幻影
動き出す世界 小磯良
僕の名は小磯良。好きな物はお酒。もちろん一度だって飲んだことはない。ただ、匂いが好きなのだ。それで、いつも、おつまみばかりを口にしている。
最近は占いをする代わりに、お酒を貰うのが日課だ。種類は赤ワイン。
仕事の後、たった一杯、仏壇に供える。今日もいい事がありますように。
そう祈りながら、僕は玄関を飛び出して高校に通う。いつものように。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
僕はライトの下でぼんやりしていた。大好きだった女の子を思い出しながら。
一睡もできない。彼女の柔らかい蝶の様な後ろ姿ばかりがちらつく。
ラウンジで行ったゲームは楽しかった。波旗さんと話をした後、みんなと別れて、五反田さんと話をした。美春が耳元で笑っているような気がした。
男の失恋は後を引きずるのだ。けれど、僕の失恋は一生を引きずるのだ。
最後に美春に酷い言葉を言ってしまったことが、僕を苦しめる。けれど。
五反田さんと話をして、少し気が楽になった。
あの人に好かれた気がしたが、きっと気の所為だ。あんな美しい人が僕の気を引くわけがない。でも彼女の悩みは気づかせてあげられただろう。
余計な事をしてしまったかもしれないが……。白い壁の落書きに、光を当てるような作業をしてしまった。
「美春」
美春は僕が好きだった女の子の名前だ。彼女はもういない。喧嘩して別れたのも本当で、会えなくなったのも本当で、だから。
だから僕は、目を開けたまま、夢を見る。美春と語り合う夢を。楽しかった夢を。
美春はいつも笑顔で笑ってくれる。
僕は占いをしながら探している。
僕を占ってくれそうな才能を持った人を捜している。
僕の運命を占える人には出会ったことなんてないけれど。
美春は着物姿の古風な女の子だった。桜の襖の前で笑っていた。
春風のような少女だった。彼女が僕を置いて出て行ってからも、僕らは繋がっていると信じていたのに。
「私の本当の妹を捜してくれませんか?」
僕らはいつも一緒で、いつも傍にいた。永遠にその時間は続くと思っていたのに。
「もう、どうでもいいや」
と呟く。
よくないよ。どうでもよくないよ。胸の中の美春がそう答えた気がした。
「重症だ……」
ベッドに飛び起きて、我に返った。
「よし、膀胱が爆発するから、トイレに行こう」
備え付けのトイレに入ってふと寂しくなった。そうだ。波旗さんに会いに行こう。
あの人は僕にとって焼き立てパンみたいな人だから。
「それにしてもせっかくの高級車両もな……」
美春がいなけりゃつまらない。そんな事を考えてしまう僕なんて救いが無い。
僕は立ち止った。
くすくすくす。
あれ?
中性的な笑い声がする……なんだ?
僕はそのまま波旗さんがいそうなラウンジに行って。
「あれ?」
眩暈がする。気がついたら、時計が十分、進んでいた。僕は疲弊している。
どうしたんだろう。何か異質な世界に踏み込んだような違和感があった。
なんだったんだ。
胸騒ぎがして部屋に帰ると僕の隣の部屋。八号車のB室の扉が少し開いていた。
その隙間に高そうなワインが転がっている。おお。
「これは! かの有名なボルドーのワインか?」
高そうだった。こんな素晴らしいワイン、この僕が手に入れられるチャンスがこの先あるだろうか。いや、無い。
部屋に足を踏み入れてワインの瓶を拾う。
「このワインを分けてください! あと五年は飲みませんから!」
ヌルリと指が滑った。ワインの瓶が転がる。
足元には人が倒れている。そのシルエットに見覚えがあった。
「そんな所に寝ていると、顔が平らになりますよ。波隠真琴さん」
倒れているのは少女だった。そのウエイトレスの少女はピクリとも動かなかった。
「あ、あれ……?」
うーん。つまりこれはどういう状況なんだ?
「お嬢さん。こんなところで寝ていると、ハイエナの餌になりますよ。人生はサバンナだ、休んだら負けだ! 休んだらライオンに襲われる! そして僕はシマウマだ! ライオンに襲われるくらいなら舌を噛んで死んでやる!」
遠くから司法さんが通りかかった。手に携帯をかかげている。
「住所教えろ。アホ小磯先生。いつか借金返すから。それにそんな事すると自動的にライオンの餌になっちまう……」
司法さんは僕を指さすと震えた。
「てめえ、何やってんだよ」
「あ、こんばんは、司法さん」
「あ、こんばんはじゃねえよ! お前、足元を見て見ろよ!」
足元。
「人が倒れています」
「その人には何がついている!?」
「ああ、長いツインテールが……」
「そこに赤いもんもついてんだろうが!」
「あ、本当だ。なんだろう? 絵具かな?」
現実を受け入れたくない僕だった。その赤はどうやら、血のようだった。
「頭から血が出たら死んでしまう……大丈夫ですか?」
司法さんは僕を殴った。
「大丈夫なわけがねえだろうが! おい、誰か!! こいつを捕まえろ!」
僕は溜息を吐いた。
「これは司法さんの遊びですか? 特殊ですね。嫌だなあ」
「お前な……壮絶な現実逃避をする暇があったら言い訳をしてみろ。人が一人死んでいるんだぞ!」
「まさか……」
奥は倒れているウエイトレスを見つめた。嘘だ……。
顔は綺麗だった。でも動かなかった。震えが走った。
「これ、本当に死んでいるんですか?」
「死んでいるだろうが! 動くなよ! 今すぐ人を呼んでくる!」
「待ってくれ! 置いていかないでくれ!」
嫌だ、死んだ人と二人きりなんて嫌だ。
死体につまずいて転がった僕の眼前にナイフが転がっていた。
おもわず握る。
「あ……あ」
人が死んでいる。なぜ、なぜ、なんで?
怖くて、怖くて、たまらない。
美春……助けてくれ。僕は眩暈を覚えてしゃがみこんだ。
「やっぱり、てめえ、やりやがったな!」
走り出そうとした司法さんの前に、五反田さんが立ちはだかった。
「待て、司法! 人は呼ぶな。小磯の迷惑になる。こいつは有名な占い師だぞ」
「だからって、悪行を見逃しておけるか!」
嫌な予感がした。凄い顔をした参上が立っていた。
「いつかやると思っていたわ、小磯。肉を食べる奴にロクな奴はいない」
「お前が一番食っていただろうが! この肉泥棒!」
僕らの大声に、通りすがりの響鬼野が駆け付けた。
「何なのですか?」
その隣には怯えた顔の波旗さんまでいる……。ああ。
「……困ったことになったね」
愕然と呟いた。
その言葉にみんなが一斉に僕を見た。