第92話 最悪のイメージ
突如、咆哮が轟く。
床が揺れ、壁と天井が軋む。
窓ガラスに亀裂が走りその亀裂から緑色の水が滲み出る。
冬華は訝しげな表情を浮かべ、クリスは手を止めた。
下の階から聞こえた衝撃音の後、壁を突き破る様な大きな爆音が轟く。
流石に様子がおかしいと、二人は顔を見合わせる。
まだ、髪を梳いている途中だったが、冬華は気にせずその髪を束ね走り出す。
それに続く様にクリスも部屋を後にし、エントランスの方へと向かった。
長い廊下を出て、エントランスの階段を下る。その目に真っ先に入ったのは、砕けた床、ひび割れた壁だった。
間違いなくここで争いがあった事を物語っていた。しかも、先程の咆哮からして、龍魔族が戦っている。
真っ先に二人の脳裏に浮かぶのはエルドの顔だった。彼女が誰かと戦闘していると、二人は判断する。もしかすると、屋敷内に緑の雨に打たれた者が侵入し、交戦しているのではないか、そう考えていた。
「冬華。気をつけてください」
右手に剣を出し、クリスは冬華を背にする。
「う、うん。分かってる」
クリスの声にそう答え、冬華もその手に槍を召喚する。槍の出し入れも大分様になっており、召喚するのに時間はかからなくなっていた。
ヒタヒタと水音を交えた足音が、薄暗い廊下の向こうから聞こえる。冬華は意識を集中し、耳を澄ませた。聞こえてくる足音は一つだけ。後は激しさを増す雨の音でかき消され、何も聞こえない。
息を呑む冬華は、柄を握り締める。自分の心臓の鼓動が早くなっているのを感じていた。
高まる緊張感の中、クリスの握る剣の刃に炎が灯る。本能的に行った行動だった。
自然と右足をすり足で前に出したクリスは、そのまま重心を落とす。いつでも突っ込める状態で待機し、目を凝らす。薄暗い廊下の先に一つの影が浮かび、クリスは気を引き締める。
廊下の奥から漂う殺気に、二人は息を呑む。
身構える冬華の足が、僅かに下がる。無意識に行った行動だが、冬華は何かを感じていた。脳裏に浮かぶ嫌なイメージが冬華の鼓動を更に早める。そのイメージとは、緑色に侵食されるエルドの姿だった。もちろん、そんな事あるはず無いと冬華だが、そのイメージだけが頭の中を巡る。
頭を左右に振り、その悪いイメージを振り払う。だが、その矢先だった。二人の目の前へと姿を見せる。首筋から左頬へかけて皮膚を緑色に染めたエルドが――。
大きく開いた口の合間に覗く牙。その先から唾液が零れ落ちた。
眉間にシワを寄せ、クリスは唇を噛み締めた。
静けさの中に雨音だけが響く。
エルドと対峙する二人。
エルドの手に握られた二本の剣の切っ先が床に触れ、火花が散る。それを合図に冬華は後方へと跳び、クリスがエルドへと向かい駆け出す。
後方に跳んだ冬華は、腰を落とし低い姿勢で槍を構える。踏み出した左足の指先に体重を移動し、顔を上げた。その視線は確りとクリスとエルドの姿を捕捉する。
一方、エルドへと突っ込むクリスの表情は険しい。助けてもらったエルドに対し、剣を向けると言う事に躊躇っていた。
そんなクリスの気持ちを知ってか、エルドはゆっくりと体を前後に揺らす。柔らかくしなやかな動き。だが、その動きに何の意味があるのかクリスは分からなかった。分からなかったが、クリスには突っ込むしか方法がなかった。
(間合いに入った!)
そう思い、クリスは右足を踏み出し、払う様に剣を振り抜く。しかし、刃は空を切る。
(外した!)
クリスは驚く。完全に間合いに入ったと思っていた。だが、剣を振り抜くと同時に、エルドの体は大きく後方へと揺らいだ。それにより、刃は十センチ程も離れた位置を空振った。
クリスの右腕が大きく伸びる。確実に当たると思っていた為、大振りになっていた。故に、クリスの動きは暫し停止する。
その時間はほんの一瞬だった。ゼロコンマ何秒の時間。だが、その一瞬で、エルドの上体は前方へと動き、両腕は自然と振りかぶられる。そして、動き出す。エルドの怒涛の様な激しい連撃と共に。
エルドの剣が激しく両腕から放たれる。重々しい金属音が幾重にも重なり、外から内へと刃が交互にクリスを襲う。真横から――、斜め下から――、斜め上から――と、角度を微妙に変えて。
「くっ……」
重い手応えにクリスの表情は歪む。力の抜けたその体勢から、どうしてこれだけの力が出るのか、クリスには分からなかった。
幾度と無く火花を散らすクリスの刃が、僅かに欠ける。これでも、クリスの扱う剣は強度が高い。炎を刃にまとわせる為、高熱にも耐えられる様に強度は高く造られている。故にどれ程重い一撃でも刃が欠けるなんてありえない。
これまでの戦いでも、何度も重い一撃は防いできた。故に、すでに限界だったのかも知れない。先のシオの一撃で砕かれた双剣も、強度が弱いと言ってもただの一撃で砕かれる程脆いわけが無かった。
激しく続くエルドの高速の連撃を、一本の剣で防ぐは流石に限界だった。
銀髪が舞い、鮮血が散る。徐々にクリスの体を、エルドの剣が捉えていた。
「クリス! 避けて!」
冬華が叫ぶ。
光をまとう冬華は、腰の位置に槍を構える。
神の力を使用していた。
ほんの一瞬だけの力の解放だが、これでエルドは助けられる。
冬華は踏み出した左足へと力を込め、クリスの背中へと向かい放つ。
「シャイニングスピア!」
その声が響くと同時に、クリスは右へと跳ぶ。丁度、左から入ってきたエルドの剣に刃を弾かれた勢いに乗って。
クリスが床を転げる。その視界へと映る冬華の放った輝く槍。それが、エルドへと直進する。
しかし、その瞬間、廊下の奥から疾風が駆け、エルドへと直進する槍が下から上へとかち上げられた。澄んだ金属音が反響し、火花が激しく舞う。
奥歯を噛み締め、冬華は表情を歪める。もう一つの嫌な予感が、今、目の前に現実となっていた。
「水蓮……」
静かに冬華が呟いた。濡れた髪の毛先から緑色の雫を零す水蓮を見据えて。
水蓮もまた、体を侵食されていた。まだ、自我があるのか、苦しそうな表情を浮かべる。そして、その唇が震えゆっくりと言葉を紡ぐ。
「に、逃げて……か、体が……い、いし……き、が……」
水連の声が途切れ、目の色が変る。不気味に輝くその瞳に冬華は槍を引く。
それと同時に、水連が床を蹴る。すでに瞬功が使われていた。それ故、動き出しが早く誰も反応出来ない。
奥歯を噛み締め、冬華は息を呑む。槍が戻るよりも早く、水蓮が冬華の横に右足を踏み出す。そこで、ようやく、クリスも気付く。
「冬華!」
立ち上がり、冬華の方へと振り返る。だが、そんなクリスの前にエルドが立ち塞がる。
(間に合わない――!)
冬華は表情を歪める。目の前の水蓮に、焦っていた。
槍が戻せず、水連の一撃を防ぐ事が出来ないと、冬華は奥歯を噛み締める。
(斬撃は光鱗で防げる! 衝撃に備えないと――)
冬華は一撃を受ける覚悟を決め、衝撃に備える。
踏み込む水連の腰が回り、刀が振り抜かれた。
その刹那――。冬華の背後から猛獣の激しい気配が漂い、水蓮は刀を引き後方へと跳ぶ。低い姿勢で床を滑る水蓮は、そのままの姿勢を保ち視線を上げる。
呆然とする冬華は、息を切らせ槍を構えた。
「騒がしいと思ったら……お前達か……」
静かな声がエントランスに響く。冬華の後方、廊下の奥から。
聞こえたその声の主は、冬華もクリスも良く知る人物、シオのモノだった。だから、冬華の表情は自然とほころび、口元には笑みが浮かぶ。
音も無いその歩みは、気配だけで近付いてくるのが分かる。故に、エルドも水蓮も僅かに後退った。ここで三対二になると分が悪いと分かっているのだ。後退りする二人の姿にクリスは、訝しげな表情を浮かべる。
自我を失った者は皆、好戦的で考えずただ襲ってくるモノだと思っていた。だが、現状を見る限り、自我を失っても、エルドも水蓮も自分達の状態を考えている様に見えた。
薄暗い廊下の奥から、シオは静かに姿を見せた。獣の様な気配を広げたまま。
今まで鍛錬を行っていたのか、汗で髪も体も濡れていた。そして、シオの体からは薄らと湯気が立ち昇る。
「一体、どう言う事だ? 何で、あいつらが、侵食されてるんだ?」
シオがエルドと水蓮を交互に見据え、不服そうな表情を浮かべる。
「多分、なんらかの理由でエルドが感染していたんだろう。
その後、水蓮はそのエルドに襲われ、雨を浴びた。そう考えるのが妥当だろう」
視線をエルドと水蓮に向けたまま、クリスは答える。クリスは冷静だった。シオが来た事により、数的優位に立ったからだ。
落ち着きを取り戻したクリスは、横目で冬華を見た。一瞬だけとは言え、神の力を発動した為、心配だった。しかも、それが、弾かれたのは相当、冬華にとってはキツイ事だった。
神の力は何度も連発出来るモノでは無い。一瞬使っただけでも体に疲労感が残り、僅かに頭痛を起こす。それを外したと言う事実は精神的にも辛いモノなのだ。
それでも、辛い表情を見せず、冬華もエルドと水蓮をただ見据える。呼吸は静かで、落ち着いていた。今の所、神の力を使った副作用は出ていなかった。
シオの登場により、完全に沈黙する。五人の殺気、気配、闘気などが混ざり合い、空気は濁っていた。
睨み合いが数分続き、エルドと水蓮が床を蹴った。向かうのは出入口である大きな扉。その予想外の動きに冬華達三人の動き出しが遅れる。音を立て、扉が崩れる。エルドの剣が一瞬で切り裂いた。
そして、二人の姿は消える。緑の雨の降る街の中へと。