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黄昏の彼方に 第三部『崑崙』  作者: ろ~えん
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第三話 暗雲

翌日出勤すると、ジョーンズに呼ばれた。

「監査申請が来ている。団体名は東方光、場所は中国西部の竹林荘だ。推薦者のプロメター師はお前をご希望だ。」

サーリムは、プロメターの手回しの良さに改めて感心した。

その一方で、今ケンジントンを離れる事には不安を感じていた。

ここ最近の炎の剣の不穏な動きについては、ジョーンズと昨日話し合ったばかりである。

勿論自分がケンジントンに居たからと言って、何ができるわけでも無い事は良く判っているが、それでもこの時期にマギーやアーイシャを置いて遠くへ行くのは抵抗があった。

ましてや、余りに突拍子もない話だ。

ケイが本物かどうか確認出来ていないし、今まで無条件に信頼してきたプロメターですら、本当に信じられるかどうか自信が無くなってきた。

恐らくサーリムが断れば、別の監査官が派遣されるだろう。

口実はなんとでもなる。

監査官の大半はケンジントンに心配すべき係累を持っていないし、ケイやプロメターの背後にいる何者かは、(理由はともあれ)サーリムを狙い撃ちして呼び寄せようとしているので、交替した監査官に働き掛けて来る事はあるまい。

従って、ここで交替してもまず迷惑がかかる事は無さそうだ。

しかし、これほどの手間を掛けてまで呼び寄せようとしている意図は何なのかもそうだが、何よりケイが本当に生きているのかどうかが、どうしても知りたい事も間違いない。

思考は行きつ戻りつして、出口が見つからない。

「済みませんが、一晩考えさせてもらえませんか。」

ジョーンズはサーリムの様子から何かを感じたようで、黙って頷いた。


サーリムは、夕食を済ますと書斎に閉じ籠った。

しかし、いくら考えても結論は出ない。

両手で顔を覆い机に肘を突いたまま身動ぎもしなかったが、やがて顔を上げた。

記憶の底にしまいこんでいた老マリクの言葉が、不意に甦って来たのだ。

「この先、何かをやるべきか否かでどうしても決断がつかないときに、この石を取り出して投げなさい。」

御守のつもりで頸から下げていた革袋を引っ張り出すと、口を緩めて逆さまに軽く振る。

赤と青の二つの石が転がり出た。

右手で掴み取ると、その拳を左手で包み込み額の前にかざした。

この招待を受けるべきか否か、それだけを強く念じてそっと転がした。

軽い音をたてて転がり出た二つの石が静止した時、サーリムは当惑した。

『近ければ是、遠ければ非』確かに老マリクはそう言っていた。

しかし、目の前のこの配置は、一体遠いのか近いのか?

接触するほど近い訳ではなく、かといって机から飛び出すほど遠い訳でも無い。

『その時のそなたの目で見て、近ければ近い。遠ければ遠いのじゃ。』

マリクの謎めいた言葉が甦る。

サーリムは、今までこの石を使った事が無かった。

元々思いきりの良いたちだったし、どうしても決断出来ない時はケイが有用なアドバイスをくれた。

そしてケイが居なくなってからは、プロメターがその役目を引き継いでくれた。

人生の重大事で、誰にも相談せずに決めたのは、マギーにプロポーズした時だけと言って良かったが、その時は全く迷いが無かった。

そこで、いずれその時がくれば、遠いか近いかは見れば判る事だろうと漠然と思い込んでいた。

改めて、目の前の石の配置を確める。

見れば見る程、遠くも近くも見える。

しばらくためつすがめつしていたが、全く判断の緒が見つからない。

思い余った末に、ほんの思い付きで右手を横にして石の上にかざしてみた。

石の間隔は、掌の長さよりは僅かに短かった。

サーリムは決意を堅め、天井を仰いだ。


書斎のドアが開いた音に振り返ったマーガレットは、夫の表情を見て内心驚いていた。

彼女の記憶している限りでは、これ程真剣な表情は今までに一度しか見たことが無い。

その時は、堪えきれない程の長い沈黙のあと、サーリムは盛大に吃りながらプロポーズの言葉を絞り出したのだった。

彼女は内心の動揺を努めて隠しつつ穏やかな笑みを浮かべて、言葉を待った。

今回は、それほど待たせられる事はなかった。

「また、仕事で遠くまで行かなきゃならない。」

「あら、そう。帰ってきたばかりなのに大変ね。」

マーガレットは特に驚くでもなく、普通に答えた。

彼女は、夫の不在それ自体に関しては既に諦めの境地にあった。

その点はプロポーズを受ける時点から織り込み済である。

なにしろ、子供の頃から監査官という仕事を身近に見続けて来たのだ。

その後の話題は、最近の不穏な情勢についてに移った。

この状況では、マーガレット達をどこかへ避難させなければならない。

だが一体どこへ?

サーリムもマーガレットも、ケンジントンの外部に係累は居ない。

避難しようにも、頼る先が無いのだ。

結局、直ぐに逃げ出せる準備だけはしておくようにと言う以外に、サーリムに出来る事は無かった。


一旦事を決めると、後は独りでに事態が転がって行った。

太平洋を航る長旅の間、ずっとケンジントンの様子が判らない(船にはヴィジフォンは設置されていない)事にやきもきし続けていたサーリムは、上海に着くや否や手近のヴィジフォンブースに飛び込み、チャンを呼び出した。

「サーリム、マギーから伝言を預かっている。」

いきなりチャンが言った。

「伝言?」

「エピメターさんの招待で、クレメンズビルに行くと言われた。お前が出発してすぐだったから、もう一月くらい前の話だ。」

サーリムはほぞを噛んだ。

本当は出発前にプロメターに警戒しろと言っておきたかったのだが、長年に渡って家族同然に扱って貰ったプロメターやエピメターについて陰口めいた事を言うのも抵抗があり、ついそのままにしてしまった。

だから、エピメターから招かれれば、喜んで行くに決まっている。

プロメターもエピメターも、意味の無い事はしない。

エピメターの意図は、果たしてケンジントンの危機からマギーとアーイシャを保護する事か、それとも・・・

「おい、聞いているか?」

チャンの呼び掛けで、サーリムは我に反った。

「い、いや済まん。」

続くチャンの説明によると、彼が船上にいた一ヶ月の間に炎の剣に関する事態も大きく進展していた。

一万人になろうかという炎の剣の軍勢(驚いた事に、今回は武装を隠そうともしていないという)が、ケンジントン郊外に陣取って動かないまま、三日目を迎えたとの事である。

事態は正に一触即発と言えた。

また、チャンはそれ以外にも気になる事を言った。

監査申請が殺到して、監査官達は次々とケンジントンを後にしているというのである。

サーリムは、思わず禁書館戦争を思い出した。

勿論その点は、チャンのみならずジョーンズ以下全員が疑ってみたという。

しかし、いくら調べてみても今回の申請ラッシュと炎の剣を繋ぐ糸は見付からなかった。

第一ケンジントン支局の無い今のSI局が、一万人の軍勢を前にして影響を及ぼす程の兵力と見なされる筈が無い。

もし兵力の除去を目的とする工作なら、禁書館防衛隊こそその対象となる筈である。

しかし、いくら探って見ても、禁書館防衛隊に対する働き掛けの形跡は見当たらなかった。

結局この申請ラッシュは、偶然の一致と判断する他は無かった。

いずれにしても、もうすぐチャンも出発する予定であり、今週中にはSI局はジョーンズ以外全員が出払って、開店休業状態になるのは確実であった。


ケネスは、ケルブが来るのを苛々しながら待っていた。

炎の剣の軍勢がケンジントン郊外に陣取って威嚇を始めた直後に、ケルブを呼んで要求があれば話し合う用意がある事を前提に軍勢の解散と撤退を要求したが、ケルブは要求を何も示さず、解散と撤退の要請も平然と無視した。

今、ケンジントン内部では重苦しい空気が流れており、それに堪えかねてヒステリー的な小トラブルが頻発するに至っている。

そして先程ケルブが、秘書を通して再び話し合いたい旨を伝えてきたのだ。

十分に揺さぶりを掛けた、と判断したのであろう。

勿論、ケネスに否やは無かった。

さすがにこの状況でも、一介の大賢者の立場で最高賢者を呼び付ける程に思い上がっては居ない様で、自ら訪ねて来ると伝えてきた。

散々待たせた後、ようやくやって来たケルブは頭を下げた。

「本日はご機嫌麗しゅうお見受け申し上げ、忻懐至極に存じます。この度、貴重なお時間をお割き頂きまして、光栄これに過ぐる物はございません。」

必要以上に遜って見せるが、その薄笑いに祖父譲りの尊大さが透けて見えた。

ケネスは内心の不快を圧し殺して、微笑みながら声を掛けた。

「とんでもない。そなたの話なら、何を置いても伺いたいと思っておるよ。まずは掛けたまえ。」

そう言って、椅子を勧めた。

大賢者は、崇高賢者以上の前では起立して話すという不文律があるのだが、ケルブは意にも介さずに着席した。

「さて、話を伺おうか?」

ケルブは徐に切り出した。

「閣下は、現在の崇高賢者の方々、分けてもアリソン師のお働きに関してご不満をお感じになられませんか?」

なるほど崇高賢者の椅子が望みか、とケネスは思った。

「儂は、アリソン師は良くやっておると思っているが、そなたはどう思うのかな?」

「閣下のご慧眼に異を唱えるつもりは毛頭ございませんが、現在崇高賢者をお勤めの方々より、更にその職に相応しいと信ずべき優秀な方々がいらっしゃいます。」

『方々』と来たか、つまり、保安担当崇高賢者の椅子一つでは足らんという訳だ、とケネスは心の中で唾を吐き捨てた。

「それはつまり、そなたにはその『優秀な方々』に関する腹案があるという事かな?」

ケルブは自信たっぷりに、懐から羊皮紙の筒を取り出した。

「これは私めの愚案でございますが、ほんのお目汚しにご覧頂ければ幸いに存じます。」

「拝見しよう。」

丁寧に丸められた羊皮紙の端の御大層な金泥の封印を裂いて拡げると、麗々しい書体で全ての崇高賢者の役職と、その候補となる大賢者の名前がリストアップされていた。

崇高賢者を総入換しろという訳だ。

ケネスは、頭の中で禁書館防衛隊からの報告書を反芻しながら、リストを眺めた。

リスト上の名前は、炎の剣から直接指示監督を受ける傘下団体の大賢者は二人だけで、その他は炎の剣の友好団体の大賢者と、炎の剣とは特に関係を持たない(とは言え反炎の剣の意思を表明した事のない)団体の大賢者が、概ね半々である。

それなりに、バランスに配慮している様に見受けられる。

ただし、傘下団体の二人は財務局担当と保安局担当、即ちNo.2と3だった。

重要な部分はきっちりと譜代で押さえようという訳だ。

ケルブの慇懃無礼ぶりを腹に据えかねたケネスは、思わず皮肉を漏らした。

「このリストには、最高賢者の名が挙がっておらぬが?」

ケルブは、これ見よがしの演技で狼狽した風を装った。

「とんでもございません。私ごときが、誰が最高賢者に相応しいなどと口出しを出来る物ではございませんし、第一、閣下以外で最高賢者に相応しい人物は存じ上げておりません。」

つまり『崇高賢者については口出し出来る』と思っている訳だ、と思わず苦笑いした。

「まあご覧の通りの愚見でございますが、お目をお通し頂きましてご卓見をお伺い致したく存じ上げます。閣下がお忙しい事は重々承知致しておりますれば、本日はこれにて引き取らせて頂きまして、来週のこの時刻に再び参上つかまつりご高説を頂きたく存じます。」

最後通告の期限は一週間か、随分と気前のよい事だ、とケネスは、他人事の様に思った。


アーイシャは、校庭で他の子達と遊んでいた。

元々は、ちょっとエピメターおじさんの所へ遊びに行くという話だったのだが、滞在が一月近くになると段々心配になってきた。

回りの大人はみんな口を開けば大した事はないと言うが、そのわりに、いつ帰れるかと聞くと、判で押したように宥めるような笑顔でもうちょっとだからねとしか言わない。

そのうちに、あまり滞在が長くなったので、エピメターおじさんがクレメンズビルの学校に通える様に手配してくれた。

それを聞いたアーイシャは、今後数ヶ月、もしかしたら年単位で帰れないのだろうと覚悟を決めた。

勘の鋭さは、父親譲りなのである。

ケンジントンの友達が心配であったが、何も出来ない今それを言えば大人たちを困らせるだけだと知っていたので、その心配は心の底に押し込んで努めて明るく振る舞っていた。

ここの学校にきて新しい友達もでき、不安が紛れるようになったのも助かったが、それ以上に、友達を通じてケンジントンの噂(みんな大人の言葉には聞き耳を立てているのだ)が入るのがありがたかった。

アーイシャなりにそれらの断片的な噂をまとめた結果、ケンジントンは今、炎の剣によって脅されているらしい。

ただし、その軍勢は郊外に陣取って睨み付けているだけらしいので、きっと友達はみんな無事だろうと、ひとまずは安心した。


ユージンは校庭の隅で遊具を組み立てながら、それとなくアーイシャを監視していた。

彼は一信徒として教団に入り込み、もう10年以上も観察と報告を続けてきた。

目立たない様に常に控え目に行動しつつ、周りの信用を得るべく努力し続けて来たが、それはまさに苦労の連続であった。

彼の様に、積極的に行動を起こさず一般市民に紛れてひたすら指示を待ち続けるエージェントは、スリーパーと呼ばれる。

その苦労が実り、穏やかで控え目だが信用できる男ユージン・フィリップスという擬装が第二の天性となった頃に、マンスール母子がクレメンズビルにやって来た。

そして、ついにユージンが『目覚める時』が来た。

とは言えその指令の第一段は、実のところそれほど今までと代わり映えはしないものであった。

それは、マンスール母子を監視する事である。

監視と報告の対象が特定の人物となっただけで、エージェントとしての積極的な行動は要求されていない。

しかしこれは第一段階に過ぎず、次の指令は必ず工作のプロとしての彼の技術を要求するものになると思われる。

ユージンは、この10年の成果を確実に形にして見せなければならないという使命感に胸が踊っていた。

はじめの内は母子はずっと与えられた家にいたので、近所で監視していればよかったのだが、最近になって娘が学校に行くようになった。

こうなると、昼間はどちらか一方しか監視できない。

次の指令が出たときに、それが何であれ子供を先にした方が色々と都合が良さそうなので、娘を監視する事にした。

丁度、学校が遊具他の設備のメンテナンスを行うボランティアを募集していたので、渡りに舟とばかりに応募した。

これで、日中に継続的に娘を監視する事が可能となった。


サーリムは、上海からは陸路を取る。

(取り合えず)目指す先の竹林荘はゴビ砂漠の付近であり、ここからはひたすら内陸に向かって進むしかないのである。

列車を乗り継いで、広大な平野を一路西へ進む。

辛うじて生きている鉄道網の西端までは、5日かかった。

その間、乗換の度にケンジントンの状況を問い合わせたが、事態は膠着したままであった。


「どうなさいますか?」

アリソンの問い掛けにケネスは反問する。

「どう、とは?」

「いえ、そのケルブ師の要求を呑むかどうかですが・・・」

ケネスは、アリソンがどこまで理解しているのか試してみた。

「そなたはどう思うかね?」

アリソンは、諦念を滲ませつつ答えた。

「私の辞任で破局が回避できるのであれば、それもやむ無しかと・・・恐らく他の崇高賢者も同意するでしょう。」

ケネスは、何かを諦めた様な表情で笑った。

「本当にそなたらの辞任で破局が回避できるなら、それは、崇高な自己犠牲と言えるだろうな。」

アリソンは、意外そうな表情になった。

「我々が辞任しても、事態の打開には繋がりませんか?」

ケネスは穏やかに指摘した。

「ケルブ師は要求を伝えたが、交換条件としての軍の撤退に関しては、こちらに言質を与えていない。」

「要求を呑んでも、ケルブ師は軍を引き揚げないという事ですか?」

アリソンは単純な見落しを指摘されて、狼狽した。

「恐らくそうだろうな。ケルブ師が軍勢を集めたのは、この程度の要求を通す為では無いだろう。この要求は、目的達成のための最初の一歩に過ぎない。」

「では、何が目的なのです?」

やはり判っておらぬか、とケネスは軽く失望した。

それなりに優秀であり信頼出来る保安局担当で、最重要情報に接しているアリソンでこれでは、他の崇高賢者達は、とても期待できない。

その時なぜか、末席の公衆衛生局担当のプロメターの顔が浮かんだ。

根拠はないが、常に控え目で意見を差し挟むことをしないあの男は、もしかして判っているのではないかと、ふと感じた。

「崇高賢者の総入れ換えが出来たら、次は、連邦政府自身の手によって禁書館を破壊する事を要求してくる筈だ。その次は、恐らく『炎の剣が保有する以外の』全ての科学知識の破却だな。もしかしたら、その段階であの軍勢を、連邦常備軍とする様に要求するかもしれぬ。そうなれば、最早現状は固定化され、どうにもならなくなる。そしてその後は、具体的にどういう手を打ってくるかは判らぬが、連邦の全ての加盟団体がその意を迎えざるを得ない方向へ、事態を進めて行くだろう。それらを全て『儂の名に於いて』行う為に、敢えて儂の退陣を要求しないのだよ。そして、全ての団体をその膝下に跪かせる目処が立ったら、その時儂は、吊るされる事になろう。そなたらがその横に並ぶかどうかは、それまでにケルブ師に取り入る事が出来るかどうかで決まる。」

「それでは、この要求は蹴るのですな。」

「他にどんな手がある?」

返事は無かった。


「さて、今日は腹蔵なく話し合いたいと思っている。」

椅子に座ったままケネスは、膝を前にせりだし、殊更にリラックスした様子を演じて見せた。

相手は、漸く崇高賢者の末席に到達した若僧(確か50前の筈だ)に過ぎないのだが、閣議では常に控え目に振る舞い自発的な発言をした事の無いこの男は、それでも時折見せる発言の中に鋭い観察眼と広範な見識が窺われ、閣内でも一目置かれる存在であった。

思い返せば、この男が崇高賢者となってから二年となるが、二人きりで話すのは、これが初めてであった。

何も根拠は無いが、今閣内で頼りになるのはこの男しかいない、とケネスの勘は言っている。

「どの様なご用件でございましょうか?」

プロメターは、直立したまま、穏やかに訊ねる。

「まあ、ともかく座りなさい。ゆっくりと話し合おうではないか。」

「それでは、失礼致します。」

最高賢者の前では、立って話をするのが妥当な姿勢とされているが、着席の促し方が儀礼的なものではなく、本気で話し合いたいと思っている様なので、敢えて着席した。

「さて、君は今回の炎の剣の行動に付いて、どう考える?」

炎の剣からの要求については、敢えてケネスの意見を付与せずに全閣僚に展開してある。

「現状の比彼の力の差を考えれば、あの要求は少々控え目に過ぎるようですね。」

ケネスの目が光った。

「と言うと?」

「力づくで呑ませる自信が無ければ、まず大きすぎる要求から入って拒絶させた上で、譲歩を装って本当の要求を出すでしょうが、拒絶されても武力で実現する自信があるなら、受け入れ可能な要求から始めて、第二第三と要求をエスカレートさせるでしょう。今回は、後者のパターンだと思われます。」

ケネスは、内心の期待を面に現さないように努力しながら、続けて訊ねた。

「では、そなたは、あの要求を呑むべきか否かについては、どう考える?」

プロメターは、事も無げに答えた。

「呑むべきか否かを議論しても仕方が無いでしょう。」

ケネスの怪訝そうな表情を見ながら、説明を続ける。

「この要求を呑んでも、より以上の要求が出てくるだけです。そして、どれだけ呑んでも要求はエスカレートし続け、最終的には呑めない所まで行き着くでしょう。」

「なぜ、そう思うのかな?」

ケネスは、その期待を隠すことが出来ず、大きく身を乗り出した。

「一つ目の根拠は、先程申し上げた通り、向こうが投入している手段の規模と要求の大きさが釣り合っていない事、具体的には、あちら側の要求がこれだけならば、あれだけの軍勢があればそのまま我々を攻めても簡単に目的は果たせる訳です。ここで交渉を行う理由はありません。」

その答には筋が通っていると感じたが、敢えて反論を試みた。

「しかし、戦わずに目的を達成できれば、もっと良いと思っているかも知れぬぞ?」

プロメターは、控え目な態度を保ちながら説明した。

「剣の柄に掌を按じて要求を仄めかしている段階なら、要求が通った時点で笑い飛ばして見せる事で、脅したという事実が無かったかの様に振る舞う事も出来ます。しかし、その剣を抜いて頭上に振り上げてしまえば、そうは参りません。一旦振り上げた剣を体面を失わずに鞘に戻す方法はただ一つ、その前に何かを一刀両断して見せる事だけです。嘗ての禁書館戦争の様に他の口実で軍勢を揃えた段階で、もし秘密裏に交渉してきたのであれば、戦う事無く要求を通してそのまま撤退という事もあり得るかもしれませんが、これだけ公然と反逆行為に出てしまった以上、例え平和裏に目標を達成したとしても今更誤魔化しは効きません。むしろ最終的には武力による解決となる事を決意しているからこそ、この様な行動に出たのでしょう。」

「なるほど。」

ケネスは、頷いた。

「そして、二つ目の根拠ですが、彼等はこの交渉の妥結を撤退の条件として名言しておりません。つまり我々から見れば、この要求を呑んでも事態が解決するという確信は持てないわけです。これは彼等の側から見たときには、その恫喝の効果を減じる要因となります。もし『あれが真の要求ではあるが、うまくいけばその後に付随的な要求を出しても良いので、その辺は曖昧にしておこう』と考えているなら、それは『付加的な要求のために、真の要求の実現可能性を自ら引き下げる』という事ですから、大変拙劣なやり方だと言えます。しかし、彼等がその程度の事を考慮する事無くあれほどの軍勢を動かす程に愚かなら、我々はこの様に苦労しなくて済んでいるでしょう。」

ケネスは、我が意を得たりとばかりに、膝を打った。

「そなたは判っておるな。この件の対処について、アリソン師を交えて更に話し合いたいと思うが、どうかな?」

「愚見ながら、対策会議の末席に加えて頂けるなら光栄に存じます。」


サーリムは、鉄道網の終端となる駅で路線馬車に乗り継いで、更に西へ向かう。

その後も馬車の乗り継ぎを繰り返した末に、ようやく竹林荘にたどり着いた。

停留所で馬車を降りると、一人の男が立っていた。

男はサーリムに歩み寄ると、声を掛けた。

「失礼ですが、サーリム・マンスール様でしょうか?」

「はい、そうですが。」

「私は、東方光のディェン・タンと申します。お迎えに上がりました。」

到着日時は、連絡していない。

つまり、最後の馬車に乗り込むまでずっと監視されていたと言う事だ。

「お気遣い、有難うございます。」

サーリムが頭を下げると、ディェンは言った。

「いえいえ、どうぞお気になさらず。それより、教団でラウ真人がお待ちです。恐縮ですが、このまま本部までお運び頂けますか?」

サーリムは躊躇った。

監査前には街を見て回って、それとなく下調べを行うのが、いつものやり方であり、だからこそ今回も到着日時を告げなかったのである。

ディェンは、ニヤリとして言った。

「大丈夫です。今回は監査して頂く必要はありません。報告書には、申請は取り下げとなったとお書き頂ければ結構です。真人は、あちらへご出発になる前にご挨拶申し上げたいとの仰せです。」

どうやら、申請は本当にサーリムを崑崙へ向かわせるための口実らしい。

「承知しました。」

ディェンは、先導して歩き出した。

連れていかれた先は、古い道観(道教寺院)だった。

祭壇の設えてある礼拝所を通り抜けて、奥の部屋に案内された。

暑い時期の事でもあり、扉は開け放たれていた。

部屋の中は丸テーブルと椅子があるだけで、そこには、長衫を纏って中華帽を被り、白髯を胸まで垂らした老人が座っていた。

ディェンは扉の前で声を張り上げる。

「真人様、お連れいたしました。」

「お入り頂きなさい。」

大人の風を帯びた老人の嗄れた声が響く。

ディェンが恭しく一礼すると、二人は部屋に入る。

「ディェン、扉を閉めなさい。」

「畏まりました。」

そう言って、ディェンは扉を閉めると、そのまま反対側の窓まで閉めた。

一気に蒸し暑くなった部屋で、老人が立ち上がった。

「東方光の代表ラウ・チーチャンと申します。以後お見知り置きを。」

「連邦SI局のサーリム・ラティーフ・マンスールです。宜しくお願いします。」

二人は、丁寧に礼を交わした。

ラウは、ディェンに向き直ると、打って変わって丁寧な口調で言った。

「お疲れさまでした。」

サーリムが意外そうな顔をしているのを見て、ラウは笑いながら言った。

「私は現地採用の人間で、こちらは、云わば本社からの出向要員でしてな。さて、お掛け下され。」

三人が着席すると、ディェンが言った。

「崑崙は、ゴビ砂漠の北辺にある小さな火山のカルデラの中に有ります。砂漠の入口までは道もあり馬で行けますので、明日の夜明け前にそこまでお送りします。出発は4時頃になりますので、今夜は早目にお休み下さい。」

『入口までは』か、と思わず溜め息が出そうになったが、もしかしたらと微かな期待を込めて、聞いてみた。

「その先は徒歩ですか?」

「ええ、日の出とともに歩き始めれば、日没前には着けます。」

やはりだめかと思いつつ、失望を表さないように再度訊ねた。

「道は有るんですか?」

通常は、砂漠の中に固定化した道路は作れない。

作っても直ぐに砂で覆い隠されてしまうので、意味がないのだ。

「いいえ。」

「それでは、進路はどうやって知るんです?」

道路という物が存在しない砂漠を進むのは、航海と良く似ている。

地回り航法よろしく目視出来る間隔の目標物を辿って行くか、外洋航法の様に羅針盤を頼りに方向を決めて進むかである。

「PDAはお持ちですか?」

「ええ。」

サーリムはバックパックを掻き回して、PDAを取り出した。

「ちょっと貸して下さい。」

PDAを渡すと、ディェンは何やら画面を操作してから返した。

その画面には、地図が映し出されていた。

「水平にしてみてください。画面の中央に矢印が出ているでしょう。それが進むべき方向となります。」

「なるほど。」

「水と食糧はこちらでご用意します。」

「お手数をお掛けします。」

そう言ってサーリムが頭を下げると、ディェンは言った。

「いえいえ、こちらこそ、こちらの都合で遠路遙々と足を運んでいただきまして、申し訳ありません。」

サーリムは、この部屋に入ってからずっと想像していた点に付いて確認してみた。

「その崑崙という街は、こことどの程度交流が有るんですか?」

ディェンは、その言葉にニヤリとした。

「ここだけではなく、どことも全く交流はありません。公式には、ね。」

やはりそうかと、閉ざされた窓にちらりと視線をやって納得した。

「つまり、貴殿方はその出自を隠している、という事ですか?」

「そうです。こちらのラウ真人の場合の様に正体を明かして協力願う事は、滅多にありません。」

つまりサーリム達が知らない内に、色々な所へ入り込んでいる可能性があるという事だ。

「しかし、街を隠すなんて事が、出来るんですか?」

ディェンは、笑った。

「街自体は、カルデラの中ですから、外から見る事は出来ません。しかし、火山自体は、隠すには少々大きすぎますね。」

それはそうだろう。

「ですから、この付近の人達は火山自体はみんな知っています。崑崙山と呼ばれていますよ。」

「例え砂漠の中とは言え、登ってみようという人が出たりしませんか?」

「この辺りでは、崑崙山は仙岳、つまり仙人の住む山だとされています。だから、俗人が近付くと酷い目に遇う事になっています。」

「例えば?」

「麓に近付くと、激しい頭痛と目眩に襲われます。登り始めるとそれはどんどん酷くなり、それを無視して更に進み続けると、最終的には身体中の孔から血を吹き出して死んでしまいます。」

冗談じゃない、サーリムは焦った。

「私は大丈夫なんですか?」

ディェンは弾ける様に笑い出した。

「大丈夫。貴方は招待されたんですから、問題は起こりませんよ。請け合います。」

この辺が潮時と思ったサーリムは、最後に一応聞いてみる事にした。

「ところで、そろそろご招待の趣旨をお聞かせ願えませんか?」

二人は無言で顔を見合わせていたが、やがてディェンが言った。

「その点に関しては、誠に申し訳ありませんが、我々からお伝えする事は出来ません。」

そして、声を潜めて内緒話をするような冗談めかした表情で付け加えた。

「ここだけの話ですが、正直なところ我々も教えられていないのです。」

そう言ってディェンは、おもむろに立ち上がると言った。

「向こうに今夜の寝室の用意がしてあります。とりあえずお食事までそちらでご休息下さい。」

通常は、監査対象となる団体に宿を提供してもらう事は好ましく無いとされている。

馴れ合いを避けるため(そして、自身の危険を回避するため)の当然の配慮であるが、今回は監査自体が取り下げなので問題あるまいと判断した。

「ご配慮痛み入ります。」


「まず、現状はどうなっておる?」

ケネスは、訊ねた。

先程目覚めたばかりのケネスの前には、崇高賢者のアリソンとプロメター、保安局長のダレスとSI局長のジョーンズが並んでいた。

「炎の剣の軍勢は、ケンジントンセンター地区に入る事は自制しておりますが、分散を始めておりまして、明らかにセンター地区を包囲しようとしております。」

アリソンが答えた。

「それは、阻止出来ぬのか?」

ケネスの問いに、アリソンは振り返った。

その後方に控えていた保安局長のダレスは、おずおずと答えた。

「移動を中止する様に勧告致しましたが、無視されました。これ以上の手を打つとしたら、こちらから戦端を開く事になるでしょう。」

「ふむ。」

ケネスは軽く唸り、そのまま考え込んだ。

「彼らの包囲網が完成する前に、閣下は脱出するべきではございませんか?」

プロメターの言葉に、ケネスは頚を振った。

「今ここでおめおめと尻尾を巻いて逃げ出せば、それこそ奴らの思う壺だ。奴らの強大さは子供でも判る。そこで一戦もすることなく夜逃げ同然に落ち延びた亡命政府の呼び掛けに従って、奴らと対峙する勇気のある者が居ろうか。もしケンジントンから撤退する事になるとしても、それは戦う姿勢を見せてからでなくてはならん。」

プロメターは、食い下がった。

「しかし、万一閣下のお身が彼らの手に落ちる様な事があれば、もう言いなりになる他はございません。」

しかし、ケネスは鼻先で笑った。

「もしその様な事になれば、奴らは我が骸を抱えて途方に暮れる事になろう。」

ケネスの決意を知ったプロメターは、それ以上勧めようとはしなかった。

「勿論、そなたらは付き合う必要はない。出て行くのは今のうちだぞ。」

そう言って、ケネスは4人を順に見つめたが、目を逸らす者はいなかった。

ケネスは肩の力を抜くと、消え入る様な小さな声で言った。

「儂は今のアリソン師の立場であった時に、スペンサー閣下を見棄てた。だからこそ、今度は逃げる訳にはいかぬ。しかし今更そなたらに、共に戦ってくれなどと言える立場では無いのだ。」

アリソンは微笑んだ。

「閣下。神ならぬ身には、ふとした折りに気の迷いが生じる事もございましょう。たまたまそれが、禁書館戦争と重なってしまっただけの事でございます。それは確かに不幸な事ではございましたが、閣下はその後その職責にふさわしい信念をお持ちである事を、ご立派に証明なさいました。ですから我々は、閣下のご決断を心から支持申し上げます。」

他の3人も無言で頷き、同意を示した。

心なしかケネスの目が潤んだ様に見え、しばらく全員が無言で見つめあっていた。

やがて、話を進めようとジョーンズが調子を変えて訊ねた。

「奴等の装備はどんな具合なんですか?」

「ライフルにピストル、後は剣だな。前回と大差は無い。ただし、今度は攻城用の兵器は持ち込んでいないようだ。」

ダレスが答えた。

「それはつまり、どういう事なのだ?」

ケネスが割り込む。

「前回、奴等は攻城兵器として破城鎚を隠していましたが、それ以上の物は用意して来ませんでした。これは、後で非難された時に『暴徒達がその場で作った』と言って誤魔化すためでした。さすがに大砲をその場で作ったと主張するのは無理がございます。しかし今回は、既にこれだけの公然たる敵対行動を取っているので、今更隠す必要もありませんから、例え大砲でも持ち込める筈です。そして、それを持っているなら、示威効果を狙って、これ見よがしに並べて見せるでしょう。実際問題として、鉄球を撃ち出すだけの大砲は、堅い城壁に対してこそ有効ですが、それ以外の局面では示威以上の効果はありませんから、もし用意しているなら、盛んに嚇しをかけてきている現状で並べて見せない理由はありません。つまり、今砲口がこちらを向いて並んでいないという事は、そもそも持って来なかったという事です。そして、それを持って来なかったという事は、今回は単兵急な攻城戦とせずに、気長に包囲戦をやるつもりなのでしょう。」

「なぜ、今回は包囲戦をしようと考えたんだ?」

アリソンの質問に、ダレスは頸を振った。

「現状からはそう判断せざるを得ない、というだけで、理由は私には判りかねます。」

プロメターが言った。

「私の想像では、多少はやむを得ないとしても、ケンジントンを直接その手で破壊する事は後々の聞こえが悪くなるので避けたいのではないでしょうか。」

「奴らが、評判など気にするかね?」

ケネスがやや皮肉を込めて訊ねると、プロメターも皮肉を交えて答えた。

「気にするでしょう。彼等は特にこれといった失策の無い現政府を打倒して『後継政府』を組織せねばなりませんからな。」

ケネスは、苦笑した。

「つまり、最悪の場合でも、禁書館に立て籠る事は可能な訳ですな。」

ジョーンズがそう言うと、ダレスは答えた。

「念のために準備は始めている。現在、有るだけの食糧と武器を搬入中だし、副局長の陣頭指揮で、城壁の上に応急の監視塔を作りつつある。」

その答にケネスは重々しく言った。

「禁書館は我々のカステル・サンタンジェロだ。入念に準備せよ。」

ケネスの声に、ダレスは頷いた。

聖天使城カステル・サンタンジェロとは、ローマのサンピエトロ広場を挟んで大聖堂と向かい合う聖天使教会の別名である。

元はハドリアヌス霊廟として建造されたが、ローマ教会確立後に教会に改装された。

表向きは教会であるがその実態は要塞であり、サンピエトロ大聖堂とは、地下の秘密通路で繋がっていると言われている。

16世紀のローマ劫略の際に、教皇クレメンス7世が立て籠って難を逃れた事で知られている。

「しかし籠城戦は、外部からの応援が期待できる状況でなければ、意味を成しません。」

プロメターの冷静な指摘に、全員が頷いた。

「まず、やるべき事はそれだな。」

ケネスは、決意の表情で立ち上がった。


晩餐は、結構な歓待ぶりであったが、翌朝が早い(なにしろ4時出発と聞かされていた)ために、早々に切り上げられた。

サーリムは、明日の準備を確認すると、床についた。

心配事があるからといって寝付けなくなる程繊細な(若しくは図太さが足りない)人間には、監査官は勤まらない。

数分後には、寝息が響いていた。


夕刻遅くの最高賢者執務室には、再び5人が集まっていた。

「奴らはどうしておる?」

「センター地区の入場ゲートを挟んで、ガーディアンと睨み合いを続けております。一先ず奴らが行動を開始した場合は、こちらに一報をいれた上で出来るだけ時間を稼ぐ様にと指示してあります。連絡が入り次第、禁書館に移動致しましょう。」

ケネスは、ダレスの回答を浮かない顔で聞いていた。

「儂は、これはと思う賢者達に声を掛けてみたが、反応は芳しくなかった。我が教団とも連絡をとっておるが、今出せるのは、精々2000人が限度じゃな。」

ケネスがそう言うと、アリソンも続けて言った。

「我が教団もその辺りが限度でございます。」

「申し訳ございませんが、我が教団は1000人が精一杯でございます。」

プロメターが言った。

「5000人強では、包囲陣の背後を衝くにも少なすぎる。今すぐ呼びつけても勝負にならんな。なにぶんにも、奴らの行動が速すぎた。こうなれば、禁書館に立て籠って、各団体に蜂起を呼び掛けるしかあるまい。」

ケネスの言葉にダレスが立ち上がり、警護のガーディアン達を呼び寄せようとしたが、ケネスはそれを押し留めた。

「まだ早い。人目がある内に移動すれば動揺の元となろう。夜陰に乗じて乗り込む事としよう。この後は、不測の事態を避けるために、夜が更けるまでここに全員が留まるべきだな。」


サーリムは目を覚ますと、窓から射し込む月明かりを頼りに、身仕度を始めた。

一通り済んだ頃に、扉を叩く音がした。

「お目覚めでしょうか?お食事の用意が出来ております。」

昨夜の食堂に入ると、粥と油条ユーティァオの簡素な朝食が出来ており、ラウとディェンが既にテーブルに着いていた。

食事をしながら二人が、砂漠を歩く上での注意を手際よく説明する。

砂漠近くで育ったサーリムにとっては、周知の事ばかりであったが、とりあえず謙虚に聞いておいた。

一通り聞き終わって判った事は、中央アジアであれアラビアであれ、詰まる所砂漠は砂漠なのだ、という事であった。

食事が済むと、三人は連れ立って門に向かった。

そこには、二頭の馬が繋がれていた。

ディェンは、鞍に革袋が二つ下げられている方の馬を指した。

「こちらにお乗り下さい。」

サーリムは、革袋を触って確める。

一つは液体が入っており、金属製の小さな飲み口が付いている。

水筒の様だ。

もう一つは、薄くて固い不定形の板状の物が何枚か入っている。

恐らく非常用の食糧であろう。

「中を見せて頂いて宜しいですか?」

サーリムが訊ねると、ディェンは満足げに頷いた。

「勿論ですとも」

どうやら、サーリムが砂漠を理解しているかどうか試すために、敢えて説明しなかったらしい。

水と非常用の食糧の確認を他人任せにする人間は、砂漠から生きて帰る事は出来ないのだ。

水筒を揺すって水の量が十分あることを確めた後、蓋を緩め一口飲んでみる。

良い水である。

次はもう一つの革袋を開けて、月明かりで中身を確める。

板状の物は、予想通り干し肉であった。

量も十分である。

その他に小さな透明なプラスチックの袋があった。

中身は、何か金色の物が折り畳まれて入っている。

「袋を開けて、拡げて見て下さい。」

ディェンに言われて、袋を破り、中身を取り出した。

拡げて見ると、それは金色で半透明のシートであった。

僅かな風で、ひらひらとはためいている。

こんな薄いシートは見たことがない。

「保温シートです。もし、野宿する必要があれば、そのシートにくるまって寝て下さい。」

こんな薄さで、砂漠の冷え込みに耐えられるとはとても思えない。

サーリムの不安げな表情に、ディェンは笑った。

「こう見えて、ちょっとした毛布よりしっかり保温してくれます。まあ、使う必要は無いと思いますが。」

サーリムは苦心しながらその薄いシートを畳み、袋に納めると、二人は馬に跨がった。

「それではお気をつけて。良い旅であるように祈ります。」

そう言って、ラウは頭を下げた。

サーリムは丁寧に礼を言い、ディェンの後に付いて歩き出した。

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