愛の人
愛 五反田シオリ
私の名は五反田シオリ。
少し前は舞台などもやっていた女優だが、得意なことは何もない。
ただ人に愛される。
男に愛される。さばさばした口調が、良いのだそうだ。
みなは私に敬意をこめて愛人ではなく愛の人と呼ぶ。愛の人。
私が昔、歌っていた歌も愛の人だった。私は女優上がりの愛人だ。
昔は男役をやっていて、女に戻りたいと思ったのが今の状態になったきっかけだった。
ただ愛される存在になりたくて、可愛い女になりたかった。
顔が特別綺麗なわけじゃない。スタイルが特別いいわけでもない。
ただ愛される。それが、愛人の道だと私は信じている。
愛がすべてだとは思わない。思えない。
でも愛はすべてだ。愛があれば、心に開いた穴はふさがれてしまう。
好きか嫌いか、愛しているか憎いか。
みんなそんな単純な法則で、人を好きか嫌いかに分けてしまう。
私の知り合いに家族に嫌われている女の子がいた。私はその子と親しい友人だった。
ただの友人だったが、彼女は愛されなかった。
一人の食卓でご飯を食べ、たった一人で、家事をこなし、たった一人で学校の行事をこなした。だから私は愛されようと思った。誰かに愛されよう。そう思った。
女優をしながら、愛される術を捜した。愛してくれる人を捜し続けた。
結果が誰かの愛人だった。
色んな愛人を経験した。しかし、色々あって今は一人だ。週刊誌に元女優が愛人だという記事を書き立てられたのが原因で誰もいなくなった。週刊誌にその記事を売った探偵が恨めしくもあるが……車掌の愛人も悪くない。
そう思ってこの列車に乗り込んだ。
まあでも、愛されることが全てで、後は多分どうでもいい。
どうでもよすぎた。
たぶん、私は愛してもらっていないと満たされないのだ。
私は壊れた砂時計なのだ。ああ、誰か私を満たしてくれ。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
夜会が終わって、三十分か……。
「小磯、一緒に飯を食わないか?」
口角を上げて唇をめくった。扉をノックする。
小磯良。占い師。
別に占いは好きじゃない。占って欲しいわけでもない。
ただ、この男に愛されてみたいと思っただけだ。
「いいけど、俺がおごりますよ」
さりげない態度にゾクゾクした。
時計は八時半をまわっていた。二人きりでしばらく話をした。
小磯は面白い男だった。冷たいジュースと勝負で得た菓子を私にふるまった。
「嬉しいよ。小磯」
「好きなんですね。奢ってもらえるのは愛のバロメーターだからですか?」
「そうだ。人は愛されていないと生きられないのさ、私は。愛は媚薬のようなものだ。脳髄を満たすのさ」
小磯は哀しそうな顔をした。
「愛なんて本当にこの世にあるんですかね?」
「どうしてだ?」
興味が湧いた。
「好きな女の子がいたんだけど……もういなくなってしまったんだけど……愛なんてあったのかなって……」
私は眉をしかめた。
笑顔でそんな話をするこの男の心理を想像した。
「もしも私がここでお前に愛を囁いたらどうする?」
小磯は悲しそうな顔をした。
「『愛なんてきっと、壊れやすい蝶のようなものなんだろうね。追いかけた時にはもういないの』。僕の好きだった女の子の言葉です」
彼は傷つきやすい少年のような目で私を見た。
私は胸が切なくなった。たまらなくこの男を抱きしめたくなった。
「小磯、愛はあるよ。何処にでもある。君は愛を諦めるな、小磯……」
励ますと小磯は笑った。
その顔にはさっき浮かんでいた悲しさはもう存在していなかった。
「すみません。相談される側が相談をしてしまって」
「全くその通りだ。世話の焼ける男だ」
彼は甘え上手なのかもしれない。母性本能をくすぐられた。
「忘れろとは言わない。その子を愛せばいいよ。心行くまで。それで、そのついでに辺りを見渡せばいい。いい女はどこにでも転がっている。君が選り好みし過ぎるだけだ。過去の恋に縛られているだけだ。愛なんてどこにでもあるんだよ」
「敵わないな。五反田さんは。そう言って僕を責め落とすつもりですか? 困ってしまうな」
失礼なと言いかけて、私は言葉を失った。
彼は……とても寂しそうだった。私に攻め落として欲しそうだった。
けれど、もしそうなっても自分が満足できない事を知っているようだった。
「どうした。泣いているのか? 小磯……」
「泣いていません」
彼は小さく身体を折った。
「泣いたりしません。僕はこれ以上、変わりたくないから。きっと、彼女の知るものと全然、違う物になってしまったから……嫌われてしまうかもしれない……」
そうか。その少年らしさを私は愛そう。
私は彼を立ち上がらせた。
「私の部屋で少し話をしよう。旨いコーヒーを頼もう。なんなら生ハムを注文してもいい」
色んな話をした。
子供の頃の話。昨日食べたハンバーガーの話、虹を見た話。
この列車の話。列車に集う人々の話。
「五反田さん。愛されるって幸せですか?」
「幸せだよ」
小磯は悲しそうに私を見た。
「僕は愛されても幸せになれませんでした」
「どうしてだ?」
「愛せなかったんです。他に誰も愛せなかったんです」
私は目を見張った。
『僕は誰も愛せないよ』
父が母にそう言って家を出て行ったのを思い出した。
「愛せるさ、いつか愛せるよ。少年」
「そうですかね?」
彼は私の顔をじっと見て……はにかむと一礼して去って行った。
後ろ姿が誰かに似ていた。ああそうか、そうだ。小磯は私の父に似ているのだ。
私にとって父は壊れやすい人で、私は父に愛されたくて……努力して、叶わなかったのだ。父は人を愛せない男だった。愛を知らない男だった。愛は無くても恋はでき、愛は無くとも子は育つ。家族に愛されなかった寂しい女の子は私だった。
食卓で一人だったのも、参観日に一人だったのも、全部私だ。
笑った。随分遠くに来たものだ。
私は家族に愛されたかったのだ。
全てに愛されたかったのではない。愛人になりたかったのではない。
ただ数名に愛されたかった、それだけだったのだ。なるほど。
車掌には振られてしまったし、故郷にでも帰ろうか?
さすが占い師だ、彼は私の悩みをいとも簡単に暴いてしまった。ああ。
「敵わないな。占い師という者は」
私は苦笑した。キスぐらいすればよかったのに、響鬼野。勿体ない。
あの男は頑丈で籠絡で手強いぞ。
私はやけにさっぱりした気持で、小磯の背中を見送った。