第81話 最悪の魔王
冬華とシオが寝息を起てる中、クリスは一人読書に励んでいた。
今日、ギルドで借りた本を読んでいたのだ。この大陸についての本を――。
この王国へと魔王グリビスの娘が嫁いで五年。
世界は平和。平和過ぎた。
魔王グリビスの二人の息子。彼らも彼女が人間の所へと嫁いだ為、人間達と平和交渉を結んだからだ。それにより、人間と魔族の間にあった溝は無くなり、皆が手を取り合って生きていく。
だが、その平和は長く続かない。それを、良く思わない者達がいた。人間側にも、魔族側にも。
そんな時だった。彼女が子供を授かったのは。国王との間に出来た子供。国民達は歓喜の声をあげる。だが、城内でそれを喜ぶ者は少なかった。今まで戦ってきた魔族との子供なのだ。素直に喜べと言う方が無理だった。
城内を包む異様な殺気立った空気。その中で、彼女は赤子を産んだ。一人の男の子を。
赤い瞳。尖った耳。まさしく魔族。その赤子を見た誰もがそう思った。夫である国王ですら、そう思う。それが、全ての始まりだった。
その男の子は――(名前は黒く消されている)と名付けられ、数年の月日が流れる。
――が、五歳になる頃。あれ程喜んでいた国民達も、彼の存在を疎ましく思い始めていた。
何故、魔族なんだ。どうしてそんな姿なんだ、と。
それでも、彼は笑顔を絶やさない。母が愛したこの国を、この国の人達を愛する為に。
この時、彼女は病魔に蝕まれていた。聖力を使っても直せない謎の病魔に。その為、彼は母に会う事が出来ず、ただ一人で町で遊んでいた。そんな時、彼は耳にする。兵士達が話す声を。
「もうすぐ、彼女は死ぬ。あの疎ましい魔族のガキともこれで……」
その時、兵士の一人がそんな事を口にした。彼は驚愕し、やがて、一人で泣いた。城の屋根裏で一人、何日も。悲しかった。母が死ぬと言う事が。彼らが自分に何をしようとしているのか、何を企んでいるのかなどよりも、母が死ぬ事が。
ショックを受ける中、彼女は息絶えた。だが、それは病死ではなく、誰かによって殺されたのだ。
純白のベッドに広がる血。胸へと深く突き刺さった剣。それを、――が目にしたのは、深夜の事だった。ただ、そこに佇む――。
何故、そうなったのか。誰がそうしたのか。彼は震えながら、彼女の胸に刺さった剣を抜いた。大切な母の体にそれが刺さっているのが嫌だった。だが、その時、悲鳴がこだまする。女性の悲鳴が。
その声に兵士達が集まる。そして、彼は汚名を着せられた。実の母を殺したと言う。
彼は囚われた。この城の地下室に。それから、彼の悪夢が始まる。地下室に囚われた彼は、兵士達に日々拷問を受けた。
体に刻まれる傷。部屋に響く高笑い。代わる代わる兵士達は彼をムチで、鉄の棒で叩く。血反吐を吐こうが、それが止む事は無かった。それが罪人である彼に科せられた処遇。
苦しみの中、彼は思う。母は本当に彼らを愛したのか。こんな国の人々を愛したのか。心の中に渦巻く疑念。憎悪。
そして、彼の憎しみが頂点に達した時、全てが消滅した。国が一夜にして消し飛ぶ。人も、建物も、大陸も、消え去る。音をたてず濃い闇に呑まれて。
魔王グリビスはその邪悪な魔力をすぐに感じた。もちろん、彼の二人の息子もそれに気付く。それが、世界の破滅の始まりなのだと。
クレリンス大陸に生まれる。最悪の魔王が。
そんな彼が、最初に行った事。それが――クレリンス大陸を破壊する事。彼の放った漆黒の雷撃。それが、大陸を砕き海へと沈めた。人々は恐怖に慄き、嘆く。何故、あの様な者が生まれたのか。何故、魔族を信じたのかと。
クレリンス大陸の消滅。これにより、停戦していた各地で争いが起こる。魔族はやはり悪だと。野放しにすれば、何れ皆殺しにされる。だから、武器を取れと。
人間と魔族に寄る争いは再開された。激化を辿る中、――はクレリンス大陸からルーガス大陸へと移る。そして、その手で魔王グリビスを殺し、その城を自らの根城にした。
闇が深まり、混沌とする。人間と魔族の争いは泥沼化し、多くの人が死んだ。草木は枯れ、川は枯渇する。陽の光りすらも遮る闇により、この世界全てが崩壊しようとしていた。
パタンと、クリスは本を閉じた。
本はここで終わっていた。この後、どうなったのか、何故、著者はここまでこの大陸で起きた事に詳しいのか。謎だけが残った。著者の名は書かれていない。ただ、それを書いた人はもう居ない事は確かだ。
この本がここで途切れていると言う事は、この先に起こった事を書く事が出来なかった。そう言う事だろう。
掛けていたメガネを机へと置く。そして、右手の人差し指と親指で目頭を強く押す。流石にランプの明かりだけで本を読むのは目が疲れた。
背もたれに背を預け、背筋を伸ばす。骨が軋み、「んんーっ」と言う声が思わず漏れた。
天井を見つめる。この本を読んで過去に何があったのか分かった。多分、この記録は消したい記録。故に、ギルドに保管されていたのだろう。誰の目にも留まらない様に。
本来なら燃やしてしまいたい程の文献。それを保管しているのは過去に犯した罪を忘れない為。
静かに瞼を閉じる。自らの記憶を辿り、思い出す。漆黒の雷撃を。以前、ローグスタウンで見た魔族の少年。彼が一度だけ見せたあの雷撃。それが、文献に書かれたモノと同じではないが、それと似通った力を持つ彼の顔を思い出す。
頭を起こし、静かに息を吐く。ギルドでの仕事で疲れていた為、考えるのが面倒だった。大きく両腕を上げ、背筋を伸ばし息を吐く。クリスはゆっくりと椅子から立ち上がり、ランプの炎へ静かに息を吹き掛けた。炎は揺らめき消える。部屋は真っ暗になり、月明かりだけが窓から差し込む。
クリスは窓へと歩み寄った。月明かりの中、空を見上げる。綺麗な満月。それも、赤い。それが、クリスは不気味に見えた。
この島の領主宅。
今夜、帰還した。八会団より、領主天鎧が。
三十代半ばの雄々しい顔をした男。彼が、天鎧だった。羽織と袴を着た大柄な体格。これで、居合いの達人だと言うのだから不思議だ。
彼はゆっくりと歩みを進め、渋い顔の眉間にシワを寄せる。その手に握られるのはギルドの貸し出し許可書。そこに書かれたクリスと言う名。そして、彼女の借りた著書を見て。
静かにその目を執事である男へと向ける。
「何者だ? この者は?」
「ギルドの受付に聞いた所、数日前にこの島へとやってきた冒険者だと」
「冒険者?」
「はい。聞いた所によると、獣魔族の少年ともう一人少女が一緒だとか」
細い目でそう答える執事に、天鎧は「フムッ」と声を漏らす。許可書を机へと置き、腕を組む。それから、机の上の報告書を手に取る。
天鎧が居ない間に起こった事が書き連なっていた。冬華達が武者と戦った日の事も書かれていた。
「これは、何だ?」
静かな口調で天鎧が問う。表情一つ変えない執事は、コホンと咳払いを一つ。
「先日、深夜に巨大な獣が出たと、噂が流れまして」
「巨大な獣?」
「はい。道に鋭い爪跡が残され、炎が町を駆け、紅桜の木に亀裂が走ったそうです」
「それで、どうして巨大な獣と言う事になっている?」
「爪跡が残されていた為、そう判断しましたが……問題でも?」
「いや……そうか」
怪訝そうな表情の執事に、天鎧は静かに呟いた。ゆっくりと畳の上へと天鎧は胡坐を掻いた。彼を心配そうに見据える執事は、静かに尋ねる。
「旦那様。何かございましたか?」
「あぁ……。今回の八会団も結局まとまらなかった」
「左様で……」
執事の静かな言葉に天鎧は笑う。
この大陸、八つの島の代表が集まる会。人間が五人。魔族が三人。まるで、このゲートの世界を縮小した様な集まり。度々、この会議ある。ただ、十五年前の事が糸を引き、魔族側がこの会議に集まる事は殆どない。それ故、話はまとまらない。
この会議では人間側の提案は必ず魔族側の了承が二つ必要。魔族側も同様に、人間側の了承が三つ必要になる。その為、この会議には双方の出席が必須なのだ。
「今回も魔族側は……」
「ああ。参加したのはエルドだけだ。まぁ、仕方ないだろうな。
十五年前……英雄の申し出を受け、あの戦争に軍を送ったんだ。彼らの疑念は当然だ」
「しかし、アレは、他の島が勝手に……」
執事の男が取り繕う様にそう告げるが、天鎧は頭を振る。
「いいや。止められなかった私に非がある。
彼らは私を信じて、この八会団に参加したと言うのに、私はその信頼を裏切った。
失われた信頼はそう容易く取り戻せるものではない」
遠い目で窓の外を眺める。夜空に浮かぶ赤い満月。不気味なその月を見据え、天鎧は険しい表情を浮かべる。
「嫌な月……だな」
「左様でございますね。あの日を思い出します」
「そう……だな」
妙な間を空け呟く。何か嫌な胸騒ぎを感じながら。
赤い月に照らされ、一人の男がこの地リックバードへと降り立った。
地面を叩く下駄。その乾いた音が夜の町に広がり、静かに溶け込む。和服を纏い、腰にぶら下げる一本の刀。揺れるのは結った長い髪。不気味に輝くその切れ長の鋭い眼光。それが、ゆっくりと開かれた。
暖かな風が吹き、紅桜の花びらが美しく舞う。その中を静かに歩むその男。その顔には不適な笑みが浮かぶ。
「久方振りに帰って来たな……。血桜」
彼が静かに語る。自らの腰に携えた刀へと。柄を握り、鞘を掴んでいた左手の親指で鍔を弾く。僅かに聞こえた金属音。その後訪れる閃光。それが、闇の中に美しく閃き、疾風が駆ける。
彼はいつ抜いたのか、右手に抜き身になった刀を握っていた。静かにその刀を鞘へと納める。
「ふっ……慌てるな血桜。お前を封印したあの男は必ず俺が殺してやる」
彼がそう口にし歩き出す。すると、目の前で花びらを散らしていた紅桜の幹が突如としてズレる。太く大きな幹が、大きな音をたて崩れ落ちる。鋭利な刃物で切られた跡だけを残して。
「ふふっ……。待ってろ。天鎧。お前の命もこれまでだ」
静かに笑う男の足音だけが町には響き渡った。