第83話 クリスと水蓮
事件があったとされる場所を確かめた三人はまた別々の行動を取る。
借りた本を返却する為にクリスは一旦宿に戻り、冬華とシオはいつもの様に道場へと向かった。
道場に着くと、すぐに水蓮が出迎える。もう朝の日課になっていた。冬華と水蓮の手合わせ。そして、シオの精神統一。
軽い準備運動の後、冬華は木で作られた槍を。水蓮は木刀を手にする。その脇でシオは腰を僅かに落とし、意識を集中していた。全身から溢れる薄い光の膜。それが、シオを覆う。やがて、それらは左膝へと集まり、シオの足の震えが止まる。痛みが静かに引いていく。左膝にかかる重圧。それを精神力を集中する事で軽減させているのだ。
静かに吐き出される息。握った拳は腰へと構えられ、ゆっくりと静止する。
動きを止めたシオに代わり、唐突に動き出す二人。ほぼ同時に地を蹴る。瞬功を使い水蓮は加速。冬華の視界から消える。もちろん、実際に消えるわけじゃない。死角に入り込まれただけ。視線を動かす。そして、見つける。――右方向。視界の端に、水蓮の姿を。
踏み込んだ右足を捻る。足先を水蓮の方へと向け、強引に体を捻る。
右膝が軋む。圧し掛かる重圧と、強引に捻られた事により。それでも、奥歯を噛み締め痛みに耐えた。円を描く様に左足が地面を滑る。激しく舞う土煙。突っ込む勢いを殺し、冬華の体は水蓮を正面に捉えた。
二人の視線がぶつかる。どうだ、と言わんばかりの冬華の眼差し。驚きながらも嬉しそうな水蓮の瞳。そして、その手にした槍を振るう。
力任せななぎ払い。それが、水蓮の左脇腹へと減り込む。進行方向から飛んできた為、自分の走る速度と、振りぬかれる勢いで威力は倍増。体は大きくくの字に曲がる。
「ぐっ!」
思わず漏れる声。だが、すぐに堅固を使用。体を硬化する。重々しく鈍い手応え。それを感じ、冬華は更に力を込め腰を回す。
しなり軋む槍。それが、完全に振り切られ、水蓮の体が弾き飛ぶ。両足が地面から離れ、宙へと舞う。石切の様に地面を弾む。鈍い衝撃音が何度も響き、土煙がその度に広がる。やがて、水蓮の体は地面を滑る。
舞い上がる土煙。抉れた土。その先に仰向けに横たわる水蓮。堅固により、ダメージは少ない。それでも、体を襲った衝撃は相当のモノで、表情は自然と引きつる。
堅固の影響か動きが鈍い。左手を膝に置き、ゆっくり体を起こす。
――刹那。その視界に飛び込む。冬華の姿。鋭い眼光が閃く。
すでに踏み込まれた左足。膝が曲がり、体重がかかる。前傾姿勢に入り、引かれた槍が放たれる。閃光が駆ける。大気を貫く鋭い一撃。それが、水蓮の喉元で寸止めされた。衝撃だけが広がり、水蓮の黒髪が激しくたなびく。
決着。まず、冬華が一本先取した。
「お見事……」
深く息を吐き、肩を落とす。その目が緩み、口元に笑みが浮かぶ。
喉元へと向けられた槍が下され、冬華は天を仰ぎ息を吐く。自然とその肩から力が抜けた。
水蓮へと視線を戻す。その顔には嬉しそうな笑みが浮かぶ。左手は胸元で小さく拳を握り締めていた。先手を取った事が余程嬉しかったのだ。
向かい合う二人。暫しの休憩。冬華は呼吸を整え、水蓮は衣服に付いた土煙を払う。呼吸の乱れ一つ見せない水蓮に、冬華はただただ関心する。肉体強化の術と言うのはここまで優れているのかと。
その後、二戦、三戦と続く。
二戦目は激しく打ち合う。瞬功を使い手数で押す水蓮に、初めは戸惑った。だが、それでも軽い攻撃では冬華を止められず、二勝目を献上。
三戦目は逆に剛力での力押し。重々しい一撃一撃に終始圧倒され、完敗。最後までその激しい攻撃を攻略する事が出来なかった。
すでに二時間以上も続く手合わせ。冬華の呼吸も大分上がっていた。二戦目、三戦目で大幅に体力を消耗した為だ。膝が震え、何とか立っているのやっと。大きく天を仰ぎ、小さな胸が上下する。
「大丈夫ですか?」
相変わらず呼吸一つ乱さない水蓮の心配そうな声。その声に冬華は左手を軽く上げ、小さく何度も頷いた。大丈夫だと言う様に。
ここからは水蓮の独壇場。四戦目、瞬功で揺さぶられ、剛力での一撃に沈む。五戦目、会心の一撃を見舞うが、それを堅固で防がれカウンター。六戦目――。
正午を過ぎ――。冬華は天を見上げ、地面に横たわっていた。大きく開いた口で荒い呼吸を繰り返し。右手から転がり落ちた槍が地面を転がる。胸を激しく上下する冬華。汗で衣服は体に密着し気持ち悪い。今日も惨敗。やはり、二勝が限界。悔しいが肉体強化は凄い術だった。これ程、消耗している冬華に対し、水蓮は僅かに息を乱すだけ。涼やかな表情で冬華を見据えていた。
「お疲れ様です」
「お、お、おつ、お疲れ……」
弱々しく右腕を上げ返答する。流石に元気は無かった。体を起き上がらせる体力すら残っていない。その為、空を見上げる。晴天だった。雲一つ無い位に。その空を見つめる冬華の心も晴れやかだった。惨敗したが、それでも気分は良い。自分の限界を知る事が出来て。これからの課題も見えた。そして、精神力の必要性も。
瞼を閉じ笑みを浮かべる冬華に、水蓮も笑みを浮かべる。これ程まで本気で打ち合うのは久しぶりだった。瞬功・堅固・剛力。この三つの術を使う感覚も久しぶりに味わう。瞬功のスピードは爽快。堅固の守りは痛快。剛力のパワーは豪快。やはり、何処か気持ちのいいものだった。
静かに流れる時の中。一つの足音が聞こえる。その足音に冬華は横になったまま顔を向け、水蓮もゆっくりと顔だけを門の方に向けた。
「ここで……あってるのか?」
透き通る様な綺麗な声。遅れて、水蓮の目に飛び込む。美しい銀髪を揺らす凛とした女性。その瞬間、水蓮の胸を打ち抜く激しい衝動。思わずよろめき、右手で胸倉を押さえる。何故、そんな風な現象に襲われたのか分からず困惑する。
「あぁーっ……。くーりすーっ。こっちー」
弱々しく右腕を上げ手を振る。横たわる冬華にクリスは気付く。門を何度も確認するクリスは、怪訝そうに眉間にシワを寄せ冬華へと歩み寄った。
「どうしたんですか? 冬華。そんな所に寝そべって」
「あうぅーっ……今日も惨敗だよぉー」
冬華は弱々しく手を振り答える。苦笑するクリス。彼女は「そうですか……」と静かに述べ周囲を見回す。古びた感じの道場。クリスが予想していたモノとは違っていた。もう少し立派で、もう少し多く門下生が居ると思っていた。
訝しげに道場を見回す。その時、挙動不審な水蓮へと目が向く。冬華よりも小柄な少年。黒髪を揺らし、俯きかげんにクリスを見据える。彼の視線に眉をひそめた。明らかに冬華よりも年下に見える彼の容姿。その姿にクリスは優しく微笑む。
「すまないが、ここの師範はどちらに?」
「あ、あ、あのっ……そ、そのぅ……」
頬は紅潮し、目が泳ぐ。シドロモドロの水蓮の姿に、冬華は静かに体を起こす。妙な違和感。そして、ピーンと頭が閃く。水蓮の妙な態度、泳ぐ視線で。
ニヤニヤと冬華は笑みを浮かべる。クリスの体越しに二人の視線が交錯し、慌てて水蓮は視線を外す。冬華は確信する。水蓮が恋をしたと。しかも、相手はクリスだと。
俯き押し黙る水蓮に、クリスは首を傾げる。何か悪い事でもしただろうか、と自分の行動を思い返す。だが、思い当たるのは微笑んだ事だけ。そして、結論を出す。この子は私の笑みを見ておびえているのだと、言う見当違いの答えを。
突然、クリスの肩が落ち、不のオーラが背中から溢れる。
「ぬおっ!」
と、冬華は声を上げ、身を仰け反らせる。
(な、何故にクリスが落ち込む!)
あまりの驚きに心の中で突っ込む。落ち込む理由が分からない。一瞬、慌てる。だが、クリスが振り向いた為、すぐに平静を装う。
「ど、どうしたの? クリス」
「す、すいません……冬華。私の笑顔はそんなに怖いですか?」
「へっ?」
突然の事に間の抜けた声が返る。まさか、そんな言葉が来るとは予想していなかった。それに、何故そう思ったのかも冬華は分からない。ただ、それが理由で落ち込んでいるのだと言う事だけは分かった。
相当、ショックを受けているのか、クリスの足元はおぼつかない。よろめき、冬華の肩を両手が掴む。
「そんなに……怖いですか? 私の笑顔……子供がおびえる位……」
クリスのその発言で、冬華はハッとする。そして、その体越しに水蓮を見据えた。確かに、今の水蓮の挙動はおびえている様にも見える。いや、クリスの身長だと確実にそう見える。何故なら、彼が俯くとその頭しか見えないからだ。おまけに胸の前で手を弄っていれば、そう思われても仕方ない。
しかし、座った状態からその顔を見れば一目瞭然。彼はただの恋する少年にしか見えない。見る角度によって捉え方がこうも変るのかと、冬華は一人小さく頷いた。
「まぁ、気にしちゃダメよ。クリス」
「で、ですが……」
「大丈夫! もっと自分に自信を持って!」
必死にクリスを励ます。胸の前で握り締められた両拳。そして、ニコヤカな暖かな笑み。冬華の言葉とその笑みがクリスの心を癒す。
「ありがとうございます。少し、気持ちが楽になりました」
「うんうん。そうでしょ! そうでしょ!」
クリスが笑みを見せ、冬華もニヤニヤと笑みを浮かべる。クリスの後ろに居る水蓮に対して。その笑みに水蓮の表情は引きつる。嫌な予感。それに、体を震わせた。それと同時に、冬華がクリスと水蓮の間へと移動する。
「こちらが、この道場の師範のお孫さん。水蓮」
水蓮の方へと右手を出す。彼の方へと体を向けたクリスは、軽く会釈する。
「どうも。初めまして」
「い、い、いえっ! わ、私のほ、方ぅこ、こそ、は、初めましてぇ!」
所々で声が裏返る。そんな彼は背筋を伸ばし直立不動で固まる。あまりの緊張っぷりに冬華は思わず噴出しそうになった。
右手で口を覆い、顔を背ける。肩が小刻みに震え「くっ、くくっ……」と冬華の声が漏れる。
意味不明の行動を取る冬華に、クリスは小首を傾げた。何かを疑う様な眼差しに、冬華は軽く咳払いする。
「んんっ! で、こっちがクリス」
左手をクリスへと出す。すると、直立不動だった水蓮の体が腰から勢い良く折れ曲がる。
「よ、よろしくお願いします!」
「は、はぁ……。よ、よろしく……」
衝撃的だったのだろう。流石のクリスも戸惑い、一瞬冬華へ顔を向けた。助けを求める様に。だが、冬華はただ微笑む。戸惑うクリスとガチガチに緊張する水蓮を、ただ微笑ましく見守り続けた。