第90話 降り注ぐ緑の雨
「すみません……。油断してしまって」
広々とした一室。大きなベッドの上に座る冬華に、床に正座し頭を深々と下げる水蓮。所謂、土下座と言う奴だった。
まだ、ベッドから起き上がる事の出来ない冬華は、慌てて腕を振る。
「だ、だ、だ、大丈夫だよ! わ、私も、その……役に立たなかったから……」
自虐。そして、落ち込む。肩を落とし、目を伏せ、唇を噛み締める。
自分が不甲斐ないばっかりに、シオが記憶を失った。ここまでずっと一緒だった彼は、もうここには居ない。そう思うと、目頭が熱くなり、涙が溜まる。セルフィーユを失った時と同じ感情。それが、蘇る。
そんな冬華を見据えるクリスは、小さく息を吐く。椅子に座り腕を組み、深刻そうな表情。結局、クリスも今回は役に立たなかった。ただ見ていただけ。シオが魔族を倒す姿を。結果、彼は記憶を失った。何も出来なかった事が悔しくて、自らの弱さに怒りが湧き上がる。腕を組むその手に力が入り、爪が腕に食い込む。唇を噛み締め、瞼を堅く閉じた。
静寂に包まれた部屋。
ベッドの上の冬華は小さく吐息を漏らし、大きな窓の向こうを見据える。窓の端には紺色のカーテンがまとめられていた。
雨雲が空を覆う。灰色の空を見据え、冬華は眉間にシワを寄せる。あの雨雲から緑色の雨が降るんだろうか。もしそうなら、この目で確かめないとと。
静かに風が吹き、窓ガラスが揺れる。その音にクリスも水蓮も視線を窓の向こうへと向けた。窓ガラスを叩く小さな雨粒。その雨粒に三人は驚愕する。
窓に付着する緑色の雨粒。初めて目にするその現象に、勢い良く立ち上がったクリスと水蓮は、息を呑み瞳孔を広げる。
「なっ……」
「本当に、緑色の雨が……」
水蓮が静かにそう口にする。窓を叩く雨粒は徐々に激しさを増し、やがて、本降りとなる。窓はその雨粒を浴び緑色に変色し、不気味に映る。
「これが、緑の雨」
「信じられません。何で、こんな現象が」
訝しげなクリスと水蓮。そして、冬華も渋い表情を浮かべる。何故、この島でのみそんな雨が降るのか、疑問に思っていた。
戸をノックする音。その音に冬華は返事をする。
「は、はい!」
「失礼します」
返答を聞き、戸の向こうからエルドの声が響く。扉が軋み開かれると、エルドが会釈し部屋に足を踏み入れた。
「現在、緑の雨が降っている為、外出は控えてください」
淡い蒼の髪が揺れ、ゆっくりとエルドは顔を上げる。美しい赤い瞳がジッと冬華を見据える。その視線に冬華は首をかしげた。
「あ、あの……どうかしましたか?」
不思議そうに冬華が尋ねると、彼女は小さく首を振る。
「いえ。以前にも、あなたの様な女性を見た事があったので」
目を伏せ、小さく会釈。そんな彼女に慌てる冬華は苦笑。
「そ、そうかな? ほ、ほら、何処にでも居る顔だから」
自分で言って表情を引きつらせる冬華に、彼女は小さく首を振った。
「いえ。少なくとも、あなたの様な人は私の知る限り一人だけ。十五年前に現れた英雄と呼ばれた少女位です」
彼女の真剣な目に冬華は息を呑む。彼女は以前、英雄を目にした事があるとすぐに理解し、その視線をクリスへと向ける。険しい表情を浮かべるクリスは、小さく頷く。それは、冬華が異世界から来た英雄である事を話していいと言う合図だった。
「実は――」
冬華は説明した。自分が英雄としてこの世界に呼び出された事。自分の世界に戻る為の方法を探している事。全てを話した。
静かに話を聞いていたエルドは腕を組み小さく頷く。
「そうでしたか……。通りで、あの人に似ていたわけですか」
「あなたは、どうして彼女の事を? 魔族にとっては疎ましい存在だったのでは?」
クリスが渋い表情で尋ねる。すると、彼女は口元に薄らと笑みを浮かべる。
「私は以前、あの方に助けられました。
それに、ここは魔族と人間が一緒に暮らす国。別に魔族が皆人間を嫌っているわけじゃありません」
静かにそう述べるとクリスは眉間にシワを寄せる。すると、エルドは不満そうな表情を浮かべた。
「納得いきませんか? 魔族が人間を嫌っていない事を」
「いや。別に……」
クリスの返答に、更にエルドの表情は険しくする。睨み合う二人に、冬華は苦笑し、水蓮は小さく吐息を漏らした。
場の空気は重い。険悪なクリスとエルド。何処か二人は似通った印象だが、考え方が違う。
クリスは魔族を信頼していない。だが、エルドは人間を信頼している。その違いがこの険悪な空気を生み出していた。
どうして良いのか分からず、冬華は戸惑いただ苦笑するのみ。水蓮もうろたえオドオドとし始める。
「あ、あの……そ、その……け、喧嘩は良くないですよ?」
恐る恐るそう呟く水蓮にクリスとエルドの鋭い視線が同時に向く。
「別に喧嘩はしてない!」
息を合わせた様に二人の声が重なる。それに気付き、二人はまた睨み合う。
怒鳴られショックを受ける水蓮は、よろめき冬華の方へと涙目を向けた。あまりにも哀れに思い、冬華は苦笑し、二人の仲裁に出る。
「クリス。失礼だよ」
「わ、分かってますが……」
冬華にそう言われ不服そうな表情を浮かべるクリスは、眉をひそめる。
静かに息を吐くエルドは、小さく会釈し、部屋を出ようとする。だが、ドアノブを回してすぐ、思い出した様に冬華の方へと顔を向けた。
「えっ? ど、どうかしましたか?」
突然の事に思わずそう口にすると、エルドは渋い表情を浮かべ、答える。
「実は、冬華さんのお召し物ですが……」
「ふぇっ? 私の服? ……ふわぁぁっ! な、なな、な、何で! わ、私、服着てない!」
そこで、冬華は初めて気付く。自分が包帯だけを体に巻かれ、服を着ていないと言う事に。きつく巻かれていた為、殆ど違和感などなかった。とは言え、ここまで気付いていなかったと、言う事にエルドを始め、クリス、水蓮も呆れ苦笑する。
困った表情のエルドは、右手で頬を掻き静かに呟く。
「え、えっと……それでですが、現在、同じデザインの服を作らせています」
「そ、そうなんだ……。よ、よかった……」
安堵し、胸を撫で下ろす。結構、気に入っていた制服だった。だから、同じデザインの服を作ってもらえて、少しだけ嬉しかった。
えへへ、と笑う冬華に、エルドは小さく会釈する。
「それでは、私はこれで」
「うん。ありがとう。エルド」
満面の笑みを浮かべる彼女に、エルドも穏やかに微笑む。何故だか、冬華を見ていると心が穏やかになる。これも、英雄の素質なのだろうと、エルドはふっと息を吐き部屋を出た。
訝しげな表情のクリスは腕を組み、水蓮はホッと肩の力を抜いた。険悪だった空気も大分穏やかに変り、クリスの目つきも大分緩やかに変る。
「でも、どうしましょうか? シオ殿の事」
水蓮が静かに述べる。僅かに表情を曇らせて。
その言葉に冬華の笑顔が消え、大きく肩を落とす。記憶を失ったシオ。彼が、ここで別れる。理屈は分かる。記憶を失った以上、魔族である彼が人間と行動を共にするなどありえないと。
唇を噛み締める冬華は、静かに息を吐きその視線を窓の外へと向ける。緑色の雨粒が当たる窓へと。
「シオが、決めた事なら、仕方ないけど……」
「そうですか……」
「まぁ、魔族である彼が、今まで私達と一緒に旅をしていた事が異常なんでしょうけど」
クリスが伏せ目がちにそう告げた。
彼女もシオの事は信頼していた。故に、ここで別れると言うのは寂しかった。その為、自然と吐息が漏れる。その吐息に釣られ、冬華も小さく吐息を漏らす。
「どう……なるんだろう」
外を見据え、小さく呟いた。
ガルド島南東沖。
そこに一艘の小さなボートが浮かんでいた。
「アレが……緑の雨……」
ボートに浮かぶ一つの影が、ガルド島の上空を覆う灰色の雲を見据え、呟く。
背中には大きな両刃の剣。そして、揺らぐ赤紫の髪。静かにゆっくりと。