第62話 ありがとう 想いを託して
冬華は静かに目を覚ました。
柔らかなベッドの感触。
綺麗な天井。
部屋に香る甘い匂いと額に感じる冷たい感触。
ボンヤリと天井を見据える冬華は、思う。
(私は生きているんだ)
と。三日三晩続いた激痛。前回よりも明らかにその痛みは凄まじく、今だ軽い頭痛がしていた。体のダルさは前と一緒だが、持ち上げた右腕はとても重く、自分の腕で無い様な錯覚を覚える程だった。呼吸するたびに冬華の小さな胸がゆっくりと上下する。
持ち上げた右手の指の合間から天井を覗き見る冬華は、その手をゆっくりと額へと下ろし深く息を吐く。体が重く、頭が働かない。セルフィーユはどうしただろう。シオは大丈夫だっただろうか。クリスは――ジェスは――。そんな事を考えるが、すぐに激しい痛みと吐き気に考えるのをやめ、深く吐息を漏らす。
何も考える事が出来ず、冬華の意識は遠退き、静かに眠りに就く。そして、部屋には静かな冬華の寝息だけが響いた。
シオは一人、イリーナ城の屋上庭園に居た。
様々な花が彩るその屋上庭園は、最も高い場所に位置する美しい庭園で、その場所からイリーナ王国を一望する事が出来る。王都からその向こうに見える荒野。そして、遠くの方に僅かに盛り上がった山脈が見える。アレが、シオが登ったシュールート山脈だった。
他にも様々な町や森が遠くに見え、その向こうに見える空には星が浮かぶ。すでに夜になろうとしていた。シオの背後に陽は沈む。
手すりにもたれかかるシオは、その夕日に背を向けたまま、目の前に広がる絶景に目を向けていたが、すぐに右へと顔を向けると、静かに口を開く。
「これから、どうするんだ? お前」
『私はここです。シオさん』
唐突に独り言の様に呟くシオに、その視線とは反対側からセルフィーユの声が聞こえる。その声に慌てて振り返るシオ。すでにセルフィーユの姿はシオの目にすら映らない程薄くなっていた。それでも、まだ声だけは聞こえ、そこにセルフィーユがいる事だけは分かる。
冬華の治療でセルフィーユは自分の持っていた全ての聖力を使い果たした。その結果、半透明だったその肉体は完全にシオの視界から消え、声しか届かないモノになったのだ。もちろん、セルフィーユのその目ですら、自分の姿は確認する事が出来ず、このまま消滅するのだと感じていた。だから、こうして、シオと二人、屋上庭園へとやってきたのだ。
静かに流れる時。吹き抜ける冷たい風が、シオの金色の髪を揺らし、セルフィーユの体をすり抜ける。ただ重苦しい空気と静寂がその場に漂い、静かにシオは口を開く。
「さっきは悪かった」
『いえ。……しょうがないです。もう、見えないですから』
沈んだ声。落ち込むセルフィーユの顔が容易に想像できた。その為、シオは俯き小さく吐息を漏らす。静かなその場に響くシオのため息に、セルフィーユが笑う。誰にも見る事の出来ない愛らしい笑みをシオへと向け、セルフィーユは告げる。
『そんなに落ち込まないでください。シオさんには似合いませんよ?』
「オイラだって、落ち込む事位あるさ」
『それより、左膝は大丈夫ですか?』
唐突に話をそらすセルフィーユに、シオは自らの左膝へと力を込める。痛みが走り、表情を歪めたシオが「くっ」と声を漏らすと、セルフィーユが慌てた様子で声を上げる。
『む、無理はしないでください!』
「うくっ……こ、この程度……」
『シオさん!』
怒鳴るセルフィーユの声にシオは膝から力を抜き、唇を噛み締める。そんなシオに、セルフィーユはニコッと笑みを浮かべ、伝える。
『もう、私はあなたを治療する事は出来ません。冬華様を守る事も……。
多分、もう傍にいる事も叶いません……。だから、シオさんが守ってください。冬華様を。
無事に、元の世界へと帰してあげてください』
セルフィーユの声に、シオは拳を握る。分かっていた。自分の目の前で薄れていくセルフィーユの姿を見た時に。突然、声だけしか聞こえなくなったその瞬間に。セルフィーユがこの世界に居られる時間はもう僅かなのだと。結局、シオは何も出来なかった。冬華を守る事も、セルフィーユをここに残しておく事も。
自分はセルフィーユに治療してもらっておきながら何も出来ず、ただこうして最後まで一緒に居てやる事しか出来ない。無力さに噛み締めた唇が切れ、血があふれ出す。握った拳は爪が深く刺さり出血し、左膝は痛みに震える。
そんなシオの姿を見据えるセルフィーユは、悲しげな表情を浮かべ、ただ見守るだけ。触れる事も叶わず、もう自分の姿すら見る事の出来ないシオに、どうする事も出来なかった。何を言えばいいのか、分からず、セルフィーユはただ想いを伝える。
『冬華様に伝えてください。
最後まで一緒に居られなくてすみませんと。
守って上げられなくて、すみませんと。
それから、今までありがとうございましたと』
「セルフィーユ?」
シオが顔を挙げ、辺りを見回す。姿の見えない自分を探すシオの姿に、セルフィーユは悲しげな表情を浮かべる。すでに、自分の声がシオには届いていないのだと、気付いたのだ。堪えていた涙が、その目から零れ落ち、頬を伝う。涙が流れ落ちる感触だけは分かるが、もう自分の姿すら見る事の出来ないセルフィーユは、完全に消えている右手を自分の顔の前へとかざし、下唇を噛み締め嗚咽を漏らす。
“どうして、自分は聖霊なのだろうか”
“どうして、消えなきゃいけないのか”
“どうして――”
いろんな事が頭の中を過ぎり、ただセルフィーユは声をあげ泣いた。誰にも聞こえない声で、誰にも知られる事なく、屋上庭園で嗚咽を漏らし泣きじゃくった。零れ落ちる涙を留める事が出来ず、ただ大声を上げる。
そのセルフィーユの目の前で、シオもまた涙を流す。声すら聞こえなくなり、その存在すら確認できなくなり、ただただその場で静かに泣く。零れ落ちる涙が地面で弾け、吹き抜ける風が優しくシオの髪を撫でる。
「何を伝えりゃいいんだよ……」
ボソリと呟いたシオは、涙を流したままその場に座り込み、空に広がる満天の星空を見上げた。
やがて、泣きじゃくっていたセルフィーユの体は粒子となる。もちろん、誰にも見る事の出来ない肉体。ただ、セルフィーユだけは感じていた。自分が消えてしまうと言う事を。
だから、鼻を啜り、座り込み夜空を見上げるシオに向かって、泣きじゃくりかすれた声で告げる。
『冬華様の事を守ってあげてください』
と、静かに頭を下げる。そして、セルフィーユの意識は完全に消え、光の粒子だけが僅かにシオの目の前を流れ、夜空へと消えていった。「ありがとう」と、最後に誰にも聞こえない声で呟いて。