第89話 前例の無い雨
「――はっ!」
冬華は飛び起きる。
フカフカのベッドの上、上半身を起こす冬華は辺りを見回す。
見覚えの無い部屋。綺麗なベッドに棚、テーブルにソファー。落ち着いた色合いのそれらが綺麗に並べられていた。閉じられた窓から差し込む日差し。その窓ガラスには僅かに緑色の粉が張り付いていた。
頭がもうろうとし、体がダルイ。それに、節々が痛む。
背を曲げ肩を落とす冬華は、右手で額を押さえ記憶を辿る。魔族に襲われていたのは覚えていた。あの後、どうなったのか。どうして、こんな所にいるのか分からない。
眉間にシワを寄せ、その黒髪を右手で耳へと掛けた。小さな吐息が漏れ、瞼を閉じベッドへと倒れこむ。頭が痛い。
(あの力は使ってないのに……どうして……)
頭を抱え、僅かに呻き声をあげた。
扉が軋み部屋へと足音が聞こえ、冬華は慌てて体を起こす。その視線の先には包帯を巻いたクリスの姿があった。
「お目覚めですか?」
「く、クリス! よ、良かった……無事だったんだ……」
安堵し、胸を撫で下ろし、その顔は自然と笑顔になる。
愛らしく笑みを浮かべる冬華。そんな彼女の全身にも包帯が巻かれ、それを見てクリスの表情は険しくなる。冬華はまだその事に気付いておらず、ニコニコといつもの様に笑みを浮かべたまま尋ねる。
「シオや水蓮は無事かな? それに、あの後、どうなったの?」
僅かに見せる真剣な表情。その表情にクリスは静かに椅子に座り息を吐く。
「ここは、ガルド島の領主、エルドの屋敷です」
「それじゃあ、あの魔族の人達は……」
不思議そうに首を傾げると、クリスは複雑そうな表情を浮かべた。
「アレは、シオが全滅させたんですが……その後に、暴走して……」
僅かに言葉を濁すクリスに、冬華は「えっ? えっ?」と慌てて声をあげる。
「ぼ、ぼぼ、暴走したって、ど、どうなったの? それで!」
両手をパタパタと激しく動かしそう言う冬華に、扉が開かれ返答される。
「オイラは無事だ。なんとかな……」
部屋に入ってきたのはシオだった。その額に痛々しく包帯が巻かれ、不服そうな表情を浮かべて。眉間にシワを寄せ目を細めるシオに、冬華は安堵し胸を撫で下ろす。
「な、何だ……ぶ、無事なんじゃない。もうっ、驚かさないでよ! ビックリしたじゃない!」
笑みを浮かべ、クリスの左肩を軽く叩く。
しかし、クリスは深刻そうに俯いたまま返答しない。冬華の笑顔が徐々に不安に変り、胸の前で両手を組む。
「え、えっと……その……」
視線が泳ぎ、言葉に詰まる。
小さく吐息を漏らすシオは、右手で頭を掻くと腕を組み答える。
「オイラもちょっと記憶が欠落してんだよ。
暴走した時に、頭に至近距離からブレスをくらって。だから、正直、お前を事をあんまり覚えてないんだ」
困った様子でそう返答するシオが、視線を逸らす。
硬直する冬華。彼の言っている事がイマイチ理解出来ていない。頭がまだモウロウとしているから、きっと何かの聞き違いだろう。そう思い込み口元に笑みを浮かべる。
「は、ハハ……ハハハ……も、もう。また、そんな変な冗談――」
「冬華。冗談じゃなく、本当に彼は記憶を失っています」
「で、でも! さっき、無事だって……」
うろたえ、声が大きくなる。その目に僅かに浮かぶ涙。これ以上、何かを失うのは嫌だった。セルフィーユが居なくなり、今度はシオが――。胸が締め付けられそうな程苦しく、目頭は熱くなる。
冬華の眼差しにクリスの目も滲む。彼女の気持ちが痛いほど伝ってくる。だからこそ、言うべきか迷った。彼女を悲しませる結果になる事は分かっていたから。それでも伝えたのは、何れ分かる事だったからだ。それなら、早いうちに教えておく方がいいだろうと判断した。
「じゃあ。悪いな。英雄さん。オイラはこれ以上、人間に関わる理由も無いんでな」
シオは軽く右手を上げ、部屋を出て行った。その背中を見据え、冬華は唇を噛み締め俯く。シーツを両手で握り締める彼女の姿に、クリスも俯く。眉間にシワを寄せ奥歯を噛み締める。
どうにかすると言っておいて、結局この有様。自分を情け無く思う。
静まり返る部屋の中、ドアをノックする音が響き、静かに扉が開く。
「失礼します」
聞き覚えの無い穏やかな綺麗な声が響く。視線を上げると、そこに一人の女性が立っていた。腰に二つの剣をぶら下げ、淡い蒼い髪を揺らす女性。その耳の付け根からは十センチ程の角が生えていた。彼女が龍魔族にして、このガルド島の領主であるエルド。
彼女が、暴走するシオを止めた張本人。そして、シオの記憶を奪った。
動きやすそうな軽装に身を包んだ彼女は、赤い瞳を冬華へと向ける。
「目を覚ました様ですね。傷は、どうですか?」
ニコッと笑みを浮かべ尋ねる彼女の姿に、冬華は訝しげな表情を浮かべる。誰なのか全く分かっていなかった。
表情からその事を読み取ったのか、エルドは穏やかに笑みを浮かべる。
「私は、この地の領主。エルド。龍魔族です」
「え、エルド……さん。わ、私は、白雪冬華です」
慌てて頭を下げる冬華に、彼女は苦笑。
「冬華さんですね。そんなに頭を下げなくても大丈夫ですよ。
それより、どうして皆さんはコチラへ? 魔族の島にはあまり人間は来たがらないんですけど」
困り顔のエルドに、顔を上げた冬華はクリスへと目を向ける。小さく頷いたクリスは冬華に代わり答えた。
「私達は、この世界、この大陸についての研究をしています。あと、英雄がどの様に召喚され、どうなったのか、など」
要所要所重要な箇所は省きそう説明する。一応、研究をしているのは確かだ。どうすれば、冬華を元の世界に戻せるのかと、言う研究。それには、過去に来た英雄の事を調べるのが手っ取り早いと考えたのだ。そのついでにこの世界、大陸の事も調べようと言う事になっていた。
嘘は吐いていないが、冬華は何処か罪悪感を感じる。自分が呼び出された英雄。魔族の敵であると言う事があった為だ。引きつった笑みを浮かべる冬華に、僅かな疑問を抱きながらエルドは小さく頷く。
「そうですか。ですが、この島にその様な資料はございません。
それに……。見ての通り、今、この島では原因不明の病が広がっております。あなた方にもすぐに出て行く事をお勧めします」
「げ、原因不明の病って……も、もしかして……」
冬華が身を乗り出し声があげる。思い出していた。港で見たあの緑色の肌をした魔族を。
その声に小さく頷くエルドは渋い表情を浮かべる。
「あなた方もご覧になったでしょ。あの緑色に変色した者達を」
「えぇ。ですが、何故、あの様な……」
訝しげな表情のクリスの質問。その質問にエルドは目を細める。
「私は、八会団へと赴いていた為、詳しくは分かりません。ただ、先日、降ったそうです」
「降った?」
冬華が小首を傾げると、エルドは小さく頷く。
「はい。街に――いえ、この島全体に降り注いだそうです。緑色の雨が」
「緑色の雨……」
クリスは訝しげに眉間にシワを寄せる。その様な雨など過去に聞いた事が無い。過去の資料にもその様な雨が降ったなどと言う記載を見た事は無い。
前例の無い事にエルドも険しい表情だった。
「とにかく、今、この島はその雨を浴び病にかかった者達が徘徊しています。すぐに出て行った方がいいですよ」
彼女はそう言うと深く頭を下げ部屋を後にする。
部屋へと残された冬華とクリス。冬華は苦笑し、クリスは腕を組み渋い表情を浮かべていた。
「ど、どうしようか? 出て行った方がいいって」
「と、言われても、船がありませんから……。暫くはここに滞在するしかないかと」
「だよね」
苦笑し頷く。現在、この島の港に船は無い。ゆえに、ああ言われてもこの島を出る手段が無いのだ。
静かな時が流れ、冬華の口から吐息が漏れた。