第88話 獣化
呆然と立ち尽くす。
目の前の光景に言葉を失っていた。
降り注いだ紅蓮の炎。
打ち砕かれた地面。
波紋の様に炎は広がる。
黒煙と白煙が混ざり合う。
漂うその煙の中、陥没した地面の端にうつ伏せに倒れる一つの人影。薄らと輝くその体に、クリスはそれが冬華だと理解する。
光鱗が体を守っていた。それでも、冬華の受けたダメージは深刻だった。衣服はボロボロに焼け、肌を大きく露出。皮膚も酷い火傷を負っていた。
光鱗は、自動で行われる自己防衛の術だが、全てを防ぐわけではない。斬撃が銃撃などから体を守る。と、言っても体に傷を付けないと言うだけで、衝撃だけは防げない。ケルベロスと戦った時も、拳は受け止め、体に外傷はなかった。だが、その衝撃では防ぎきれず、弾かれダメージを追う事になった。
彼女の肉体自体が強化されるわけじゃない。故に、幾ら守っても、衝撃で彼女の体はダメージを受ける。そして、最悪な事に、今回は衝撃を逃がす事が出来なかった。地面が壁となり、彼女の体を支えた為に。
全く動く気配が無い。意識を失っているのか、それとも――。
胸の奥で激しく脈打つ鼓動。それを、握り締めるかの様に左手で胸元を掴む。唇が震え、膝が落ち、視界がぼやける。力の入らない膝を引き摺り、冬華の元へと近付く。
三人の龍魔族のブレスを受けていたシオが、激しく舞う土煙の中から飛び出す。鮮血を弾けさせて。二度、三度と地面へバウンド。そして、仰向けに倒れたまま動かない。服は裂け、皮膚は傷付き、血が溢れ出す。赤く染まる金色の髪。僅かに上下する胸。弱々しいがまだ呼吸はあった。両腕で顔が守ったが、それでも体中傷だらけ。右脇腹は深く抉れ、血が溢れる。
「がはっ!」
大きく吐血。血が舞い散る。僅かに開くシオの目。意識はもうろうとしているが、それでもゆっくりと顔を動かし、皆の姿を捜す。
数十秒程の静かな時間が過ぎ、シオの目がそれを見つける。薄らと輝くうつ伏せに倒れる冬華の姿を。もうろうとしていた意識が、ハッキリとする。瞳孔が大きく開き、その眉間へと、鼻筋へと深くシワが寄った。
「と、とぉぉぉかぁぁぁぁっ!」
怒号が轟く。大気を震わせ、大地を揺るがすシオの声。これが、先程まで弱々しく息をしていた者なのかと、思わせる程の咆哮。
張り詰める空気に、クリスは寒気を感じる。僅かな恐怖。殺気。息が詰まり、呼吸が苦しい。それ程重い空気、重圧を感じていた。
何が起こっているのか分からず、クリスは咆哮を轟かすシオへと顔を向ける。
咆哮がおさまり、シオが上半身を静かに起こした。痛々しい傷だらけの体。傷口から溢れ出す血。口から滴れる赤い唾液。握られた拳が震え、赤い瞳が目の前にいる魔族達へと向く。
威圧的な眼差しに、七人の魔族は思わず後退る。恐怖を感じていた。シオのその風貌に。
シオは静かに立ち上がる。受けたダメージなど感じさせぬ動き。その動きに寒気を感じる。
「うぐぅぅぅぅっ!」
喉を鳴らすシオ。逆立つ髪。口元から薄らと見える牙。そして、その手の爪が鋭く突き出す。その異変に、クリスは気付く。
(獣化か……)
獣化。それは、獣魔族でも一部の者しか出来ない肉体強化。極限まで身体能力を高め、野獣と化す力。
獣王の息子であるシオにはその素質があった。だが、素質があるからと言って誰も獣化出来るわけではない。強い覚悟と資格が必要なのだ。
強い覚悟。それは、自らの命を賭ける覚悟。そして、その資格とは――それは、誰かを強く想う心。冬華の姿にシオは覚悟を決め、強く想う。
解放された獣の力。金色の髪が艶やかに輝き、口が裂け鋭利な牙がむき出しとなる。鋭い右手の爪を地面へと突き立て、威嚇する様に喉を鳴らす。
そんなシオへと龍魔族の三人が息を吸う。ブレスが来る。そう判断すると同時にシオが地を蹴った。今までの速度とは比にならない。一瞬にして三人との間合いを詰める。そして、横並びに立つ三人の龍魔族の右側の男へと右拳が減り込む。
拳を受け大きく体が浮き上がる。足が地上から離れ、吸い込んでいた息が血と共に吐き出された。腕が引かれ、その体は地上へと落ちる。膝を着き上体を前のめりにする男。シオはその男の頭を両手で掴み、その顔へと右膝を突き出す。
鈍い衝撃音に混じり、骨の砕ける痛々しい音が響く。鼻血を噴き後方へと崩れる男。それを見送り、彼の左拳がその隣りに居た龍魔族の顔を殴りつけた。打撃音が響き、大きく跳ね上がる顔。続けざまに右拳が脇腹へと減り込む。肋骨が軋み、砕ける。
「ぐがっ!」
唾液と共に血を吐き、二人の龍魔族がその場に崩れ落ちる。
そして、最後の龍魔族。その男に対し、シオは左足を踏み込み、左手の爪をその腹へと突き立てる。鮮血が舞い、背中から突き出す鋭い爪。血が滴れ、龍魔族の口からは吸い込んだ空気と共に血が吐き出された。
これで、龍魔族は全滅。
ゆっくりと体を四人の魔人族へと向ける。吐き出される熱気を帯びた吐息。そして、鼻筋にシワを寄せ、飛び出す。魔人族へと向かって。
魔力を練ろうとする魔人族。だが、そんな彼らへとシオの拳は振りぬかれる。魔力を練る時間すら与えず、拳を叩き込む。
一人目の魔人族。彼の顔面へと右拳を叩き込み、後方によろめいた所で髪を掴む。意識はすでに無い。だが、そんな彼の顔面を更に地面へと叩きつけた。乾いた音が響き、砕石が舞う。体を僅かに痙攣させる魔人族から手を離し、次の魔人族へと目を向ける。
すでに魔力を練り終わった一人の魔人族。彼はその手を掲げる。
「ダイタルウェー……ぐふっ!」
だが、魔術を出す前に、その腹が裂け血を吹く。振り抜かれたシオの右手。その爪には鮮血と布キレが付着。二人目の魔人族も、魔術を使う暇無くその場に崩れ落ちる。
地面には血が広がり、左足が倒れる魔人族の頭を踏み締める。怒りにより発動した獣化により、シオは完全に自我を失っていた。完全なる暴走状態。それでも、獣化の力は圧倒的だった。
次なる獲物を見据え、跳躍。地を蹴る力で地面は砕け散る。
跳躍したシオへと、三人目の魔人族が両手を空へとかざす。
「ウィングカッター!」
かざした両手が激しく振り下ろされ、疾風が駆ける。鋭利な風の刃が無数、跳躍するシオへと襲い掛かった。だが、その風の刃をシオは両手の爪で切り裂く。風の刃が砕け、緩やかな風がシオの頬を撫で、髪を揺らす。僅かに頬が裂け鮮血が迸る。
落ちる勢いをそのままにシオの鋭い爪が三人目の魔人族を切り裂く。鮮血を噴かせ後方へと倒れる。
残るは黒髪の魔人族。その男を見据え、シオは静かに右足を踏み出す。その足の爪が地面へと突き刺さり、足へと力が篭る。
破裂音と共に土が抉れた。シオが地を蹴ったのだ。低い姿勢から左足を踏み込む。そして、彼の顔に向かって右足が振り抜かれる。
鈍い打撃音。大きく弾かれる魔人族の男。腕で蹴りを防いだが、その威力に腕は弾かれ体は仰け反る。
「ぐっ!」
僅かな声が漏れる。そんな魔人族へと追い討ちをかける様に、シオは振りぬいた右足で踏み込む。大きく振りかぶる左手。その爪が鋭く煌く。全体重が右足へと乗り、放たれる。鋭い爪が、魔人族の胸へと向かって。鮮血が放射線状に散り、腕が突き抜ける。その背中へと。
吐血。そして、魔人族の男は力なく倒れた。
静かにその男から腕を抜いたシオは獣の様に雄たけびを上げる。それが、その島一帯へと広がった。
雄たけびが消え、シオの肩が大きく揺れる。吐き出させる吐息。ゆっくりとその顔がクリスへと向けられる。殺気を感じ、クリスは震える膝に力を込め立ち上がった。
嫌な予感。それを感じ、剣を構える。それと同時にシオが地を蹴った。爆音が轟き、激しく舞う土煙。そして、クリスへとその拳が振り抜かれる。
重々しい打撃音。剣が大きく弾かれる。回転し宙を舞う剣が、遥か後方で地面に突き刺さった。
大きく仰け反るクリス。その表情は歪む。弾かれた右腕が大きく伸び、肩に激痛が走る。眉間にシワが寄り、その目がシオへと向く。二人の視線が交錯。左拳を大きく振りかぶるシオの姿に、クリスは更にその手に二本の剣を召喚する。
大きく弾かれた右腕では間に合わないと、左手の剣を体の前へと出す。同時に、シオの腰が回転。唸りを上げ左拳が振り下ろされる。澄んだ金属音が響き、刃が飛ぶ。微量の鉄片を舞い上がらせて。砕けた刃が宙を舞う。クリスの手に握られた根元から砕けた剣。
双剣――片手で使用する為、軽量化された剣。故に、強度は薄い。元々、攻撃を受ける為の剣では無く、怒涛の波状攻撃をする為の剣。攻撃に特化した武器故に、防御には不向き。
「クッ!」
表情を歪める。次、振り抜かれたら終わりだと。そんな彼女にシオの口が大きく裂け、開かれる。鋭利な牙。それが、彼女へと襲い掛かった。