第45話 漂う危険な匂い
水浴びを終えた冬華が鼻歌混じりでシオの下へと戻ってきた。
肩口まで伸ばした黒髪はまだ湿り気を帯びており、毛先から滴を零していた。
右手で鼻を摘み空を見上げるシオは、冬華の足音に頭の上の耳をピクッと動かし顔を冬華の方に向ける。
「早かったな」
鼻声のシオがジト目を冬華に向ける。先程殴られた事をまだ根に持っている様で、その顔は不満そうだった。そんなシオに、冬華は苦笑しパンッと両手を合わせる。
「ご、ごめん!」
「別に怒ってねぇーよ」
憮然とした表情でそう言うシオに、冬華は怒ってるじゃん、と思ったが、口にせず小さく吐息を漏らした。ゆらゆらと宙を舞うセルフィーユは金色の長い髪を揺らし冬華の下へとやってくると、不思議そうな表情でシオを見据える。
『どうかしたんですか? 鼻なんて摘んで?』
「冬華に殴られたんだ。お前も見てただろ」
『あーぁ……そうでしたね。でも、鼻血なんて出てなかったじゃないですか?』
その言葉にシオはセルフィーユを睨む。その目にセルフィーユは『なんですか?』と、ジト目を向け頬を膨らせる。二人の間に流れる険悪な空気に、冬華は笑顔で二人の間へと入った。
「ほらほら。二人共。そろそろ、行くよ!」
二度手を叩きそう発言すると、シオは鼻を摘んでいた手を離し荷物を手に持った。相変わらず憮然とした表情のシオに、冬華はただただ苦笑するしかなかった。
再び歩き出した冬華達。相変わらずシオは先頭を歩き、足元の草を踏みしめ、邪魔な木の枝をその手で折る。さり気無いシオのその行動に、冬華の顔は思わずニヤけた。セルフィーユは何故シオがそんな行動をとっているのか分からず、冬華の隣で首を傾げる。
静かに歩む事数十分。冬華は不意にある事を思い出し、シオの方へと早足で近付く。その足音にシオの獣耳がビクッと動き、足が止まる。動きを止めたシオに冬華もその足を緩め、ゆっくりと立ち止まり首を傾げた。
「ど、どうかした?」
シオの前で足を止めた冬華がそう尋ねると、シオはゆっくりと冬華の方に振り返る。相変わらず憮然とした表情のままで。
「オイラに様か?」
淡々とした口調でそう言うシオに、冬華は僅かに表情を歪める。まだ怒っている。そう思いジト目を向けた冬華は、左斜め下へと視線を向け、鼻から静かに息を吐くと唇を尖らせ問う。
「あのさっ!」
「何だよ」
冬華の声に即答するシオ。その金色の瞳にはやや怒気が篭っており、冬華僅かにたじろぐ。その様子にセルフィーユが即座にその場に飛び入り、シオの前へと出る。
『何ですかっ! その態度は!』
「うるさいなぁ……幽霊に関係ないだろ」
『ゆ、ゆゆゆ、幽霊ッ! だ、誰が幽霊ですかっ!』
「はいはいはい。二人共、やめて!」
もめる二人の間に冬華が割ってはいる。冬華の言葉にセルフィーユは言葉を呑むが、涙目でシオを威嚇する様に睨みつけていた。だが、シオは全く興味が無いと、右手で耳を掻き小さくため息を吐く。
肩を落とし、小さく吐息を漏らした冬華は、そんなシオを上目遣いで見据え、静かに尋ねる。
「ここで聞くのもなんだけど……」
「何だよ?」
「あの後、ケルベロスって人はどうなったの?」
冬華の問いにシオは軽く首を傾げる。暴走するケルベロスと戦った後、冬華は気を失っていた為、あの後ケルベロスがどうなったのか知らない。だから、その事をつい先程思い出し、気になったのだ。冬華の問いに対し、シオは面倒臭そうに右手で頬を掻くと、視線を逸らす。
「そうだなぁー……どうなんだろうな?」
「えっ? ど、どうなんだろうって……」
唖然とする冬華に、シオは遠くを見る様に目を細める。
「いや、実はさぁ、オイラも詳しく知らないんだよ」
「ど、どう言う事? も、もも、もし、もしかして、し、死んじゃったとか?」
「いや、死んでは無い。アオからもそう聞いてる」
「アオから? どう言う事?」
怪訝そうな顔で首を傾げる冬華に、シオが腕を組み僅かに俯く。
実は冬華が気を失った後、シオはその場に現れたアオと激突し、ケルベロスの事など忘れてしまっていた。もちろん、アオが敵で無いとすぐに理解し戦闘は回避されたが、その後は怪我を負ったフリードに付きっ切りになり、結局ケルベロスと直接話す事は無かったのだ。だから、シオもライから後で知らされた。アオがケルベロスと一緒に転移魔法でどこかへ行ってしまったと言う事を。
その為、シオは複雑そうな表情を浮かべていた。どう説明したらいいんだろうか、と悩む。
そんな中、冷たい風が二人の合間を抜け、両者の髪が激しくはためく。その時、シオは鼻腔に妙な香りを感じ取り、眉間にシワを寄せる。この森では感じた事の無い獣の臭い。しかも、その臭いに僅かに血の臭いが混じっていた。
警戒はしていたのに感じ取れなかった気配に、シオは息を呑み冬華を見据える。この状況で戦うのは得策ではないとすぐに判断し、シオは冬華の右手首を掴む。
「えっ? な、な、何?」
突然の行動に冬華は驚く。だが、驚いたのは冬華だけでは無かった。隣で浮遊していたセルフィーユが、目を丸くしパクパクと唇を動かし、シオの顔とその手を交互に見据え、やがて大声を上げる。
『な、ななな、何してるんですかっ!』
セルフィーユの怒声に、シオは何も言わずそのまま冬華の体を抱え上げると跳躍し、木の枝へと飛び乗る。そんなシオに対し、セルフィーユは拳を振り上げ怒鳴った。
『わ、わ、私を無視しないでください!』
「し、シオ? ど、どうしたの?」
突然の事に多く瞬きをし戸惑う冬華に、シオは真剣な表情で周囲を見回す。全く気配が見えない。いや、それ所かもう臭いすら感知出来ない。それ程気配を隠すのが上手かった。まるで誰かに監視されている様な感覚に、シオは奥歯を強く噛み締める。
怖い顔をするシオに、冬華も少なからず何かを感じ取った。きっとシオは何かに気付いたのだと。だが、この中で一番感知能力の高いはずのセルフィーユが全くと言う程動揺していない事が、冬華には不自然に思えた。
黙り込む二人に、セルフィーユも何か異変を感じ取ったのか、周りを見回す。だが、何の気配も感じない。それでも、セルフィーユの胸の中をモヤモヤとしたモノが取り巻く。それが一体なんなのかは、セルフィーユ自身も分からないが、何故だか嫌な予感がしていた。
「急いで森を抜けた方がよさそうだな」
シオが静かに呟く。
「そうね。とにかく、急ぎましょう」
冬華がシオに抱えられたまま返答し、頷く。
「じゃあ、暫く我慢しろよ。このままオイラが走った方が速いから」
「……うん。分かった」
シオの言葉に冬華は頷く。彼が言う通り、このままシオが走った方が速いからだ。セルフィーユはどこか不満げだったが、文句は言わない。セルフィーユ自身もここに居ては危険だと分かっているのだ。
「それじゃあ、確り掴まってろよ」
「う、うん」
冬華はシオの首へと腕を回し腕に力を込める。一方シオは膝を曲げると、足に力を込め木の枝を強く蹴り出す。衝撃で枝が大きくしなり、やがて幹から剥がれ落ちる様に枝は折れる。次々と跳躍し枝から枝へと移り、その後には幹から剥がれ落ちる枝が続いていた。