第77話 正体不明の獣とは?
あの騒動から数日が過ぎた。
町はいつもの様に賑わう。人々の記憶からも騒動の事など薄れ、いつもと変らぬ日常をおくっていた。
クリスは相変わらずギルドへと通い、次々と依頼をこなしていた。その間、冬華とシオの二人はフラフラと町を探索し、時折水蓮に町を案内してもらいながら、色々と情報を集めていた。
この数日で手に入れた情報。この島を治めるのは天鎧。歳は三十半ばで、この桜国をまとめる八会団の一人。その中でも代表を務める男でこの国では最強と謳われる居合いの達人らしい。最もこの国で信頼される人物でもあり、現在八会団の会議に出ており不在との事。何の会議だか分からないが、なにやら重要な案件だと島では噂されていた。具体的な事は皆知らされていないのだ。
冬華とシオは今日も町を散策していた。その途中、水蓮と合流し、島の北東付近を散策していた。町から外れた森の中。特に何かがあると言うわけではないが、とりあえずそこまで足を運んだ。
森の奥には大きな滝があり、湖がそのしたには広がっていた。その滝から放たれるマイナスイオンを感じる冬華は、大きく息を吸い静かに息を吐いた。
全く興味の無いと頭の後ろで手を組むシオは大きく欠伸をし、その目から涙を零す。
一方で、水蓮は小さな体でキョロキョロと辺りを見回していた。何かを探しているのか、それとも警戒しているのか定かではないが、水蓮は暫くキョロキョロした後に安堵した様に小さく息を吐いた。
「どうかしたのか?」
その異変に気付いたシオは訝しげな表情を水蓮へと向ける。その眼差しに水蓮は困った様に苦笑すると、シオの方へと顔を近付け周囲を警戒し、冬華には聞こえない声で告げる。
「知ってますか? 先日、町に正体不明の獣が現れたそうなんですよ」
「正体不明の獣? へぇーっ。そうなのか?」
頭の後ろで手を組んだままそう返答するシオに、「興味ないんですか?」と不思議そうな顔をする水蓮。驚きを隠せないと言った表情でゆっくりと二度首を振る水蓮は、大きくため息を吐き瞼を閉じ、左手で頭を押さえる。そこまで落胆するかと言いたげな眼差しを向けるシオは、呆れた様に息を吐くと眉をゆがめた。
短い黒髪を風に揺らす水蓮は湖を囲う手すりに手を置き、滝つぼを真剣な眼差しで見据えゆっくりとした口調で静かに告げる。
「数日前にあった大きな事件を知ってますか?」
水蓮の言葉に目を細めたシオは表情を歪め、ゆっくりとぎこちない動きで水蓮の方へと顔を向けた。何となく嫌な予感がする。いや、多分、水蓮の言った正体不明の獣。その正体をシオは知っている気がした。額から流れる汗が頬を伝い顎先からポトリと落ち、シオは僅かに唇を震わせ口を開く。
「へ、へぇーっ……す、数日前に……」
「はい。巨大な獣が暴れたであろう鋭い爪跡が残されていたそうです」
「へ、へぇーっ」
(それは、オイラがやった……)
平然を装い静かに相槌を打ちながらシオは心の中でそう呟き、一層目を細め複雑そうな表情を浮かべた。まさか、自分が行った事が、その様な騒ぎになっているとは思ってもいなかった。そんなに騒ぎになっている状況で、自分がやったとは言い出せず、シオは乾いた笑い声を響かせる。
拳を握る水蓮は深く息を吐くと、素早くシオの方へと顔を向け、その強い意志を宿った眼差しがシオの目を真っ直ぐに見据える。金色の瞳が僅かに揺らぎ、シオの視線がゆっくりと水蓮から逸れた。その行動に水蓮は僅かな違和感を覚えたが、気にせず更に言葉を続ける。
「それから! 深夜に凄い光が見え、その後に劫火が町を一閃したそうです」
「ご、劫火が……」
(それは、クリスが……)
申し訳なさそうな表情で何度か頷くと、水蓮は更に一歩踏み出し興奮気味に口を開く。
「それに、あの紅桜の木に大きな亀裂が生じて、その目の前の建物が破壊されたそうなんです!」
「こ、紅桜に亀裂が……」
(それは、冬華が……)
一層申し訳なさそうに肩を落とすシオはもう水蓮の顔を見る事が出来なかった。まさか、ここまで大事になっているとは思っていなかった。あの後、クリスがギルドに連絡はしたはずだが、何故こんな事になっているのかシオには分からなかった。
動揺を隠せないシオに対し、水蓮は怪訝そうな眼差しを向け、軽く首を捻る。
「どうかしたんですか? 先程から、様子が変ですけど?」
「い、いや。な、何でも無い」
右手を出し、そう言い張るシオに「そうですか?」と不思議そうに言う水蓮はもう一度首を捻り、滝を見上げる冬華へと視線を向ける。肩口で黒髪を揺らし、小さい胸をこれでもかと張りながら、マイナスイオンを浴びるその姿が、水蓮には愛らしく見えた。
轟々しい滝の音を聞き、ひんやりとした風を感じる冬華は、静かに瞼を開くとゆっくりと息を吐き出し、張っていた胸を徐々に下ろして行き、背中を丸める。静かな時の中で今日何度目かの深呼吸。のどかな雰囲気、美味しい空気。そして、優しい風に、心が癒されていく。今度はクリスも一緒に来ようと冬華は固く心に誓う。
それから数十分が過ぎ、ようやく三人は動き出す。
「これから、どうしましょうか?」
水蓮が町へと戻る道を進みながらそう呟く。冬華は腕を組み「そうねぇー」と考え込み、シオは「うーん」と先程からずっとうなり声を上げていた。三人の間に僅かな間が生まれ、三人の足音だけが静かに聞こえる。
やがて、静かに足を止めた冬華。それに釣られ、シオ、水蓮と順に足を止め冬華の方へと顔を向けた。訝しげな表情を浮かべるシオ。不思議そうな面持ちの水蓮。二人の顔を見据え、冬華はニコッと笑みを浮かべると、元気な声で言い放つ。
「それじゃあ、今日は水蓮のお爺さんの道場に行ってみようか?」
突然の冬華の発言にシオは首を傾げ、水蓮は慌ただしく両腕を振る。その慌てっぷりは異常で、わけの分からない動きを繰り返す。そして、慌てて早口で尋ねる。
「な、なな、何で、ど、どど、道場に!」
「えっ? うーん。ほら、一度見てみたいし、私も色々教わりたいから」
右手を顔の横に持って行き、人差し指を立てニコッと笑みを浮かべる。その顔に水蓮は息を呑み目を細めた。多分、何を言っても道場に来るつもりなんだろうと分かったのだ。
小さく吐息を漏らすシオはそんな水蓮の肩をポンと叩き、哀れんだ様に小さく頷き呟く。
「諦めろ。言い出したら聞かないから」
「そ、そうですか……」
呟き肩を落とす水蓮。あんまり、道場に人を呼びたくは無かった。昔は有名な道場だったが、今ではもう――。だから、戸惑いがあったが渋々それを了承し歩き出す。
嬉しそうな笑みを浮かべ、冬華はその後へと続く。静かな時が過ぎ、冬華達は町のはずれにあるボロボロの道場の前に居た。ここが、水蓮のお爺さんの道場。
門をくぐり道場を見据える。呆然とする冬華とシオ。まさか、ここまでボロボロとは思っていなかった。とてもじゃないが門下生が居るとは思えなかった。
呆然とする二人の様子に水蓮は深くため息を漏らすと、目を細めゆっくりと道場の中へと足を進める。
「驚きましたか? 一応、これでも、ちゃんとした道場なんですよ」
「それにしても……大分ボロボロだな」
「門下生って居るの?」
恐る恐る冬華がそう尋ねると、水蓮は小さく頷く。
「えぇ。一応、私がここの門下生です」
「…………」
「…………?」
沈黙する二人。冬華は小さく小首をかしげ、シオは哀れんだ様な眼差しを水蓮へと向けた。
僅かに流れる静寂の中で、静かに吹き抜けた風が砂埃を舞い上げる。それが一層道場を寂れさせている様に見え、シオは更に哀れに思う。
「な、何か……ごめん」
静寂を破ったのは冬華だった。深々と頭を下げる。これは自分が悪いとハッキリと分かっていた。だから、すぐに謝った。
頭を下げる冬華に対し、水蓮は優しく笑みを浮かべる。
「いえ。謝らないでください。私も、この道場に一度お呼びしようと思ってましたから」
悲しげな瞳が揺らぐ。動揺しているのだと、シオはすぐに分かった。だが、何も言わない。これ以上哀れな想いをさせたくなかったからだ。その為、シオは静かに息を吐くとゆっくりと瞼を伏せた。
それ以上、誰も喋らず、ただ道場へと上がる階段へと腰をすえ、空を見据える。暖かい風が砂埃を巻き上げ、三人の頬を撫でた。静かに息を吐く水蓮は悔しそうに唇を噛み締め、ゆっくりと口を開く。
「この道場は数年前まで、この国では有名な道場でした。ですが、私の父が死に、この道場は一気に……」
水蓮のその言葉で理解する。どうしてこの道場がここまえ寂れてしまったのかを。だが、それ以上は聞けない。どうして父親が死んだのか。そんな事を悲しげな表情を浮かべる水蓮に問う事など冬華にもシオには無理だった。
そんな静まり返ったその場所に「ほっほっほっ」と言う大らかな笑い声が響き、道場の床が軋む。その声と音に三人が振り返ると、そこには水蓮のお爺さんが立っていた。杖をつきシワクチャの顔に笑みを浮かべる。
「どうかしたのかのぅ」
「お爺様! い、いつからそこに?」
「いつから? 最初っからおったぞ。それより、そこの獣魔族」
水蓮のお爺さんの目がシオへと向けられ、シオは自分の顔を指差し首を傾げる。
「オイラに何か用か?」
「そうじゃのぅ。その左足、今のままではまともに戦う事も出来んじゃろうて」
「…………」
訝しげな表情を浮かべるシオ。今日はまだ一度も左足を引き摺ってなどいないのに、このお爺さんはシオが左足を悪くしていると瞬時に悟っていた。何故、分かったのか。その疑問に険しい表情を見せると、お爺さんはまた大らかに笑い静かに口を開く。
「もしよければ、ウチで修行してみんか?」
「お、お爺様! こんな時にスカウトするなんて!」
「悪いが、オイラは武器は使わない。この道場で教わる事は何も無いね」
突然のお爺さんの申し出にシオは肩をすくめそう返答した。だが、お爺さんは薄らと開かれたその目から覗く黒い瞳に、シオは息を呑む。何か強い意志の様なモノを感じた。
「な、何だよ?」
「残念じゃのぅ。この道場は心を鍛える場所。故に精神力が身につき、主の左膝を完全とまではいかんが、完全に近い状態にする事も出来ん事もないんじゃがのぅ」
「お、お爺様!」
「ほ、本当か! それ!」
「もちろんじゃとも」
身を乗り出すシオに対し、お爺さんは不適に笑う。小さくため息を漏らす水蓮は右手で額を押さえ、左右に頭を振る。確かに、精神力を鍛えれば自らの体を強化する術が身につくが、それは長い時間と日々の積み重ねがモノを言う。
そんな事とは知らず目を輝かせるシオは希望に満ち溢れた顔で拳を握り「早速、修行をつけてくれ!」と声をあげていた。