第84話 シオ対水蓮
潮風香る海の上。冬華達は帆船に揺られる。
波は穏やか。風も緩やか。静かに帆船は進む。
目的はクレリンスの別の島。次の島は龍魔族エルドが治めるガルド島。そこは、龍魔族が多く存在する島。魔族が治める島では最も友好的で、人間との関係も良い。その為、冬華達はガルド島を目指したのだ。魔族側が治める土地の資料を見たいという理由で。
ゆっくりと進む船。その甲板でシオは一人精神統一をしていた。道場で教わった精神統一を。全身を包む精神力。揺るがない薄い光の膜。すでに左膝の痛みすら感じない。それ程、シオは集中していた。
静かに息が吐き出される。鼻から、ゆっくりと。閉じられていた瞼が開く。赤い瞳が鋭く正面を見据える。佇むのは水蓮。腰にぶら下げた刀。その柄を握る。見守るのは冬華とクリス。そして、その他大勢の乗客。
ざわめく人々。何が起こるのか、何をしようとしているのか。そんな声を耳に、二人はゆっくりと腰を落とす。すり足で右足を半歩出す水蓮。遅れて、シオも左足を踏み出す。僅かな衝撃。だが、左膝は痛まない。十分動ける。そう判断する。
小柄な体。なびく逆立つ黒髪。純粋な黒い瞳。それが、真っ直ぐにシオを見据える。
両者の視線が交錯。ギャラリーが皆、息を呑む。
静寂。緊迫し重苦しい空気。渦巻く両者の闘気。それが混ざり合う。
空を舞う海鳥。その一羽が声をあげる。開戦の合図。二人が同時に床を蹴る。衝撃が広がり、シオは加速。金色の髪がその風で逆立ち、水蓮へと迫る。だが、水蓮もすぐに瞬功を使用し、彼へと間合いを詰めた。
二人の間合いが詰まるまで一瞬。そして、衝撃が船を揺らす。大きな揺れに船体が傾く。周囲を囲うギャラリーはその揺れに悲鳴を上げる。
激しく舞う水飛沫。その中でぶつかり合った二人が距離をとった。海は大きく波立ち、ゆっくりと船体は揺れを留める。
拳を握るシオ。その頬から伝う鮮血。一方で、水蓮も口角から血を流す。互いに一撃ずつ貰っていた。
「驚いたな……。人間があんなに動きをするなんて……」
頬を伝う血を右手の甲で拭う。初めて目にする瞬功に驚いていた。
通常、シオは相手の初速で全ての動きを判断する。最も地を蹴る力が強いその瞬間が最高速度だと思っているからだ。だが、彼は違う。動き出し、二歩、三歩と進んだ後の加速。しかも、何の脈絡もなく。そんな事、獣魔族でも無理だ。獣魔族でも、加速する前には必ず何かしらのアクションがある。シオの場合は膝に力が入る。床を蹴りだす足に力を込める為に。
そんな変則的な加速からの居合い。シオはそれを右へとかわし、その腹へと左拳を叩き込んだ。完全にかわしたと思っていた。しかし、その刃は掠めていた。シオの左頬を。
瞬功を使ったとは言え、刃の切れ味は変らない。恐ろしく鋭利。力が落ちていても、この刃で切られたらひとたまりも無い。
一方、水蓮も静かに左腕で血を拭う。体が震えていた。腹部に残る重い痛み。シオの左拳を叩き込まれた所だった。利き腕じゃない左手。その一撃ですでに膝が震えていた。
(何て重い一撃……)
恐怖。一発でそれに呑まれた。初めて獣魔族と対峙する。これが、手合わせだと言う事すら頭から飛び、意識を集中。そして、僅かに足を屈める。震える膝に力を込め、刀を下段に構えた。
両者の交錯する瞳。やがて、シオが飛び出す。丁度、瞬功の効果を解除した後だった為、水蓮の動きは遅れる。だが、すぐに次の行動へと移る。一発貰う覚悟。故に、体を薄い精神力がまとう。堅固を使用したのだ。強化された肉体。重い足。床を確りと掴む様に力を込める。
水蓮の右側面へと、シオの左足が大きく踏み込む。
「――ッ!」
驚く。目の前に迫る右拳に。大きく捻られた上半身。限界まで引かれた右肩。そこに沿う様に折りたたまれた右腕と握られた拳。
直感する。これは、貰ってはいけない一撃だと。だが、水蓮にはかわせない。理由は簡単。彼が行った堅固。それにより、彼の体は重く、動きは鈍っていた。解除しようにも、発動から一分間はその効果を解除する事は不能。よって、今の水蓮ではかわない。完全に裏目にでた。堅固を使用した事が。
「うらああああっ!」
雄たけび。それと同時に、踏み込んだ左足へと全体重を乗せた。腰が回転し、左肩がそれにより引かれる。遅れて、連動する様に右肩が自然と前へと出る。そして、腕を折りたたんだまま、拳が水蓮の額へと振り下ろされる。
鈍く重い打撃音。完全に振り切られた右拳。床へと叩きつけられる水蓮。その額からは鮮血が迸る。木で出来た甲板が軋み。やがて、甲高い音を起て割れ、水蓮の体が消える。大きく両足を振り上げたまま、割れた床の中へと。
「水蓮!」
慌てて冬華が駆け寄る。静かに息を吐くシオ。その目の前を通過し、足元に開いた穴を覗き込む。
「だ、大丈夫! 水蓮!」
下の階は、丁度無人の客室。そのベッドの上に水蓮の姿は見えた。僅かに舞う埃に包まれて。
「わりぃ」
両手を合わせ、シオは頭を下げる。
「いえ。だい……じょうぶですよ」
苦笑する水蓮。その頭には痛々しく包帯が巻かれていた。出血は酷かったが、骨に異常はない。軽い脳震盪を起こしただけ。これも、堅固のおかげだろう。もし使用していなければ、間違いなく頭蓋骨が砕けていた。そう考え、水蓮の表情は自然と歪む。寒気がする。獣魔族が皆こんな化物なのかと考えると。
白銀の髪を揺らすクリス。彼女は腕を組み呆れた表情をシオへと向ける。
「幾ら状態を確かめる為とは言え、初っ端から全開で行く奴が居るか」
「し、仕方ないだろ? 相手も本気だし、オイラだって本気で行かないと悪いだろ?」
「そうは言っても、やり過ぎよ。水蓮じゃなきゃ死んでたから」
ビシッと冬華はシオの顔を指差す。眉間にシワを寄せるシオは、自分へと突き付けられる冬華の手を左手で払う。
「人を指差すな」
「イタッ! な、何するのよ!」
「人を指差すからだ」
ムッと冬華は頬を膨らす。その顔にジト目を向け、「何だよ?」とシオは呟いた。その声に冬華はソッポを向く。
二つベッドが並ぶ小さな部屋。格安で何とか一室押さえるのがやっとだった為、この部屋を四人で使っている。ベッドは冬華とクリスが、床にシオと水蓮が寝る事になっていた。
先程、甲板で行われていたシオと水蓮の一騎打ち。あれは、シオが左膝の状態を確認したい、そう言い出した事が始まりだった。もちろん、最初はクリスが相手をしようとした。だが、水蓮が「私が相手をします!」と強い申し出。この瞬間に冬華は悟る。きっとクリスに良い所を見せたいのだと。
結果的には無様な姿を見せる事となったのだが……。
その影響か水蓮は少しだけ元気が無かった。肩を落とし何度目かのため息。そして、視線は静かに床へと向く。相当、応えていた。
落ち込む水蓮に、冬華は苦笑する。しかし、シオは気にした様子も無く立ち上がり声を張る。
「んじゃ、今度はクリス。相手してくれよ」
満面の笑み。その笑みに対し、クリスは即答する。
「断る」
と。その言葉に驚愕するシオ。まさか、断るとは思わなかった。いつも冬華と手合わせしている為、断るわけが無いと思っていたのだ。
シオが訝しげな表情を浮かべる。呆れた様に右手で頭を抱えるクリスは、ジト目を向ける。
「お前が甲板に穴を開けた所為で、船員に目をつけられたんだ。二度と出来るか」
「んだよ! 関係ないだろ?」
不満げにそう口にすると、クリスが睨む。その凛とした表情で。流石のシオもその目に息を呑む。目を細め、ぎこちなく背を向け、
「さ、さーて。精神統一でもしよっかな」
と、部屋の隅へと移動する。
クリスは腕を組み、小さく吐息を漏らした。もう少し自覚を持って欲しいと思う。自分が獣魔族で、人間達の間では恐れられている存在なのだと言う事を。能天気過ぎる為、時々クリスも忘れてしまうが、間違いなく恐れられている。
その証拠に、先程の水蓮との手合わせ。周囲に皆は自然と水蓮を応援していた。それは、魔族であるシオを倒して欲しいと言う気持ちの現われだろう。シオは気にしていない様だった。だが、クリスはその殺意の篭った視線に気付いていた。皆、無意識に行っていたのだろうが、それがクリスは恐ろしかった。
静かに流れる時。その中で精神統一をするシオ。冬華はベッドに座り考える。
「どうかしましたか?」
隣り合ったベッドに腰掛けるクリスが不安そうに尋ねる。
「あっ、ううん。なんでもないよ」
苦笑し返答すると、
「そうですか?」
と、クリスは静かに返す。その瞳は明らかに不安だと言っている。しかし、言葉にはしない。そのクリスの優しさに、冬華はただただ笑みを浮かべる。
考えていた。あの事件。その場に居た、あの和服の男。他の人とは明らかに違う空気。初めてこの世界に来た時は、まだ感覚が良く分からなかった。だが、クリスと鍛錬をし力がついたからこそ気付く。その男が放つ殺意と強い力。それは、未熟な冬華ですら分かる恐ろしい程のモノだった。
一体、何故この大陸に彼が居るのか。あの事件と何の関係があるのか。そして、この事を皆に話すべきなのかを、考えていた。