第一話 不安
マーガレットはフライパンに卵を割り入れながら、思わず歌を口ずさんでいた。
「おはよう。朝ご飯なに?」
眠い目をこすりながら、娘のアーイシャが尋ねる。
「おはよう。ハムエッグとシリアルよ。それよりお父さんを起こしてきて。」
「めんどくさいなあ。」
10歳になる娘は、そういいながら実は満更でもない口ぶりで答え、両親の寝室へ向かった。
本当はお父さんが大好きなくせに、一月ぶりに会ったから照れくさいのね、と思いつつ、フライパンから湯気の立つハムエッグを皿に移す。
フライパンを流しに置いて、コーヒーポットの上にネルのフィルターをセットすると、缶を開けてコーヒーの粉末を掬って入れる。
ストーブの上で湯気を上げている薬缶を取り上げると熱い湯を注ぎ、薫り高いコーヒーが流れ落ちる。
これで朝食の準備は全て整ったので、ストーブの空気穴を絞って火種だけを残す。
薪だって安くないのだ。
「起こしたよー。」
元気な声でアーイシャが入ってくる。
「おはよう。」
その後にまだ眠そうな顔のサーリムが続く。
「おはよう。今日はどうするの?」
マーガレットが尋ねる。
「今日は、朝一番に賢人府に顔を出す。局長に報告書を提出しなきゃならんのと、何か局長から話があるらしい。」
「そう、昼ぐらいには戻れる?」
「多分な。」
「じゃあ、午後から買い物に付き合ってくれる?」
「良いよ。」
「あ、あたしもー。」
「アーイシャ、あなたは学校があるでしょ 。」
「だって、お父さんめったにうちに居ないんだもの。」
「アーイシャ、今度の土曜には一緒に買い物に行こう。とにかく今日は学校に行きなさい。」
娘は不承不承に答えた。
「はーい。」
「炎の剣の動きについては、聞いているか?」
ジョーンズ局長の問いに、サーリムは軽く頸を捻った。
「なにぶんにも昨日戻って来た所なので、こちらでの話は判りませんが、また動き始めたらしい、と聞いて居ます。」
「大分キナ臭くなってきた。大賢人会議の勧告を無視して、世界中で動員を始めている。その動員規模は、禁書館戦争を遥かに越えている。保安局では恐らく1万人近いんじゃないか、と踏んでいるようだ。」
ジョーンズの表情を見るまでもなく、大いに憂慮すべき事態である事は明らかである。
サーリムは、今まで秘密にしていた事を打ち明けるべきだと思った。
「局長、その件に付いて、お話ししたい事があります。」
「何だね?」
「3年程前の話ですが・・・」
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夕食が終わり、サーリムはコーヒーカップを手に、久しぶりの団欒を楽しんでいた。
その時突然控え目なノックが響いた。
こんな時間に誰だろうといぶかしみつつドアを開けると、見た事のない男が玄関に佇んでいた。
「サーリム・マンスール殿ですな。」
男は、辺りを憚るように、小声で訊ねた。
「ええ、そうです。失礼ですがどちら様ですか?」
「炎の剣ケンジントン支部のディック・アロンソと申します。」
その言葉に、サーリムは思わず身構えた。
しかし、アロンソは特に害意がある様子でもなく、小声で続けた。
「尊師が、お話ししたい事があると仰っています。ご同道願えますか?」
「尊師と言いますと?」
かつて炎の剣の代表であったアンソニー・ケルブは、禁書館戦争の責任を取る形で崇高賢者の座を逐われ、17年経った現在でもケンジントンで療養の名目で軟禁状態にある。
代表自体は、戦争直後にその息子のグレゴリー・ケルブが継ぎ、更にその3年後にグレゴリーは1等級落として大賢者として大賢人会議に参加を認められた。
しかし、グレゴリーはまだ50そこそこだというのに昨年末から病の床に着いており、その活動は、甚だ低調である。
もうそろそろ危ないのではないかという噂も聞こえている。
もしグレゴリーが亡くなれば、その跡はまだ20台半ばの息子アルフォンスが継ぐ事になる。
「勿論アンソニー師です。」
どうやら、この夜中に遙々とカナダ東岸のケルブズバーグまで旅をしなければならない訳では無さそうだ。
「ご用の向きは何でしょうか?」
「その点は伺っておりません。尊師から直接お聞きください。」
こんな時間に何を話したいのか皆目見当がつかないが、行かなければ話は聞けない。
禁書館を消滅させようとする野望を阻止し、更に狙撃で重傷を負わせたサーリムであるから、ケルブに憎まれている事は間違いない。
実際にケルブは、戦争直後の大賢人会議で、サーリムを火刑に処するべきという緊急動議を出した程である。
あれから17年経つが、ケルブの執念深さを思えば、憎しみを忘れたとは到底思われない。
とは言え、今頃になって復讐しようというのも不自然ではある。
かつてケイは、「有用な情報を集めるためには、多少の危険はやむを得ない場合がある」と言った。
今は正にその時であろう。
「少々お待ちください。」
そう言って居間に戻ると、マーガレットに手短に事情を説明した。
勿論マーガレットは止めたが、サーリムは穏やかに危険は無さそうである事を説明した。
夫の判断を信頼している妻は、不承不承ではあるが、同意した。
「もし、朝になっても帰らなかったら、局長の所へ行ってくれ。」
そう言い残して、万一のために拳銃を持って出た。
久し振りに会ったケルブは、枯木を想わせる老人になっていた。
「どう言ったご用件でしょうか?」
ケルブはふん!と鼻先で笑い、尊大な口振りで告げた。
「貴様の吠え面を見ようと思ってな。」
憎々しげな口調は相変わらずだが、その口振りには往年の威圧感は欠片も無かった。
「秋になると、故郷が懐かしく思い出されて、中々眠れなくなるのじゃ。」
先程の虚勢は何だったのかと思うほどしみじみとした口調で語り始めた。
「故郷ですか。」
「ケルブズバーグの秋は、風情があったからのう。」
サーリムの故郷は砂漠に程近い小さな街であり、その気候は快適には程遠かったが、それでも彼は折に触れてもう還る事の無い故郷を思い出し感傷を覚える。
ケルブズバーグはカナダ東岸の農業地帯にある緑豊かな街だと聞いているので、その秋の風情は感傷に浸るには十分過ぎる程であろう。
「今頃あそこでは、秋の収穫の取り入れが一段落して、収穫祭の用意が始まっておろうな。」
そう言いながら、ケルブは目を閉じた。
軟禁生活はもう17年に及んでおり、その感慨もひとしおであろう事は容易に想像できるが、夜半に突然呼び出されて老人の繰言を聞かされても困るので、サーリムは穏やかに口をはさんだ。
「それで、ご用の向きは何でしょうか?」
老人は目を開けると、力無く笑った。
「やれやれ、若い者はせっかちでいかぬな。年寄は敬う物だぞ。」
そう言って、再び言葉を続ける。
「あの時貴様らが妨害せねば、今頃は平和裏に禁書館は更地になり、我が炎の剣の慈愛に満ちた指導の許、連邦は一丸となって協調的な運営の国家となっておったのじゃ。貴様らの愚鈍な頭では理解出来まいが、それは、人類の未来のためにはどうしても必要な事だったのじゃ。」
その話し振りは最初の憎まれ口から一転して、聞き分けの無い子供に言って聞かせる様な口調になっていた。
どういう心境の変化なのか測りかねたサーリムは、黙って頷くだけである。
「我が息子グレゴリーはその大義を良く理解し、人類の未来のために平和的にそれを実現せんと粉骨砕身努力しておった。しかしもういかぬ。今やグレゴリーはその志半ばで夭折しようとしておる。」
噂は本当だったようだ。
さすがに息子を喪おうかという現状は辛そうで、その気持ちに整理をつけかねる様に、しばし沈黙した。
その辛さを想像するしかないサーリムは、黙ったまま次の言葉を待った。
「その跡を継ぐのは孫のアルフォンスだ。あれは父親が大義の実現のために奔走している間周りの者達に任せきりになっておったが、何としてもその取り巻きが悪かった。ちやほやされておだてられるばかりで、誰も厳しく躾けようとせなんだために、自分の望みは全てその権力で叶えられるものと思い込んでおるし、自らを支配者に相応しい高級な人間だと思い上がっておる。だから、崇高な大義を理解し我が物とするには経験も自省も足りぬまま、上面だけを見て判った積もりになって、低級と見なした他者を力で支配する事が自らの崇高な義務だと信じている。あれが教団を率いる事となれば、我が大義の真意も理解せず走り出すであろう。それは、貴様らにとっては破滅の前触れとなろう。いずれ貴様らは、その無慈悲な支配に押し潰されながら、あのとき我が大義を受け入れておけば良かったと後悔の臍を噛む事になるじゃろう。」
訥々とそう語ったところで、ケルブは激しく咳き込んだ。
「大丈夫ですか?」
そう言いながら、サーリムは労る様にその肩に手を掛けようとした。
ケルブは弱々しくその手を払い除けると、虚勢を張るように皮肉な笑いを浮かべつつ答えた。
「儂も、もう長く無い。貴様らの吠え面を見るまで生きられぬのが、実に残念じゃ。」
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今にして思えば、ケルブ老人はアルフォンスを止めて貰いたかったのかもしれない。
しかし、連邦最大の勢力を擁する炎の剣の内情に介入する事は出来るものではない。
結局何も出来ずそのままグレゴリーが病死して、アルフォンスがその跡を継ぐのを黙って見ている他はなかった。
そして、息子の死に落胆したであろうアンソニーは、その後を追うように半年後に亡くなった。
そうしてサーリムは説明を終えたが、SI局としては何も手の打ちようが無い話であった。
サーリムは、秘密を打ち明けた事で少し気が楽になったが、何故この件で呼び出されたのか判らなかった。
ユージン・フィリップスがクレメンズビルにやって来て、もう10年が過ぎようとしていた。
彼は常に無口で控え目な男であり、どういう場面においても目立つ事無く、常に『その他大勢』の一人として振る舞ってきた。
何かがあると、いつも野次馬の中(ただし、目立たないように後ろの方)にその姿があったが、特に騒ぎ立てるでもなく行儀良く見ているだけのユージンは、どんな場面でも人目を惹く事は無かった。
ユージンは、一言で言えば『観察する』男であった。
「この件が片付いたら、私もそろそろ引退すべきだと思う。」
そうジョーンズが切出した 。
「貴方は、まだまだ若いじゃないですか。」
「私も来年には55だよ。最近は体調も思わしくない。正直な所、局長の職務も辛くなって来ているんだ。それにもしケイが生きていたら、私は局長に成らなくて済んだんだ。」
「そんな事は無いでしょう。」
「ランドルフとしては、一番信頼していた弟子のケイに跡を継がせたかったさ。それに誰が見たって、ケイは局長になれる器だった。」
その点に関しては、サーリムも同感であった。
「ところで、次の局長にはどちらを指名するんです?」
SI局は他の局と違い、全員が局長を目指している訳ではない。
まず、局長は監査官からでないとなれない。
監査資格の無い事務官は、局を代表する事が出来ないのだ。
その一方で、監査官は徹底した個人主義で育成されるため、どうしても一匹狼的な傾向が強く、局長を目指そうという野心とは無縁の人間も珍しくはないのである。
そのため、局長を志望する野心と局長が勤まる能力は、必ずしも一致しない。
従って新局長の選出に当たっては、現局長が候補を指名して大賢人会議が承認する決まりとなっている。
その際、二人の支局長のうちのどちらかを指名するのが通例である。
現在マーティン・ベルがアジア支局長、トマス・フィンがヨーロッパ支局長を勤めている。
この内、フィンは、ジョーンズの弟子でもある。
順当にいけば、フィンが次の局長という事になる。
確かフィンは40歳だった筈なので、少し若いが局長としてはまずは十分な年齢であろう。
勿論、その能力にも不足はない。
「その件で君を呼んだんだよ。」
そう言って一旦言葉を切った後、しばらく考えてからジョーンズが言った。
「私は、君を後継に指名する。」
その言葉に、サーリムは腰を抜かすかと思った。
「そんなバカな。何でベルやフィンじゃ駄目なんです?第一、私は支局長になった事も無いんですよ!」
慌てて言い募るサーリムを制して、ジョーンズが言った。
「その点については、君をもっと早くに支局長にしたかったんだが、残念ながら空きが無かったんだよ。それに、そもそも支局長にならないと局長になれないという規定はない。」
「それにしても、他にも私より適任な先輩が沢山居るでしょう。」
なおもいい募るサーリムを掌で制して、ジョーンズは言った。
「まあ取り合えず聞け。ハドリアヌスは、後継者に予定していたルキウス・ウェルスが夭折した後、何でアントニヌス・ピウスを後継者にしたか知っているか?」
唐突にローマ皇帝の話が出た事にサーリムは面食らったが、歴史は監査官にとっての基礎教養である。
五賢帝の話についていけない様ではとても勤まらない。
「え・・・それは、アントニヌスが皇帝として適任だと思ったからでしょう。実際にその通りだったわけだし・・・」
アントニヌス・ピウスは、拡大期を終えて成熟期に差し掛かりつつあったローマ帝国の転換期にあって、ハドリアヌスが示した方針を良く守り、堅実な運営の末に、帝国をその繁栄を保ちつつ後継者のマルクス・アウレリウス・アントニヌスに引き渡した。
その控え目で誠実な人柄から、ピウス(孝行息子)の称号を贈られるほどに、元老院の受けも良かった。
五賢帝の中では地味な印象だが、守勢を余儀無くされた難しい帝国の運営を大過無く勤めあげたその堅実な手腕は、確かに称賛に値する。
しかし、ジョーンズは頸を振った。
「まあそれも無くはなかったろうが、本当の理由は、ハドリアヌスがこれこそ後継者に相応しいと見込んだマルクス・アウレリウス・アントニヌスを皇帝にしたかったからさ。しかし、マルクスは直接に後継者に指名するには若過ぎた。そこで中継ぎとなる他の後継者を捜さざるを得なかった訳だが、ここで下手な人物を立てれば、ハドリアヌスの死後に新皇帝がマルクスを蔑ろにしたり、場合によっては邪魔者と見なして殺す恐れもある。だから、候補者の中でもっとも律儀者だったアントニヌスを後継者に据えたんだ。」
まあそれなりに納得のいく解釈ではあるが、それ以前に何故、今この話をする必要があるのかが解らない。
「それが、今のこの話とどう繋がるんです?」
「つまり、私はアントニヌスだって事だよ。」
サーリムは驚いた。
「ランドルフ局長がそう言ったんですか?」
ジョーンズは再度頸を振った。
「勿論、あの人はそんな事は言わなかったさ。しかし、私がアジア支局長として局長指名を受けた時、ヨーロッパ支局長はランドルフ局長の弟子だったエミリオ・ボルヒャだった。それなのに君の後見人である私を指名したんだから、当然その意図は有ったはずだ。」
ランドルフは、現役監査官時代に三人の弟子を育てたが、不幸にもその内で特に優秀と見なされていた二人、ジョージ・ウォンとケイ・アマギは夭折した。
それは、勿論ランドルフにとって不幸な話ではあったが、残った一人のボルヒャもまずは優秀な監査官といって差し支え無かったので、ジョーンズが次期局長に指名されたとき局内には驚きの声が上がった。
しかし、結局ランドルフはその理由を説明する事無く、そのまま指名通りで押しきった。
そのジョーンズについては、禁書館戦争の後ランドルフはケイの遺言通りにサーリムの後見を行うと宣言した後に、プロメターとジョーンズにも後見人に成るように頼んでいた。
勿論二人に異存は無かった。
そして局長の職務に忙しいランドルフに代わって、監査官としての教育は殆どジョーンズが行ったのだが、その二つを結び付けて考えた者は居なかった。
「いや、それは禁書館戦争の功績が評価されたからでしょう。」
「本当にそう思うかい?」
そう言ってイタズラっぽく笑う表情は、局長ではなく少年時代のサーリムを指導していた時の師匠のそれだった。
「ええ、貴方の活躍は十分にその評価に価する物でした。」
ジョーンズはニヤリとして言った。
「私の功績が十分に局長に価するなら、君の活躍は局長に価するには十分以上だろう。」
サーリムは、揚げ足を取られて言葉に詰まった。
「ベルやフィンだけじゃない。他のベテランもみんな君が適任だと言っている。」
サーリムは、懸命に翻意を促そうとした。
「私には無理ですよ。そもそも私では若すぎて、大賢人会議が認めないでしょう。」
ジョーンズは事も無げに答え、サーリムの退路を断った。
「もう、既に崇高賢人会議では内々に話し合われている。みんな、禁書館戦争の英雄は局長に相応しいと言って賛成した。そもそも、最高賢者のケネス師が大乗り気だ。」
その言葉にサーリムは、怒気を含んだ口調で言った。
「禁書館戦争の英雄は、ケイ・アマギただ一人です!」
ジョーンズは宥めるというより、師匠代理だった頃に戻って諭す様に言った。
「君がケイを尊敬する気持ちは良くわかる。だがな、サーリム。君自身も間違いなく『禁書館戦争の英雄』なんだよ。君は既に生ける伝説となっている。そして君には、好むと好まざるとに関わらず英雄としての責務が課せられるんだ。」
「しかし英雄と言っても、たまたまあの時あそこには私しか居なかったからそうなっただけで、貴方があそこにいれば貴方が英雄になっていたでしょう。」
「私にも同じ事が出来たかもしれないし、出来なかったかもしれない。いずれにしても、今自分で認めた様にあの時鐘楼に居たのは君だし、君はその務めを十分以上に果たした。だから、君は間違いなく英雄なんだよ。」
「いっそ私が死んでケイが生き残って居ればよかったのに・・・」
サーリムは、そう呟いて唇を噛んだ。
「そういう事を言うものじゃない。」
ジョーンズは、軽くたしなめた。
「君にも良く判っていると思うが、監査官という職業には人間不信という職業病が常に付きまとう。」
「ケイは違いましたが。」
「そうだ。そしてそのケイの薫陶を受けて育った君もまた、そうだ。」
「私はケイみたいに立派には・・・」
そう言いかけるサーリムを無視して、ジョーンズは続ける。
「結婚した監査官は多くはない。他人と深い心の繋がりを保つ事が難しいからな。」
何の話なのか判らないままに、サーリムは付け加える。
「生活の大半を、旅先で過ごすからでもありますがね。」
「そうだな。その数少ない既婚者でも、10年以上結婚生活を続けることが出来た者は殆どいない。配偶者と長期の留守に耐えて家庭を守ってくれる程の信頼関係を結ぶ事は難しいからな。」
「何が言いたいんですか?」
「要するにだ、23歳で結婚し、もう12年にもなろうかという結婚生活を続けて、子供も含めた円満な家庭を維持している君は、監査官の中では例外ともいえるほど、良識的でありバランスの取れた人格を持っている、という事だ。 」
ジョーンズは、無言で佇むサーリムに引導を渡す様に言った。
「一匹狼をまとめる仕事は、一匹狼には務まらないんだよ。」
監査官の執務室に戻ると、タオリン・チャンやジョージ・ウェードらが寄ってきて、口々におめでとうと言った。
サーリムの浮かない表情に気付いたチャンが尋ねた。
「どうしたんだ?妙に湿気たツラじゃないか。」
「俺には局長なんて勤まらんよ。第一若過ぎる。」
チャンは、歯を剥き出して笑った。
「我らが天使マギーをかっ拐って行った泥棒野郎には、丁度良いお仕置きさ。良いザマだぜ。」
その言葉に、サーリムを除く全員がどっと笑った。
いきなり背負わされた重責に圧し潰されそうになっているサーリムに対するチャン流の励ましである事は良く判るのだが、それでも気が軽くなる事は無かった。
ウェイギャンは、改めて今までの事を思い出していた。
思えば、ここまでは本当に苦難の連続であった。
セジウィックが戦死して、逃げる様にケンジントンを後にしたあの日の事は、昨日の様に思い出せる。
命からがらサンタ・ホルヘに逃げ戻り、敗戦に巻き込まれなかった幹部達と共に、集団指導体制を構築して連邦政府との折衝に当たった日々は、本当に辛かった。
彼等にとって最初の危機は、禁書館戦争に参加しなかった留守居組が「連邦への反省の姿勢を示すために、参戦組は当面表立った活動を避け、謹慎の体を取るべき」と言い出した時であった。
参戦組からすれば、傭兵がどの陣営に属そうとそれは日常業務に過ぎないのであり、その事を『反省』する必要は無いしまたするべきでも無い。
反省すべき事があるとすれば、それは『敗北』そのものについてであり、なおかつその反省を示すべき相手は、雇用主以外にはいない。
だから、雇用主である炎の剣がとやかく言っていない(とてもそれどころではない)以上、連邦に対して反省を示す謂れは無いのだ。
それは傭兵という稼業そのものを否定する事であり、留守居組にもそれが判らない筈はない、と考えた。
死んだセジウィックは、契約上の制約から少数精鋭の方針を取らざるを得なかったので優秀な者を選んで率いて行ったから、留守居組はこの点に関するルサンチマンを懐いており、参戦組を棚上げして閑職に追いやる事でそれを解消しようとしているのだと信じた。
一方で留守居組は、今回の危機の根本原因はセジウィックが属するべき陣営を誤ったという判断誤りにあるとしても、直接の原因である敗戦は参戦組の不甲斐無さに依るものであり、自分達までがそれに巻き込まれるのは真っ平であると考えていたので、参戦組にその責任を取らせるのは当然と感じていたのだ。
この方針の対立は話し合いでは調整が着かず、最終的には参戦組が留守居組の実質的なリーダーである副隊長を含むグループを襲撃して『排除』する事で決着した。
このクーデターの結果、残る留守居組の幹部の多くはサンタ・ホルヘ傭兵団と袂を分かつ事となったが、参戦組はその迅速な行動で大半の兵士を押さえていたので、離脱者達は裸同然で出奔せざるを得なかった。
彼等は徒党を組んで新たに自前の兵士を集めようとしたが、根拠地を持たない根無し草では傭兵稼業自体が成立しないため、その集団は程無く雲散霧消した。
この一連の騒動の中で同士討ちを渋るベテラン幹部達の尻を叩いてクーデターを決意させ、更には襲撃の先頭に立って躊躇う事無く副隊長を『無力化』した事で、ウェイギャンの立場は一気に高まった。
後は、形式上は合議制を尊重する姿勢を見せながら、じっくりと時間を掛けてベテラン幹部達を棚上げしつつ、順次『自発的』引退に追い込む事でついに傭兵団の隊長に就任した。
その過程で、時には上級者にあからさまにへつらってみせたり、陰険な手段を弄したりと硬軟を使い分けて、今の座を獲得したのである。
今や傭兵団の合議的指導体制は廃止され、全ては隊長であるウェイギャンのコントロール下に置かれた。
これはウェイギャンにとっては当たり前の話であり、誰かが全てを一手に統括しなければ、軍隊はまともに機能しないのは常識以前の事であった。
合議制をとる軍隊は、スペイン内戦時の人民戦線軍の様に自壊するか、フランス革命時の市民軍の様に単一指導体制に変貌する事で生き延びるかしかないのである。
彼としては、きちんと機能する単一指導体制に回帰する事が出来るなら(さしあたっては)自分が隊長になる必要は無かったのだが、互いが顔色を見合って様子を窺い続けるばかりの集団指導体制の状況に激しい危機感を覚えたために、非常手段に訴えざるを得なかったのだ。
サーリムには、局長就任の話を受けるべきかどうか、判断がつきかねていた。
より正確に言えば、受けたくはないのだが既に外堀が埋められた今、断る事が可能かどうかの判断が付かなかった。
迷った末に、久しぶりにケイに会いに行くことにした。
禁書館に入ると、ヴィジフォンブースに直行した。
キーパッドに、もう暗記してしまっているメッセージIDを打ち込む。
ヴィジフォンのメッセージは、通常は再生後3ヵ月で自動消去される。
しかしサーリムは、禁書館のヴィジフォン管理者に頼み込んで、ケイの遺言を特別に残して貰った。
管理者は、少年だったサーリムの心情を汲んで、特別に配慮してくれた。
その後も管理者が代わる度に同じように頼むと、みんな快く応じてくれた。
つまりは、これが『禁書館戦争の英雄』のささやかな役得という訳だ。
ブウンと軽いうなりが響き、既にサーリムより年下になってしまった30歳のケイの姿が現れる・・ ・はずだった。
ところが、ディスプレイに現れたのは、見たこともないジャンプスーツを着た初老の男だった。
しかし、見たことがない筈のその男は、何故か見覚えが有るように感じられる。
男は、軽く右手を挙げて言った。
「サーリム、元気か。大分再生回数が多いようだな。俺を忘れないで居てくれるのは嬉しいが、いつまでも俺にとらわれて居ては先へ進めないぞ。」
サーリムは愕然として、手元の液晶パネルのメッセージIDを確認する。
メッセージの指定は間違っていない。
サーリムの驚愕に関係なく、男の映像は話を続ける。
「お前に話がある。この話には世界の運命が掛かっているんだ。ここまできて欲しい 。俺のバックパックの内ポケットを探ってみろ。これと同じ物が入っているはずだ。」
そう言って男は、手に持った板状の物体を差し出した。
「これはPDAという機械だ。これを使えばここまでの道が判る。具体的な道筋は、プロメターに聞けば説明して貰える筈だ。それでは、待ってるからな。」
そういって、唐突に画像は消えた。
今映ったのはケイの姿だったのか?
ケイは20年前に死んだはずだし、何よりサーリム自身がそれを見ている。
しかし、今のメッセージは元のケイの遺言に上書きされていた。
メッセージの消去は管理者権限で実行できるが、上書きは登録者本人にしか出来ないシステムになっており、 本人確認はDNAコードでチェックされる。
つまり、メッセージの上書きができた以上、外見がどうであれ今の映像はケイ自身だと言う事だ。
ともかく、プロメターに尋ねる他は無さそうだった。
保安局担当崇高賢者のレイフェル・アリソンは、この憂慮すべき事態の推移の中で、取り合えず一つだけでも手が打てた事で、僅かながら安堵を覚えていた。
彼は、いずれ遠くない時期に炎の剣との衝突は避けがたくなるであろうと考えており、気が進まないにせよその準備はしておかなければならないと考え続けていたのだが、苦心の末に現在最強と噂されているサンタ・ホルヘ傭兵団との長期独占契約が纏まったのである。
彼等は、この3年程炎の剣との間で兵士を訓練する契約を結んで来た。
傭兵団を丸抱えで雇う契約ではないので身入りは知れているが、それでも目立った争いの無い昨今では丸抱えで雇う程に気前の良い依頼主は中々居らず、軍団の維持費が出ればそれで良しとするしかなかったと隊長のウェイギャンは語っていた。
もっとも、ケチという評判を何よりも嫌う炎の剣だから、業務の割には払いが良かったそうである。
そうやって、結構な額の費用を投じてまで自前の戦力を整備しようとする炎の剣の姿勢は、やはり剣呑と言えた。
だから、いずれ来るであろう対決を思えば何よりも最強の戦力を確保したかったし、更にはその時の相手側戦力からサンタ・ホルヘ傭兵団を除く事は極めて大きな意味を持つ。
正に一石二鳥の方策であった。
そこで、彼の率いる希望の光教団の中で(決して豊かとは言いがたい内証から)反対意見が続出するのを抑えて、敢えて傭兵団を丸抱えで雇いたいと持ち掛けたのだ。
交渉中は、炎の剣が傭兵団に執着を示すのではないかと気が気でなかったのだが、幸いにも炎の剣は、独自の軍を整備する方針を変更する事無く、あくまでも傭兵団とは軍事指導以上の契約を結ぶ意思は無いと言明し、更には傭兵団との指導契約の継続にも執着を示さなかったので、アリソンが契約にこぎ着ける事が出来たのだ。
これ自体は良い事ではあるが、同時に悪い兆候でもあった。
現時点で炎の剣が自前の軍を整備する事に拘ったという事は、それだけ本気で連邦と対決する意思を持っているという事あり、また訓練の継続を求めなかった事は、彼等が対決の準備が調ったと考えている証拠でもあったからだ。
まずは、家にとって返したサーリムは、押入れを開けた。
「サーリム、どうしたの?」
マーガレットが、怪訝そうに尋ねる。
「何が起こっているのかさっぱり判らんが、何か非常事態らしい。」
そう背中で返事をして、押入れの荷物を次々に引っ張り出しては開けて行く。
捜し物は、一番奥の箱の底に有った。
長らく荷物の下にあって、すっかり平たくなったバックパックを引っ張り出す。
蓋を剥ぐように開け、中を開こうとする。
20年もしまい込まれていた革のパックは、革同士がすっかりくっついてしまっており、バリバリと音をたてて剥がれながら開いた。
中を探ると、一見した所では気付かないが、底板が捲れる様になっていた。
無理に開いてみると、その裏に隠しポケットが有った。
本体と同じく張り付いているポケットを破る様に開くと、ケイ(らしき男)が言っていたPDAとかいう物と同じ機械が入っていた。
サーリムはそれを手にしばらくためつすがめつしていたが、どうすれば動くのか見当も付かない。
ともかくプロメターに聞くしかあるまい、と判断したサーリムは、
「ちょっと出てくる。」
と一言だけ言って、そのまま出ていった。
サーリムを信頼しているマーガレットは、敢えて何も聞かずに送り出した後、ひっくり返されたガラクタの山に目をやり溜め息をついた。
ウェイギャンは久々の、それも当面の期限を切らない長期の傭兵団丸抱えの契約に上機嫌であった。
彼が単独での指揮権を確立した以降も大小様々な危機が襲ってきたが、その都度彼の果断と現実主義的な(つまり傭兵団の存続のためには手段を選ばない)対応で乗りきって来た。
その中でも最大の問題は『仕事の確保』であった。
禁書館戦争以降、連邦内では政府(言い方を替えれば最高賢者)の覚えを憚って、厭戦的な空気が支配する様になり、各団体は当座の対立を棚上げして紛争を回避する傾向が強まった。
常識的には結構な事なのであろうが、傭兵稼業で生きる者にとってはとんでもない話である。
ルネサンス期のイタリアで、傭兵を主要な生業とする領主に向かって教区司祭がその『平穏』を祈った所、その領主が激怒して司祭を殴り倒したという逸話があるが、ウェイギャンにはその領主の気持ちが手に取る様に判る。
生命の危険を伴う紛争は、傭兵稼業においては無くては叶わぬ空気の様な物だ。
無くなれば即死だし、少なくなっただけでも生きるためにもがき苦しまねばならないのである。
だからありとあらゆる伝を使い、どんな小さな『仕事』でも必死に拾い上げた。
ちょっとした紛争というより喧嘩に近い物にまで、頼まれれば喜んで介入した。
外聞を憚っている場合では無かったのだ。
当時の彼等は「いっそ、『よろず仲裁引き受けます。料金応相談』の看板を上げてやろうか。」と自嘲的に笑い合った物である。
そうやって、それこそ必死に傭兵団を維持した結果、ようやく風向きが変わって来た。
棚上げは所詮棚上げに過ぎないのであって、対立を止揚して融和的な関係に進む事が出来た団体は少数に留まった。
結局、禁書館戦争の教訓が風化するに伴い、各所で再び対立の火種が燻り始め、小規模な紛争が頻発する状況に戻った。
その一方で傭兵業界は冬の時代を通じて再編が進み、経営が成り立たなくなった中小の傭兵団は、余力のある大規模傭兵団に吸収されて傭兵団の更なる大規模化が進んだ。
勿論サンタ・ホルヘ傭兵団も例外ではなく、その規模は拡大の一途を辿った。
そして、各傭兵団はその食い扶持を稼ぐために、請われるままに傘下の小部隊を世界中の紛争に次々と投入した。
その結果として各所で同士討ちが起こる事となったが、大半の傭兵団は贅沢を言っていられる場合ではないと割り切っていた。
とはいえ完全な同士討ちを容認する事も出来ず、現地での傭兵団同士による『調整』(下世話な言い方をすれば八百長である)がしばしば横行する事となった。
これは社会的に見れば対立を緩和するという好ましい副産物を生じる結果となったが、その一方で傭兵という稼業に対する信用を落とす事にも繋がった。
しかし、サンタ・ホルヘ傭兵団はウェイギャンの信ずる『傭兵の信義』に従って、対立する複数の陣営への同時参戦を慎重に回避したので、相対的に広く信用を確保する事が出来た。
ところが、どうしたものかここ数年は、その小対立の種がすっかりと下火になり、再び日々の糧を確保するにも事欠く様になってきていた。
とはいえ、対立が止んで融和的な世界が拡がってきたというわけでもない。
要するに、武力を背景とした大規模団体への強制的な統合が進み、小規模な火種が尽き始めているのだ。
サンタ・ホルヘの様に、特定の陣営に属さない傭兵団は、仕事を探すのに苦労する様になってきた。
そろそろ節を曲げて、特定の陣営に阿る色付きの団体となるか、傭兵団の規模縮小も視野に入れなければならないかと思い悩み始めた頃に、炎の剣から軍事指導のオファーが来た。
炎の剣としては、傭兵の信義を守るサンタ・ホルヘ傭兵団なら信用出来ると考えたのである。
禁書館戦争の経緯から、ウェイギャンは出来るだけ炎の剣とは距離を取ってきたし、軍事指導では大した金にはならないのだが、もう背に腹は代えられない状況であり、贅沢は言っていられなかった。
その提示額は、単なる指導料としては悪いものでは無かったし、年単位の契約である事も魅力的であった。
結局そのオファーを受けて、3年に渡り指導を行ってきた。
その指導も概ね一段落して、次の契約を考えなければならなくなっていた所で、希望の光から丸抱え契約のオファーが来たのである。
大変魅力的な提案ではあったが、ウェイギャンとしてはその前に炎の剣との指導契約を終了させる事ができるかどうかを危ぶんでいた。
丸抱えといっても本当に全員で行かなければならないわけではないので、少数の人員を炎の剣に残して指導契約を継続する事も物理的には不可能ではない。
また炎の剣との契約には実際の戦闘に携わる事は含まれていないので、もし仮に炎の剣と希望の光が戦端を開く様な事があっても同士討ちは避けられるし、双方と同時に契約する事は契約違反ではない。
しかし、それは『傭兵の信義』に悖る行為であるというのがウェイギャンの見解であった。
信義を云々するなら、対立陣営に乗り換える事自体がどうなのかという考え方もあろうが、その点はウェイギャンにとっては問題にならなかった。
『契約の続く限り』雇用主に忠誠を誓うのが、彼にとっての傭兵の信義である。
ギリシャの政治学者モスホプロスは、ホルコス(忠誠の誓い・宣誓)には2つの種類があると説いた。
共同体への宣誓であるホルコス・ポリティコスと君主への宣誓であるホルコス・バシリコスである。
この内ホルコス・ポリティコスは、宣誓自体とそれに伴う義務の遂行に対して報酬を求める事はできず(敢えて言えば共同体に属する事でその有形・無形の庇護を得る事それ自体が報酬なのだ)、またその義務に基づく命令に逆らう事も許されない。
どうしても納得できなければ、この場合に許される唯一の権利である『共同体を出て行く自由』を行使する他はない。
それに対してホルコス・バシリコスは、君主からの報酬無しには成立しないので、報酬の支払が終了し又は無効となった時点でその宣誓の効力は自動的に終了し、全ての義務は消滅する。
そして、傭兵が属する『共同体』とは傭兵団の事であり、雇用主と傭兵との間の契約は、ホルコス・バシリコスに他ならない。
だから、もし対立陣営に行かれたくなければ、契約を継続し報酬を支払い続ければ良いのだ。
とはいえ、継続中の契約は次の契約に優先するのは当然の事である。
従って、もし炎の剣が継続に固執すれば、希望の光の魅力的なオファーを諦めるしかないと考えていた。
しかし、幸いな事に炎の剣は既に契約の元は取ったと判断した様で、終了する事に同意が得られた。
これで、当分仕事の確保について悩む必要は無くなった。
しかも、気前が悪くはないとはいえ指導料なのだからその金額は傭兵団の維持に関して十分とは言い兼ねる物であり、必死にやりくりを付けてはいるものの結局のところは各員への報酬切り下げで帳尻を会わせる他は無い。
それでも兵士達が付いて来てくれるのは、ウェイギャン以下の幹部達が一切の報酬を返上しているのを知っているからである。
これでようやくまともに報酬が出せると思えば、気が楽になった。
プロメターは、今や崇高賢者の末席に連なる身であった。
しかし、サーリムに対してはその身分の違いを意識させる事無く、相変わらず親身な後見人であり続け、いつ訪ねても暖かく迎えた。
「やあ、サーリム君。おめでとう。」
そう言いながらプロメターは軽く右手を挙げたが、サーリムの堅い表情を見てその手を下ろした。
サーリムは単刀直入に告げた。
「ケイのメッセージを見ました。」
その声は、自分でも驚くほど固かった。
「そうでしたか。」
プロメターは、感情を露す事無く短く答えた。
「あれは、本当にケイなんですか?」
思わず詰問口調となる。
「ええ、そうです。」
拍子抜けするほど、あっさりと答えが返ってきた。
「ケイは何処に居るんですか?」
「彼は今、崑崙に居ます。」
「崑崙?」
サーリムは、頸を捻った。
崑崙とは、中国古代の伝説に出てくる西王母と呼ばれる仙女が統治する国の名である。
エデンやシャンバラ、ヴァルハラといった世界中にある桃源郷伝説の一つに過ぎない物であり、実在する筈は無い。
「多分、君が考えている崑崙とは違います。ゴビ砂漠にある秘密都市の事です。そこの住民達は、自らの都市を伝説の国になぞらえて崑崙と呼んでいます。」
ゴビ砂漠にある実在の都市である事は判ったが、それ以上の事はさっぱり判らない。
第一『秘密』都市とは、どういう事なのか?
ニュアンスからすれば都市自体が隠されているのだろうが、どうやったらそんな事が可能になるのか。
いくら砂漠の中でも、都市と呼べる程の規模の存在が隠せる物だろうか。
「出来れば、先入観を持つ事無く自分の目で崑崙を見て欲しいので、敢えてこれ以上は説明しません。しかし、そこに行けばケイに会えるのは確かです。それにケイが君を騙す筈が無いのは、説明するまでも無いでしょう。」
どうやら、自分で行くしか無さそうだ。
話を聞く限りでは、片道で一月近く掛かりそうだが、こんな雲を掴む様な話をどうやって局長に説明しようか、と考え込んだ。
「もうすぐ、崑崙のすぐ近くの街にある団体から、監査申請が来ます。私は推薦人として君を監査担当にするように希望を出すので、その街から崑崙に向かって下さい。詳しい行き方は出発前に説明します。」
どうやら、既に全て手配済みの様だ。
プロメターには、サーリムの知らない一面がある事を認識せざるを得なかった。