第78話 迷子の迷子の
次の日、朝早くシオは水蓮のお爺さんの道場へと出かけていった。
それから、遅れてクリスがギルドへと出かけ、部屋には冬華一人が残された。まだ陽も昇りきっていないが、冬華も出かける準備をしていた。ここの所、朝の日課であるクリスとの手合わせも行っていない為、水蓮のお爺さんの道場で軽く体を動かそうと考えたのだ。しかし、この時、冬華は大事な事を忘れていた。自分に関するとても大事な事を。そして、その足で静かに部屋を出た。
一方、その頃、シオは道場で座禅を組まされていた。誰もいない広く綺麗な部屋の中。シオだけを中央に座らされ、静かな時だけが過ぎる。精神力を身に纏い一定量を維持する鍛錬だった。これでも精神力の扱い方には自信のあり、安定した精神力を維持している。
シオの体全体を覆う薄い光の膜。感情的なシオの性格と違い、とても静かで波一つ立たない。
それを目の当たりにし、水蓮もお爺さんも驚きを隠せなかった。ここまでどれだけの鍛錬をしたのかと言うのが一目で分かる程、シオのそれは素晴らしいモノだったのだ。才能もあったのかも知れないが、これを才能だったと言う言葉で片付ける事は出来なかった。
静かに息を呑む水蓮。これ程のモノだとは思っていなかった。あまりの凄さに目を奪われていると、水蓮のお爺さんは静かに呟く。
「流石、獣魔族と言った所かのぅ」
「ですね……」
静かに答える水蓮は小さく頷く。正直、今の水蓮にシオと同じ事をしろと言われても無理だろう。それ位、シオの精神力の制御力は洗練されていた。
一時間程の座禅を終え、シオは静かに息を吐く。額から薄らと溢れる汗。流石に、一時間も一定の精神力を維持すると言うのは大変な事だった。右手で汗を拭ったシオはゆっくりと立ち上がり水蓮のお爺さんへと目を向ける。
「さぁ、座禅は終わったぞ。次はどうしたらいい?」
「そうじゃのぅ。じゃあ、今度は中腰で同じ様に一時間精神力を維持するんじゃな」
「ま、またか!」
「まぁ、基本じゃからのぅ」
大らかな口調でそう言うお爺さんに、不満そうな表情を浮かべるシオだが、渋々足を肩幅に開き腰を少しだけ落とす。左膝が僅かに痛みシオの表情が僅かに歪む。それでも、意識を集中し、精神力で体を覆う。薄らとした光の膜がシオを包むが、左足の影響か、その光は揺らいでいた。
「ふむっ……」
「左膝の所為でしょうか?」
安定しないその薄い光に水蓮がそう尋ねると、お爺さんは渋い表情を浮かべもう一度「ふむっ」と口にし、ゆっくりと頷く。
「そうかもしれんのぅ。じゃが、ここからは彼が自分で探し出さなければならん。何処にどう言う風に精神力を練ればいいのかを」
お爺さんがそう告げ、ジッとシオの姿を見据える。すでに始まっていた。シオへの技の指導は。この鍛錬を終えた時、シオはきっと手にしている。左膝の痛みを制御する方法を。
その姿を見ていた水蓮は静かに息を吐くと、ゆっくりと歩き出す。すると、お爺さんは不思議そうな表情を向け、口元に薄らと笑みを浮かべる。
「何処へ行くのかのぅ」
「町の方に買出しです」
静かに答えると、お爺さんは「そうかのぅ」と大らかに笑いながら呟き、水蓮は小さな吐息を漏らし肩を僅かに落とした。
正直、シオの鍛錬を見ていると、自分がまだまだ弱いのだと思い知らされる。だから、水蓮は道場を後にしたのだ。
静かに足を進める。自分に足りないモノ。それを考えながら。俯き、彷徨う様に町を歩いていると、不意に耳に届く。聞き覚えのある声が。
「す、水蓮!」
その可愛らしい声に顔を上げると、そこには冬華が居た。目尻に今にもあふれ出しそうな涙を浮かべ、十字路に立ち尽くす。肩口まで伸ばした黒髪、頭には赤いカチューシャをした冬華の可愛らしい顔を見据え、水蓮は苦笑する。分かったのだ。冬華がどうしてここに居たのかを。だから、静かに尋ねる。
「また、ですか?」
と。その言葉に冬華は「うぅーっ」と小さな呻き声を上げ、不満そうに頬を膨らせる。冬華は理解したのだ。その一言で水蓮が何を言いたいのかを。だから、冬華は水蓮から視線を逸らし、唇を尖らせ呟く。
「ま、迷子じゃないもん。ちょっと困ってただけだもん」
子供の様に拗ねる冬華に、水蓮は呆れた様に苦笑し、小さく息を吐いた。
その後、拗ねる冬華の機嫌を直す為に水蓮は団子屋へと寄り、団子を食べて道場へと戻った。道場に戻る頃には冬華の機嫌も良くなっており、ニコニコと笑みを浮かべ水蓮と並んで歩く。
「ただいま戻りました」
水蓮がそう告げ、道場へと上がると、遅れて冬華も「失礼します」と道場へとあがる。すでにシオの鍛錬は終わっており、床に大の字になって横たわっていた。大量の汗を流し苦しそうに胸を上下に揺らすシオの姿に、冬華は驚き言葉を呑み、静かに水蓮の後続く。
床の軋む音にシオは頭の上の獣耳をピクッと動かすと体を起こし、ゆっくりと冬華の方へと顔を向けた。僅かに鼻がヒクヒクと動き、怪訝そうな表情を見せるシオ。その表情に冬華は目を細め口元に引きつった笑みを浮かべた。嫌な予感がし、一歩後退りすると、シオは不満そうにジト目を向け、静かな口調で言い放つ。
「お前、また、団子食べてきたな?」
「えっ? そ、そんな事ないよぉー。ねぇー、水蓮」
「え、えっと……」
水蓮は口ごもる。流石に、二十本近く食べてきたとは言えなかった。冬華の名誉の為にもそれを口にしてはいけないと、心の中の自分がそう制御したのだ。
口を噤む水蓮に対しシオはジト目を向け、ゆっくりとその目をもう一度冬華へと向ける。
「やっぱり食ってきたんじゃねぇーか! だからお前、最近太って――」
と、次の瞬間、シオの顔面へと冬華の両手が飛ぶ。
「ごがっ!」
両手でシオの口を塞ぐ冬華。それ以上先の言葉を聞きたくなかった。冬華だけではない。普通、一般の女性なら誰もがそうだろう。太った、などと人に言われる事程ショックな事は無いのだ。だから、冬華はシオの口を両手で塞ぎ続けた。
突然口を塞がれたシオは困惑していた。何故、冬華がこの様な行動を取ったのか全く理解出来ない。その為、目を白黒させながら、口をモゴモゴと動かし何か言葉を告げようとしていた。
奇妙な光景を目の当たりにし、水蓮は呆然としていた。何故、このような状況になっているのか分かっていない。だが、その隣で笑うお爺さんは一応、現状を把握しており、「おぬしらはもう少し女心を分からんとな」と静かに述べまたいつもの様に「ほっほっほっ」とおおらかに笑った。
なんだかんだと騒々しくなったものの、すぐにシオは鍛錬へと戻り、不満そうな表情を冬華はシオから離れる様に道場の外で木で出来た槍で素振りをしていた。突き、払いと何度も繰り返す冬華。その綺麗なフォームを水蓮はただ黙って見据える。どれ位素振りを繰り返してきたのか、冬華のそれは大分様になって見えた。
暫く素振りを続けた冬華は不意にその手を止めると、自分をジッと見据える水蓮へ目を向け不満そうに口を開く。
「ジッと見られると気になるんだけど?」
「あっ、すみません」
「ううん。別にいいんだけど……もしよかったら、相手してもらえないかな?」
「わ、私がですか?」
「うん。相手が居る方が動きの確認とか出来るし」
「そ、そうですか?」
少し困った様にそう返答した水蓮は渋々と木刀を手に取り、ゆっくりと冬華の前に出る。対峙し木刀を静かに構えると、ゆっくりと腰を落とす。全ての動きが静かで冬華は一瞬その動きに見とれてしまう。やがて、顔つきも変る。先ほどまでの戸惑いが消え、真剣な眼差しを向け木刀を中段に構える水蓮に、冬華は静かに槍を構えた。
静寂の中、ザワメク木々の葉。暖かな風が吹き抜け、緑色の葉が一枚二人の間を流れる。それと同時に二人は地を蹴る。相手の出方を見る様にお互い右方向に飛ぶ。それから、円を描く様にゆっくりとジリジリ足を進め、互いに間合いを測る。
対峙して初めて分かった。いつもは優しく気弱な感じの水蓮の気迫、その男らしさに。自分よりも数センチも体の小さい彼が、少しだけ大きく見えた。
その小さな体格から水蓮は素早い動きで相手を翻弄するスピードタイプだと冬華は判断する。もちろん、見た目でそう判断するのは危険な事だ。あの小柄な体格で凄い怪力と言う可能性もある。その実例が身近に居る為、その事を頭の隅に考えながら、冬華は水蓮の動きを観察する様にジッと見据える。
互いに一定の距離を取ったまま右へと歩を進め円を描くと、やがて、その足が同時に止まった。そして、動き出す。素早く身を屈め、右手に木刀を携えた水蓮が。
冬華の読み通り、彼はスピードタイプ。素早く地を蹴り、土煙を舞い上げ冬華へと木刀を振りぬく。その間、数秒。まだ、水蓮の背後には地面を蹴ったであろう跡の様に土煙だけが僅かに舞い、振り抜いた木刀と、冬華の槍の柄がぶつかり合う衝撃で、その土煙が吹き飛ばされる。
乾いた音色が響き、二人はまた距離を取った。両足で地面を滑る様に動きを止めた冬華。その足元に漂う土煙。ゆっくりと顔を上げ、目の前にいる水蓮を見据える。
水蓮も同じく足元に土煙を巻き上げ、木刀を下段に構え冬華を見据えていた。二人の視線が交錯し、また水蓮が駆ける。土煙だけを次々残して。
小さく息を吐く冬華は、右足を踏み出すと向かい来る水蓮に向かって槍を左から右へと大きく振り抜いた。柄がしなり、風を生む。その風により土煙が舞い上がり、遅れて矛先が迫り来る水蓮へと襲い掛かる。
「ぐっ!」
思わず表情を歪める水蓮。その右脇腹へと減り込む槍。
突如、しなった矛先が死角から飛び出し、水蓮の右脇腹に直撃したのだ。駆け出していた為、足に踏ん張りが利かず、水蓮の体は容易に弾かれた。鈍い打撃音を残し水蓮の体は激しく地面を転がる。てこの原理も重なり、その打撃の重さは相当のモノで、水蓮は土煙の中膝を震わせ何とか立ち上がった。