第37話 冬華の気持ち
泣き疲れいつの間にか寝ていた冬華は、ベッドの上で目を覚ます。
抱えた膝に顔を埋め寝ていた所為か、少しだけ首が痛んだ。窓の外へと目を向けると、空はすでに夕日色に染まっていた。大分寝ていたんだと、冬華は小さく吐息を漏らす。肩から力を抜き、自分の手を見据える。僅かに震えるその手を握り締め、唇を噛み締めた。瞼を閉じればあの時の激痛を思い出し、体が震える。それでも、冬華は体の震えを押し殺し、呼吸だけを荒げた。
静かに過ぎる時間の中で、冬華は思う。帰りたいと。元の世界に。でも、帰る方法が分からない。どうすればいいのかも分からず、悔しげに唇を噛み締め深く息を吐いた。
「考えてもしょうがない……」
小さく呟き、まだ痛みの走る体にムチを打ちベッドから立ち上がると、壁に手を着きゆっくりと歩みを進める。気になったのだ。セルフィーユやシオの事が。目を覚ましてから一度も二人の姿を見ていないと言うのもあるが、声すら聞こえてこない事が不気味だった。
呼吸を乱しながら足を進めた冬華は、ドアの前まで辿り着くと、ドアに耳を当て部屋の向こうの声に聞き耳を立てる。だが、殆ど音は聞こえず、小さく吐息を漏らす。
「何してんだろ……」
小声でボヤキ、ドアノブを右手で握りドアを開いた。ドアを開くと最初に目に入ったのは、見慣れない一人の男だった。黒の短髪に、二十代前半程に見える若々しい顔立ち。穏やかな表情を浮かべ、椅子に座るその男は冬華の存在に気付くと、右腕を軽く上げ優しげな声を発する。
「よぉ。目が覚めたか? お姫様?」
「お、お姫様?」
男の言葉に困惑する冬華は、視線を上げ周囲の人に助けを求める。シオ、ライ、レオナの順に顔を見据えた冬華に、レオナは苦笑し、ライは腹を抱え笑い、シオは面倒臭そうに目を細めていた。わけが分からず、そんな三人に助けを求め続けると、レオナが痺れを切らせ立ち上がり、冬華の前まで足を進める。
「おはよう。冬華ちゃん。彼は、私達のパーティーのリーダーで――」
「アオ・ブライアントだ! よろしくっ!」
急に椅子から立ち上がり、親指を立てて自分の顔を指すアオの姿に、うろたえる冬華はその視線をレオナの方へと向ける。今にも泣き出しそうな冬華の表情に、レオナは困った様に眉を曲げた。
「絡み辛いかもしれないけど……一応、私達のリーダーよ」
「すっごい、絡み辛そうで怖いんですけど……」
怯えた目をチラチラと向ける冬華に、アオは目を細め静かにその視線をライの方に向ける。
「お、俺は、そんなに絡み辛いのか?」
「ああ。……えっ? 今頃知ったのか?」
「ひどい! もう立ち直れないわっ!」
唐突に女口調でそう述べたアオは、両手で顔を覆い部屋の隅で蹲ってしまった。そんなアオに引く冬華は、その視線をレオナへと向ける。一方のレオナも少々呆れた様な表情を浮かべ、引きつった笑みを冬華へと見せ、右手を振る。
「気にしなくていいわよ。あの人は、ああ言う人だから」
「え、えっと……ほ、本当にあの人が、レオナさん達のリーダー……なんですか?」
疑いの眼差しを向ける冬華に、レオナは困った様に微笑むと、ライの方へと助けを求める様に視線を向けた。だが、ライはレオナに背を向けると自分は関係ないと言わんばかりに口笛を吹き窓に近付き外に目を向ける。そんなライを睨むレオナは、深く吐息を漏らすと両肩を落とし冬華に視線を戻す。
「一応……ね。アレで、リーダーとしての素質はあるのよ……アレでね」
部屋の隅で蹲るアオの背中へ、レオナは苦笑しながらも尊敬する様な眼差しを向ける。それだけで分かる。アオと言う男がどれ程レオナから信頼されているのかと言う事が。
表情を曇らせる冬華は、不意に思う。自分はどうだったのだろうか、と。セルフィーユやクリスは、英雄だと言って慕ってくれていた。一方、シオはどうだろう。彼は英雄としての冬華の力を借りるために一緒に居る。決して信頼関係がある間柄とは言えない。その為、冬華は不安そうな表情をシオへと向けた。シオは全くそんな視線に気付く様子は無かった。
レオナによって椅子に座らされた冬華は、部屋を見回す。シオは楽しそうにライと話し、レオナは落ち込むアオを慰めていた。一人、ポツンとその場に座る冬華は膝の上に置いた両手を組み小さく息を吐き、セルフィーユはどうしたんだろう、と不意に思う。目覚めてから一度も見ていない。もしかしたら、もう自分の目にセルフィーユは見えないだけで、そこにいるのかもしれないと思い、何度かその名前を呼ぼうと口を開くが、声が出なかった。
怖かったのだ。セルフィーユが見えなくなるのが、その声が聞こえなくなるのが。セルフィーユは唯一のつながり。この世界と元の世界を繋ぐ為の。だから、声を出せず唇を噛み締め、手に力を込める。爪が皮膚を傷つけ血が滲む。それでも、そんな痛みよりも心が痛かった。
帰りたい。そう言ったら、セルフィーユはどう思うだろう。クリスは――シオは――。きっと、色々な人が困るだろうし、きっと帰る事を認めないと思う。色々な人の想いを、願いを込めてこの世界に呼び出された英雄なのだから。
痛む心に、冬華は自然と左手で胸を押さえていた。その行動にアオを慰めていたレオナが気付き、アオを突き飛ばし冬華の方へと駆け出す。
「いだっ!」
「大丈夫! 冬華ちゃん!」
突き飛ばされ、柱に頭をぶつけたアオを無視し、レオナは冬華へと声を掛ける。レオナの声に冬華はハッとし、胸を押さえていた左手を離すと、無理に笑顔を作り左手を胸の前で軽く振った。
「だ、大丈夫です! な、何でも無いですから!」
慌てた口調でそう述べた冬華の顔を覗きこむレオナ。心配そうな目を向けるレオナに冬華は無理に笑う。その笑顔が更にレオナを心配にさせるとも知らずに。
冬華が無理をして笑っているのは誰が見ても一目瞭然だった。それでも、誰一人としてそれを指摘しない。皆、冬華の気持ちを分かっていたからだ。だから、何も言えずその表情を険しくさせる。
ギクシャクする空気の中で、頭を左手でさするアオが冬華の方へと視線を向けた。聊か不満そうな表情を向けるアオは、皆が口にしないその言葉を平然と口にする。
「帰りたいのか? 元の世界に」
と。暫しの沈黙。シオ、ライ、レオナの三人は無言でアオを睨み、その視線にアオはうろたえる。
静まり返った一室で、椅子に座った冬華は俯き膝の上に置いた手をギュッと握ると、唇を噛み締めた。
「わ、私――」
冬華が声を振り絞る。震えるその声に、皆は悟る。冬華の気持ちを。と、そこに、壁をすり抜けセルフィーユが部屋へと姿を見せた。それと同時に、冬華の声が響く。
「帰りたい! 元の世界に!」
その声に、セルフィーユは凍りつき、目を見開く。さっき聞いた言葉はきっと気のせいだと自分に言い聞かせて戻って来たセルフィーユにとって、この言葉は一番聞きたくない言葉だった。せっかく出会えた自分を見ることの出来る人。それも、世界を救う為に呼び出された英雄と呼ばれる存在。そんな存在の冬華が帰ってしまうと言う事がショックだった。
そんなセルフィーユの存在に、いち早く気付いたのはシオだった。部屋の壁から上半身を出し浮遊するセルフィーユに複雑そうな表情を向け、小さく「くっ」と声を漏らす。冬華が帰って一番辛いのはセルフィーユなのだと、シオも分かっているのだ。
シオの表情で、冬華も気付く。セルフィーユの存在に。そして叫ぶ。
「セルフィーユ!」
その声で、セルフィーユは我に返り反転すると部屋から飛び出していく。椅子から立ち壁を見据える冬華に、シオが静かに立ち上がりニッと笑みを浮かべた。
「アイツは、オイラに任せろ。まだ動けねぇーだろ?」
「う、うん……。ごめん。お願い……」
シオの言葉に、俯き謝る。冬華の言葉を聞き、シオは悲しげな表情を浮かべると、そのまま家を出て行った。セルフィーユを追って。部屋は静まり返っていた。誰もが口をつむぎ、静かな時が刻々と過ぎて行く。