなりません。出来れば別々の袋に入れるべきですわね。」

サーリムは軽く微笑んで応えた。

「ご忠告有難うございます。ここから無事に帰れたら、別々の袋に入れる事にしましょう。」

タチアナは、その含みに気付かぬ風で言った。

「是非そうして頂きたいわ。」

挑発が軽くいなされたサーリムは、主導権を取れないままに質問に入るしかなかった。

「ところで、お尋ねしても良いですか?」

「どうぞ、何なりと。」

まずは、直接関係の無さそうな所から入ろう。

「貴女方の苗字は、とても変わっているようですが。」

「そうですわね。ここのルールをご存知無いと変に思われるでしょうね 。まず第一に、ここには苗字と言うものはありません。私のDPBA001は、苗字ではなくIDです。ここの創設者達は、人は血統とか出身とかいった本人の責任ではないもので評価されてはいけない、という観点から、苗字と言うものを全て否定しました。そして、名前と職能を表すIDで個人を識別する事にしたんです。例えば私の場合は、DPBA001ですけど、頭のDPは『外交部』、その 次のBは『外勤課』、外交部はここの中で働く内勤課と外世界に出る外勤課に分かれています。まあ、私は課長なので外に出る事はありませんが。そして、その次のAは課長職の職能ランクを表していて、その後の3桁の数字は内勤課内の課長職の中での識別番号です。と言っても、課長職は各課にそれぞれ一人しかいませんから全員001ですけどね。それより下は、B以降の職能ランクの下に四桁の識別番号を持ちます。」

「その識別番号は、それぞれの職能ランクの中での順位ですか?」

「いいえ、ただ単に職場・職能毎に重複しない番号を振っているだけで 、0001でも9999でも上下の差はありません。むしろ、番号に特定の意味 付けが発生しない様に、異動や昇進や場合によっては死亡などで欠番になった番号は積極的に再使用されますから、番号の数字自体に意味はありません。参考までに、貴方をこの部屋に連れてきたケイは、ここではケイ・DPZZ0129と呼ばれています。」

ZZとはまた、いかにも『余所者』と言わんばかりの職能である。

先程のケイの、何となく寂しそうな様子の意味が判った様な気がした。

「私もDPZZの何番かになる訳ですか?」

「もし貴方がここに留まる事に成れば、多分そうなるでしょうね。でも、貴方は元の世界にお戻り頂く予定ですから、貴方は来訪者として

そのままサーリム・マンスールさんと呼ばれますわ。」

サーリムは、その言葉がどの程度信用できるものかと考えつつタチアナの表情を窺ってみる。

「随分注意深く観察されているようですわね。」

視線の意味に気付いたタチアナが声を掛ける。

「いや、これは失礼。ちょっと考え事をしていただけです。」

サーリムは、その場を取り繕おうとした。

「お気になさらないで。私が貴方の立場でも、信じられるかどうか判断するために必死で手がかりを探すでしょうからね。」

そう言いながらタチアナは再び微笑んで見せた。

「ところで、あなたのその鋭い観察眼で、私は何歳に見えまして?」

タチアナは、挑戦的な笑みを浮かべた。

彼女の外見は彼には35・6歳に見えるが、その落ち着いたしゃべり方を加味すると40前、若く取って37・8といったところかと踏んだ。

後は、女性の歳を話題にする時の経験から、なるべく機嫌を損ねないように1割を引いて答えた。

「失礼ですが 33・4といったところでしょうか。」

タチアナは本気で嬉しそうに微笑むと答えた。

「まぁ、お上手な事。お世辞と判っていても嬉しいわ。でもね、本当の事を言うと貴方はきっと驚くわよ。」

まあ、見た目通りの年齢ならこんな質問をする筈はないので、実際はもっと上である事は最初から判っていたが、精々ご機嫌を取っておいて損はないので答を促した。

「といいますと?」

「私はね、貴方の母親といってもおかしくない歳なの。今年で56になる わ。」

この答にはサーリムも驚いた。

高くても40代前半だろうと思っていたのだ。

サーリムの表情を見たタチアナは、更に嬉しそうな表情で続ける。

「どう、驚いたでしょ。でもね、これは私だけが特別若いわけじゃないのよ 。確かに私は此処の女達の中でも美容に気を使っている方だけれど、私 くらいの若さの50代は、ここには沢山居るわ。」

最近はしきりに目尻の皺や豊麗線を気にしているマーガレットに聞かせたら、悔しさの余りにハンカチを噛み千切りそうな話だ。

「ここには、そんなに進んだ美容技術があるんですか?」

そう訊ねると、タチアナは穏やかな教師を想わせる微笑みを見せた。

「まあ、それも要素の一つね。でもね、私たちから見ればむしろあなた方の世界の50代の方が老けているのよ。」

その言葉にサーリムは鼻白む。

「それは勿論、相対的なものですから、どちらから見るかで変わるのは当然でしょう。」

すると、タチアナは真顔になり説明した。

「いいえ、そういう意味じゃないの。あなた方が直面している自然環境の厳しさがあなた方の老化を早めている、という事よ。」

サーリムには、話が呑み込めなかった。

「我々の生活環境が老化の原因ですか?」

要領を得ない表情のサーリムに、彼女は説明を続ける。

「そう、あなた方は日常生活の中で紫外線や大きな温度変化に晒されて、皮膚の劣化が促進されているのよ。私達には確かに進んだ美容技術もありますけど、それ以上に過酷な自然が引き起こす皮膚の劣化を避ける手段を持っている事の方が大きいの。実際、大破壊(グレー ト・ディストラクション)以前には・・・」

その言葉にサーリムは、無意識の内に怯えるように肩を竦めた。

連邦政府の正統性を担保する唯一の根拠が、『大いなる再構築グレート・リストラクション』である。

だからこそ、連邦政府はこの言葉に非常に敏感である。

特に、『リ』ストラクション(再構築)と『ディ』ストラクション(破壊)の言い替え乃至はもじりは、政府が創建された頃から盛んに囁かれていた。

連邦政府は、この軽口を『政府の正統性に対する悪質な挑戦』と定義し、徹底的に弾圧した。

その結果、どうという事のない小説の中で一ヶ所だけこの誤植がある事が発見された時、ミスを犯した植字工は火刑に処され、編集者や著者は言うに及ばず、その他の関係者に至るまで全員が巻き添えを喰って逮捕・投獄されるという事態になった。

これを見た国民は戦慄し、絶対的タブーの存在を認識した。

みんな、聞き間違われる事を恐れて『リ』ストラクションと強いアクセントで発音する様になり、子供が話すようになると、呂律が回らない内からこの音だけは間違わない様に厳しく躾るのが常識となった。

だから、今タチアナが言った様にさらりとその言葉を口にする事には、慣れていなかったのだ。

しかし、そう言う恐れとは全く無縁なタチアナは、何故サーリムが激しく反応したのかを全く気にかける事もなく、平然と続けた。

「外世界でも、今のあなた方から見て30代にしか見えない50代の女性は珍しくなかったでしょうね。」

なるほど、ただの自慢話ではなく、大いなる再構築で喪われた物を明らかにする為の実地教育な訳だ。

「我々は過酷な自然に対抗する技術を失った、ということですか。」

「そういう事。その結果、わずか50歳代でしわくちゃのおばあちゃんに なってしまう事になったわけ。」

筋が通っているとはいえ、その言葉がどこまで信用できるのかは、何とも言い難かった。

そもそもタチアナの年齢自体が、自己申告なのである。

しかし、ここまでに見聞きしてきた物だけでも、サーリムの理解を越える技術の裏打ちが十分に窺える。

サーリムは、この点について早急に結論を出すべきではないと判断した。

サーリムの表情の変化を見てとったタチアナは、再び事務的な態度に戻って告げた。

「さて、これで『入国手続』は完了しました。隣室にお食事の仕度がしてありますので、どうぞ。」

サーリムは促されて、ドアを出た。


「尊師、大変でございます!」

「大声を出さなくても聞こえる。どうしたと言うのだ?」

禁書館を除くセンター地区の制圧がすっかり終わり、居並ぶ側近達と共にくつろいで事態の進展に満足げなアルフォンスは、飛び込んでくるなり蒼白になってわめきたてるベルナールに、不快そうに訊ねた。

「ケネス師が居りません!」

「何だと!」

アルフォンスは、弾かれる様に立ち上がると叫んだ。

「貴様は、ケネス師を確保したと言っていたではないか!」

額から滝のように流れ落ちる冷や汗を拭いながら、ベルナールが答えた。

「は、はい、確かに確保致しまして、執務室に監禁しておったのでございますが・・・」

アルフォンスは感情の昂りを隠そうともせず、話を遮って叱責を浴びせる。

「では、何故逃げられた!監視を付けておらなんだのか!」

激しい叱責にベルナールはしきりに頭を下げながら、消え入りそうな様子で必死に弁明しようとする。

「も、勿論ドアの前にも窓の外にも、銃を持った兵士を配しまして、厳重に監視を・・・」

ベルナールが弁解する度に、アルフォンスはますますヒートアップする。

「それで逃げられるとはどういう事だ!居眠りでもしておったのか!」

「い、いえ、あの、全員がしっかりと、その、監視を致して・・・」

そう言いかけたところで、ベルナールはうめき声を上げて大きく右によろめくとそのまま踞った。

アルフォンスは、衝撃にずきずきと痛む右拳を左手で軽くさすった後、踞るベルナールを蹴りあげた。

「この無能者が!」

腹を蹴りあげられたベルナールは、再度うめき声を上げて丸まった。

アルフォンスは獣じみた唸り声を上げながら、丸まったままのベルナールに手当たり次第に蹴りを入れる。

回りに控えていた者のうち、長年の側近達はやれやれという表情で視線をそらし、今回のために新しく雇われた者達は初めて見る尊師の取り乱した姿に、呆然としてなすすべもなく見ていた。

やがて息が切れたアルフォンスは、漸く回りの怯える様な視線に気付いて、慌てて居住まいを正した。

極力平静を装って、声を掛ける。

「ベルナール、立ちなさい。」

ベルナールは、ドブネズミを思わせるような怯えた眼差しで見上げていたが、これ以上蹴られる事は無さそうだと判断して、のろのろと立ち上がった。

「ともかく探すのだ。禁書館に入られたら厄介だからな。」

ベルナールは慌てて、請け合う様に言い掛けた。

「禁書館は、ケネス師を確保して軍勢をセンター地区に入れた直後に、厳重に包囲致しましたので、万に一つも・・・」

その時、アルフォンスの冷やかな視線に気付いた。

「は、はい、直ぐに捜索に掛かります!」

そう言ってアルフォンスに背を向けると、口の端に流れ落ちる血を拭いながら歩き出した。

その双眸には、今しがたの屈辱に対する暗い怒りが燃えたぎっていた。


食事を終えると、タチアナは立ち上がった。

「今日はお疲れでしょうから、この後はゲストルームでお休み下さい。」

そう言ってタチアナが部屋を出るとレイはその後に続き、サーリムも付いていった。

タチアナは廊下を進み金属製らしき引戸の前で止まると、引戸脇の壁に埋め込まれた上向きの矢印形のランプを押した。

「これはエレベーターと言って、階段を使わずに他の階へ移動する手段です。」

サーリムはエレベーター位は本で読んだ事があるので、見下されている様で内心面白くは無かったが、黙って頷いておいた。

直ぐに扉が開き、三人は鉄の箱に乗り込む。

タチアナは箱の中の数字10が書かれたランプを押した。

「ゲストルームは10階にあります。」

扉が閉まり一瞬間があってから、軽い軋みと同時に突然体が沈み込むのを感じた。

予想もしなかった事態に、サーリムは狼狽して軽くよろめいた。

「今この箱は上に向かって動き出したので、加速度で瞬間的に体が重くなったんです。次は、停止するときに逆向きの加速度がかかりますから気をつけて下さい。」

タチアナの母親の様な笑みを見ながら、知識と実践は違うのだと改めて認識すると同時に、エレベーターくらいは知っていると見栄を切らなくて本当に良かったと思った。

やがて、アドバイス通りに体が浮き上がる感覚があり、扉が開いた。

三人は同じ様なドアが続く廊下を進み、一つのドアの前で立ち止まった。

「こちらがお泊まり頂くお部屋になります。当面の生活に必要なものは全て揃えてありますが、何かご入り用がありましたら、都度仰って頂ければ直ぐにご用意致します。ご滞在中はレイ君が隣の部屋で待機しますので、調度の使い方で判らない事があれば彼に尋ねて下さい。今後の予定は明朝説明致します。」

そう言って、タチアナは、ポケットから何かを取り出した。

「これはPDAと言って、個人用の連絡危機です。来客貸出用なので、登録されている番号にしか発信は出来ません。使い方はレイに聞いて下さい。」

サーリムがPDAを受け取ると、タチアナは言った。

「こちらへ来る時に使ったPDAはありますか?」

それは既にケイに渡してあったが、先程のエレベーターでの軽い失態を受け流された時の(勿論悪意は無いのは良く判っているが)訳知り顔に内心もやもやとしたものを感じていたため、素直に説明する気になれず思わずにとぼけて見せた。

「ああっと、どこにやったかな?」

タチアナは、特に疑う事もなく気軽な調子で言った。

「ああ、荷物はこちらに預かっていますね。後で見ておきます。」

それはつまり荷物を勝手に覗くという事であるが、ここで抗議しても話がややこしくなるだけなので、敢えて異議は唱えなかった。

そうして、タチアナは帰って行った。

「中を説明します。」

そう言ってレイは扉を開け、二人は部屋に入った。

部屋は、特にランプに類する様な物は無く、天井全体が淡く光っており、綺麗にメイクされたベッドと簡素なテーブルと椅子があって、その奥の壁には2つのドアがある。

レイが幅の狭い方のドアを開けると、中には数本のハンガーが下がっており、ガウンが掛かっていた。

その奥に棚が設えてあり、その上には先程見たのと同じ様なプラスチックの袋が並んでいた。

「こちらがクローゼットです。この棚に畳んであるのが寝間着とジャンプスーツと下着の替えになります。脱いだ物は、その足許の籠に突っ込んでおいて下さい。毎日回収して洗濯します。」

サーリムが頷くと、レイは隣の扉を開けた。

「ここがバスルームです。バスとトイレがあります。タオルはここに掛かっている物を使って下さい。この蛇口を捻るとお湯が出ます。お湯の温度は、こっちのレバーで調整して下さい。後は、こっちのレバーを倒すとシャワーに変わります。シャワーを浴びる時はこの、」

そう言いながらレイは、半透明のプラスチックのカーテンを引いた。

「シャワーカーテンを閉めます。その時はカーテンの裾はバスタブの中に入れておかないと、トイレの床が水浸しになるので注意して下さい。それから、シャワーとバスタブに溜めるお湯は、循環使用水なので飲み込まない様に注意して下さい。」

回収して再使用する水という意味らしい。

「衛生上の問題ですか?例えば飲むと腹を下すとか。」

「え?いいえ。その点は大丈夫です。ちゃんと浄化して殺菌してますから。だけど、殺菌用の塩素がたっぷり入ってますから、不味いです。」

水の味まで気にするとは、恐れ入った。

ここの外では、衛生的に問題のある水でも、飲まなければ死んでしまうのでやむを得ず飲用としている場所が沢山ある。

安全性についてすらそうなのだから、味など気にした事もない。

「入浴できる時間帯は、どうなっていますか?」

サーリムの問いが理解出来なかった風で、レイは頚を傾げた。

「え?何ですか?」

「ああその、つまり、お湯が使える時間帯は何時です?後、お湯はどのくらい使えますか?」

レイは、不思議そうな表情で答えた。

「仰る意味がよく判りませんが、お湯はいつでも好きなだけ出ますよ。でも閉め忘れて流しっぱなしにすると、怒られますけどね。」

ケイは泣いて喜んだだろうな、と思うと口許が緩んだ。

「明かりはどうやって点けたり消したりするんですか?」

「この扉を開けると自動的に点灯します。扉を閉めるときに中に人が居なければ、自動で消えます。」

レイはバスルームを出て、調度の説明を続ける。

「部屋の明かりは、入口のドアを開けて部屋に入ると点灯して、出ると消えます。」

「すると、部屋に居る間は、ずっと点いているんですか?」

「いいえ、掌をこうやって、」

そう言いながら、レイは右手を開いて見せる。

「少し挙げて見て下さい。」

サーリムは、意味が判らないまま、指示に従った。

「そのまま、こんな感じでゆっくり下げて見て下さい。」

そう言いながら、手招きするように掌を伏せる。

サーリムがその動作を真似ると、天井の明かりが音もなく暗くなった。

「明るくするときは、掌を反対に向けて、上に動かします。」

サーリムは、指を開いたまま掬い上げるように動かすと、再び部屋は明るくなった。

レイは、その他ざっと室内の説明をした後、PDAの説明を始めた。

「この画面上で、アイコンを・・・ええと、この画面に並んでいる小さな模様です、触ると、その模様が示す機能が動きます。取り合えずこの模様を覚えておいてください。」

そう言ってレイが指した模様は、ケンジントンで見たことがある、電話機と似た形をしていた。

「それに触って下さい。」

促されて、電話機のアイコンに触れると、画面にいくつかの名前らしき文字が並んだ。

「この『レイ・ESC2143』が僕のアドレスです。触って下さい。」

サーリムが言われた通りにすると、レイの胸の辺りから鳥が囀ずる様な音が響いた。

レイは、胸ポケットから自分のPDAを取り出すと、画面を見せた。

画面には、『サーリム・マンスール』と表示されている。

「これが、掛けてきた相手の名前です。この名前を触ると、繋がります。」

そう言いながらレイが画面に触れると、サーリムのPDAにレイの顔が写った。

レイは、自分のPDAの画面を見ながら言った。

「画面の右下にある×印を触ると、切れます。」

言われた通りにすると、レイの画像が消えて、再び名前の一覧に戻った。

レイは、サーリムのPDAの画面を覗き込みながら、『外交棟管理室』と書かれた名前を指差した。

「これが、このビルの管理室のアドレスです。設備について判らない事があれば、ここに掛ければ、いつでも誰かが待機しています。それ以外の事で聞きたい事があれば、この『外交部受付』に掛けて下さい。9時から18時までなら、必ず誰かがいます。」

そう言うとレイは、頭の中で自分の説明を反芻している様に、宙に視線を漂わせた後、サーリムに言った。

「後、PDAを使わない時はこの、」

そう言ってレイは、枕元の棚の上に書かれている四角い枠を指した。

「枠の中に置いておいて下さい。自動的に充電されます。ええと、これで必要な事は一通り説明した思います。また判らない事があれば、PDAで僕を呼んで下さい。僕は隣の部屋にいます。」

「判りました。ありがとう。」

レイが出ていった後、部屋中をさりげなく見回した。

手の動きで照明が調節できるという事は、どこかで常時監視しているという事である。

だから、どこから監視しているのか、確かめたかったのだ。

恐らく部屋の隅の天井に逆さに貼り付いている10センチ程の黒いドームであろうと見当を着けた。

特に他にする事も無かったので、取り合えず入浴することにした。

クローゼットを開けて裸になると、着ていた物を全て籠に押し込んでから、バスルームに入った。

湯はたっぷりと出て、温度調節もレバーで簡単に出来た。

久し振りに熱いシャワーを満足するまで浴びたサーリムは、沐浴に執着し続けたケイの気持ちがわかるような気がした。


地下道の終点には、入口と同じ鉄のタラップが固定されていた。

「そこの天井の蓋を開ければ、禁書館に入れる。」

ケネスの言葉に、ダレスは先頭に立ってタラップを登り、蓋を押し上げた。

その上は真っ暗である。

後に続いたアリソンからランプを受け取ると、回りを照らしてみる。

どうやら、倉庫の中らしい。

狭い倉庫の中で次々とタラップを上がり、殿軍のジョーンズが登り終えると、蓋をしっかりと閉めた。

モップの突っ込まれたバケツを跨いで扉を開けると、そこは見覚えのある階段下の小倉庫だった。

「誰か居るか?」

ダレスが声を張り上げると、二人のガーディアンが銃を抜いて走ってきた。

二人は一行に気付くと、慌てて銃をホルスターに戻して敬礼した。

「副局長を呼んでこい。」

二人は踵を合わせて再び敬礼すると、そのまま走って行った。

やがて、副局長のオコーナーがやって来ると、敬礼して言った。

「良くご無事で。安心しました。ところでどうやって来られたんですか?」

ダレスは経緯を手短に説明すると、小倉庫の前に歩哨を張り付ける様に命じた。


旅の汚れをすっかり流し終ると、大きなタオルで体を拭く。

まるで絨毯かと思うほど分厚いタオルは、下ろし立ての様に柔らかく、快適であった。

体に着いた水滴や汗を拭き終ると、天井の黒いドームが気になった。

向こうもどうせ仕事なのだから、気にしてもしょうがないのは判っているが、それでも監視下で裸でいる事には抵抗があった。

クローゼットから、下着と寝間着を引っ張り出して着込む。

熱いシャワーの火照りがまだ体の中に残っており、じわりと汗が滲むのを感じた途端に、天井脇のルーバーから冷たい風が吹き出してきた。

タチアナの言っていた、服のモニタ機能が働いたのであろう。

やがて部屋が涼しくなり火照りもおさまった頃に、音もなく風が止まった。

椅子にへたり込んだまま今日を思い返すと、とても一日分の出来事とは思われなかった。

ラウ真人に見送られて夜明け前に道勧を出たのは、何ヵ月も前の様な気がする。

物思いに耽っていると、突然鳥の囀りが響き渡った。

慌てて部屋を見回すと、音はテーブルの上のPDAから出ている。

PDAを取り上げると、画面にはレイの名が明滅していた。

名前に触れると、画面にレイが映る。

「何でしょう?」

「言い忘れてましたが、朝食は8時に用意します。明日は、10時から最高指導部の方々がお会いするそうです。」

「それは困りました。礼服の用意がありません。」

「礼服って?」

どうも、その単語自体を知らない様だ。

「ええっと、畏まった場で着る・・・そう、儀礼的な服です。」

少年は頚を傾げる。

「そういうのは、見たことがありません。ここではみんなジャンプスーツですよ。」

「そうですか。では私もそうしましょう。」

用件は終った様だが、レイは接続を切ろうとはしなかった。

何か言いたげな様子ながら、どう切り出した物かという風情で、黙っている。

「どうしました?」

「ええと、その、・・・」

レイの年齢については何も話が無く、部屋の調度の説明もてきぱきと要領よく行っていたので、外見が幼いだけなのかと思っていたのだが、口ごもるレイは、先程までとは打って変わって、外見相応の少年の様であった。

サーリムは、かつてケイが自分に接していた時のように、穏やかな表情で言葉を待った。

「別に用じゃないんだけど、少し話をしたいんですが。」

「はい、結構ですよ。」

どうせこの後は、寝るしか用がないのだ。

むしろ退屈しのぎになりそうなので、ありがたかった。

「ええと、外の世界って、どんな感じなんですか?」

これはまた、随分とざっくりした質問である。

サーリムは、返事に窮したので、とりあえず話の継ぎ穂を探す時の一般的なやり方、つまり、野球か気候の話を振る事で逃げる事にした。

勿論、この少年の贔屓のチームがどこか判らないし、それ以前に彼が野球を見た事があるのかも怪しいので、気候の方を選んだ。

「うーん、外といっても広いですからね。ここより寒い所も暑い所もあります。違いとしては、ここほど立派な建物は恐らくどこにもないし、快適さの点でここの半分の水準に達している場所は、間違いなく存在しません。」

少年は気候の話に興味を覚えたようで、特に雨の話を聞きたがった。

確かに、ここで生まれ育ったなら、雨を見る機会は滅多に無さそうである。

サーリムは、熱帯の生ぬるいシャワーの様な雨や、寒冷地の身を切るような冷たい雨の話をした。

更に話が雪に及ぶと、目を輝かせて質問を重ねた。

曰く、雪は何色なのか、どんな味がするのか、どれくらい冷たいのか、雪が積もった風景はどう見えるのか。

矢継ぎ早の質問に丁寧に答えながら、この子は案外幼いのではないかと感じた。

レイの質問が一段落したところで、今度はサーリムが訊ねた。

「ところで、私からも質問して良いですか?」

「あ?ええ、勿論どうぞ。」

「君はいくつになりますか?」

「え?あの、来月15歳になります。」

この答えに、軽い驚きを覚えた。

身長から16~7歳と見積もっていたのだ。

「君はそのくらいの歳の子達の中では、背が高い方ですか?」

「え、いや、たぶん普通だと思います。」

つまり、サーリムのいた外世界とは平均身長が違うという事であり、その差は恐らく栄養状況に依存するのであろう。

「ここでは、君達くらいの歳の子は、学校がないんですか?」

「ええと・・・ここでは、3歳までは家で暮らして、4歳からIDがESAになって幼教課程に入ります。それからはみんな集団生活になって、週末だけ家に帰る様になります。で、7歳でESBの初教課程になって、12歳でESCの中教課程に進んで、15歳でESDの高教課程です。そして、18歳でESEの専教課程に入ったら、専門毎に長さが違っていて、2年で終る科から6年かかる科まであります。」

「君はIDがESCですから、中教課程ですか。『中等教育』課程の略ですかね?」

「ええ、そうです。」

サーリムは、ずっと疑問に思っていた事について訊ねてみた。

「君と同年代の他の子達も、君と同じくらいはきはきと話が出来るんですか?」

レイは、考え込んだ。

「うーん、それは色々ですけど、僕は良く大人びていると言われます。」

普通の子供なら誇らしげに言いそうな台詞だが、何故かレイの言葉には若干淋しそうな響きがあった。

「立ち入った事を聞くので、嫌なら答えなくても構いませんが、君は学校に行かないんですか?」

レイは、しばらく逡巡していたが、やがて答えた。

「僕も中教にいるんですが、貴方がいらっしゃると聞いて、外交部に志願したんです。僕はちょっと普通じゃない立場なので、外交部の人達もそうした方が良いと判断したみたいです。」

「普通じゃないって?」

レイは、黙ってしまった。

「失礼、余計な話でした。それより、外の世界について、他に聞きたい事はありませんか?」

レイはほっとした様子で、外の国々について様々な質問をした。

国毎の風俗や習慣、法律の簡単な説明を続ける内に夜が更けて、だんだんとレイの声が眠たそうになってきたので、サーリムはこの辺が潮時と判断した。

「さあ、そろそろ寝ましょうか。また明日質問して下さい。」

そうして、二人はお休みを言って、通信を切った。


会議室中央に陣取ったケネスは、苦渋に満ちた表示で腕組みをしていた。

誰も、敢えて言葉を発しようとはしない。

重苦しい沈黙が続いたが、やがて、ケネスが言った。

「ここまで日寄見ばかりとはな。」

ビジフォンで思い付く限りの団体にコンタクトし決起を求めたのだが、参戦を表明したのは僅かな団体のみであり、その他はどの団体も、言を左右にして求めに応じようとはしなかった。

その口実は、判で押した様に『責任者の不在』である。

確かに声を掛けた内で半数近くの団体では、責任者である賢者はケンジントンに駐在しており、今は炎の剣の支配下にある。

従って、トップを人質に取られている様なものだから、やむを得ないと言えない事もない。

しかし、現在は賢者がケンジントンに居ない筈の団体までもが、同じセリフで逃げようとしているのは、居留守としか考えられない。

敢えて火中の栗を拾う愚は避けたいのであろう。

現時点で、参戦を表明した団体の兵力を全て糾合しても、漸く1000人を越えるかどうかといったところである。

「せめて、兵力を奴らと対等まで持っていければな。正統性はこちらにあるのだから、それができれば、日寄見連中は雪崩をうってこちらに着くだろうが・・・」

その点は全員が同感であるが、残りの4000人の目処は全く立たない。

「やむを得ぬ。儂が行って直に引き出すしかあるまい。直接赴けば居留守も使えぬであろう。」

その言葉に、全員が慌てて思い止まらせようとした。

「し、しかし閣下、この包囲網を突破するのは、難しゅうございます!」

アリソンの言葉に、ケネスは事も無げに答えた。

「他に手はあるまい。儂以外の誰が行っても、儂がビジフォンを通して出来る以上の事は出来ぬし、立て籠っておるだけでは味方は増えん。そして、今目処の立っている6000人をそのままぶつけたのでは勝ち目はない。この6000人は、炎の剣を撃破するための兵力の中核となるべき存在だから、ここで今擂り潰す訳にはいかん。」

「このまま立て籠って、粘り強く呼び掛けを続ける訳には参りませんか?」

アリソンが問い掛けると、プロメターが訊ねた。

「籠城するとして、限界はどれくらいですか?」

「一ヶ月が限界ですな。」

ダレスが答えた。

「一ヶ月では、現状を大きく変えるのは難しかろう。」

とケネスは言った。

「しかし、一ヶ月は長うございます。懸命に説得を続ければ、あるいは・・・」

反論するアリソンの自信無げな声は、消え入る様に途絶えた。

「その一ヶ月の間、炎の剣も各所に働き掛ける事が出来ます。」

プロメターが指摘する。

その言葉に頷きつつ、ケネスが言った。

「かつて、フィレンツェが各国の連合軍に包囲され、滅亡寸前まで追い込まれた時、指導者ロレンツォ・ディ・メディチが殆ど単身で包囲網を破って脱出し、連合軍の首脳達を個別に説得して包囲網を崩壊させたという史実がある。今は、ロレンツォの故事に倣うべき時であろう。」

その言葉には、誰も反対しようがなかった。

「さて、アリソン師。そなたはここへ残って貰う。」

その言葉にアリソンは愕然とした。

「な、何故私めをお連れ下さらないのですか?」

「脱出組は、事破れたなら即ち死じゃ。全員が出て共倒れとなっては意味がない。そなたを最高賢者代行に任命する。ここの指揮はそなたに任せよう。そして、」

ケネスは、一呼吸置いて、意を決する様に続けた。

「儂が死んだら、降参するかどうかは全てそなたに任せる。しかし、儂の考えとしては、望みが潰えた時点で降参した方が良かろう。無駄に犠牲を増やすべきでは無い。生き永らえれば次の望みも有ろう。その他の者も全て同様じゃ。ここで儂に仕える如くにアリソン師に仕えよ。ただ、儂には戦闘の指揮は出来ぬ。マクロードよ、済まぬが同行して貰えまいか?」

禁書館防衛隊の隊長マクロードは、突然話を振られたにも関わらず、平然と答えた。

「承知致しました。」

ケネスが話を切り出した時点で、脱出隊の指揮を取るのは自分であると確信していたのだ。

他の面々が口々に同行を願い出たが、ケネスはそれらの請願をぴしゃりと一蹴した。

「ならぬ!そなたらは、ここで持久するのだ。生き延びる事は或いは死よりも辛いかもしれん。それでも、そなたらが生き延びる事こそが未来への微かな希望なのだ。」

その説得に、大半の者は、俯いた。

しかし、プロメターは顔を上げたまま、きっぱりと言った。

「お言葉は承りましたが、私だけは同行させて頂きます。」

「何故だ?」

ケネスは意外そうに訊ねた。

「お忘れの様でございますが、私は禁書館戦争の際に、彼等と命のやり取りをしております。ですから、私は降参しても助かりますまい。」

「それならば、私も同様でございます。」

ジョーンズも言った。

「それもそうだのう。ならば、そなたらも同行せよ。さて、マクロードよ、脱出隊の人選に掛かれ。」

「畏まりました。」

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