第30話 男を追って
駆けていた。
腐敗臭のするスラム街を。
ひたすら全力で。
ゴミ箱を倒し、人とぶつかり、絡んでくる物取りを斬りひたすら走る。そんなジェスの姿を追うクリスは、そのスラムの惨状に表情をしかめ、クッと奥歯を噛む。こんなにも酷いモノだとは知らなかった。だからこそ、クリスは思わず足を止めそうになる。少しでも彼らに出来る事があるならと。
だが、ジェスはそれを制する。
「立ち止まるな! 走り抜けろ! ここにはここのルールがある。お前に出来る事何て無い。今やるべきなのは、アイツを、あの男を殺す事だけだ!」
ジェスがスラム街に入った最初にクリスに言った言葉だった。その言葉を思い出し、クリスはただ奥歯を噛み締め、拳を握り締め走り続けた。
そんな二人をスラムの人達は冷たい目で見据えた。こんな所で何をしてるんだと、言わんばかりの視線。それは、クリスの味わった事の無い冷ややかで同時に胸が押しつぶされてしまいそうな程だった。
どれ位走り続けたか分からないが、ジェスがゆっくりと足を止める。スラム街の真ん中で。それにあわせ、クリスも足を止め、表情を強張らせる。そこに転がっていた。真っ二つに切り裂かれた複数の肉体が。今まで生きていたであろうその肉体から溢れる血の臭いに、クリスは鼻と口を押さえ、ジェスは右膝を地面に着くとその血を右手で触れる。
「まだ暖かい……アイツがここを通ってからまだ間もないな」
「しかし……酷いな……」
「ああ。血に飢えた獣の様だ」
眉間にシワを寄せるジェスがゆっくりと立ち上がる。リットを殺された怒りで暫し興奮していたが、今はもう大分落ち着いている様に見えた。小さく息を吐くジェスは、やがて前を向く。幸い、ここは一本道。この先ずっと真っ直ぐ走り続ければ、あの男の背中を捉える事が出来る。
そう確信し、ジェスが口元に笑みを浮かべた。
「行くぞ……」
「ああ」
ジェスの言葉にクリスも静かに答え、転がった残骸を横目に走り出す。血溜まりを踏み締め、血飛沫が舞う。二人の足元は血の雫を浴び赤く染まり、その足跡がその道に暫し続いた。
二人の呼吸音が重なり、静かな足音は決して重なる事無く乱れて響く。その時、強い殺気が二人の向かう先で広がり、二人は静かに足を止めた。
「今のは……」
「あの男のモノじゃない……」
「じゃ――」
クリスが言いかけたその時、銃声が響く。雷鳴の様な轟々しい銃声が――。周囲を一瞬にして静寂が包む。息を呑むクリスとジェスは顔を見合わせた。広がっていた殺気が銃声の後消滅したからだ。それが何を意味するのか、すぐに理解し、クリスは「くっ」と声を漏らし走り出す。ジェスもそれに続き黙って駆けた。
胸の奥がざわめき、クリスの足取りは自然と速くなり、次第に呼吸の乱れが荒くなっていく。あの男の放つ異様な雰囲気を思い出し、体が知らず知らずの内にその恐怖に萎縮していた。その為、普段ならこの程度で息など上がらないが、クリスの呼吸は荒く辛そうだった。
「なっ……」
「くっ……これも、アイツの……」
そこへ辿り着くと、一人の女が泣き崩れていた。一つの肉体の前で蹲って。声を必死に押し殺している様だったが、その口から漏れる嗚咽はとてもじゃないが押さえきれるものではなかった。
横たわるその肉体。止め処なくあふれ出す鮮血が、床と彼女の足を赤く染める。その姿は見るに耐えなかった。思わず目を背けてしまうクリスは、奥歯を噛み締めると小さく息を漏らした。泣き崩れるその女に昔の自分が重なって見えたのだ。拳を握るクリスに、ジェスは静かに告げる。
「行くぞ」
と。短い言葉を。
その言葉に僅かに頷いたクリスは、「ああ」と小声で返し、その女の横を通り過ぎた。彼女の姿を横目で見据えて。
暫く走っていると、ジェスの命により集められたギルドのメンバーと合流した。皆、リットが殺された事、仲間が殺された事を聞かされ殺気だっている。各々が完全武装し、戦う準備は万全だった。そして、誰一人として口を開かないこの状況が恐ろしく感じた。その為か、人々は自然と道を開け、その視界にあの和服の男の姿が入った。
「ジェス! アイツだ!」
門を潜り、街を出ようとするその男の後姿。束ねた髪が揺れ、下駄の澄んだ足音だけが僅かにクリスとジェスの耳に届く。その姿を確認し、ジェスの目付きが変わる。殺意の篭った怒りの目へと。そして、叫ぶ。腹から一気に声を振り絞り。
「止まれぇぇぇっ! そこの男ぉぉぉぉっ!」
ジェスの叫び声に、和服の男は上半身を僅かに横へと向けると、顔をコチラへと向ける。揺れる前髪、その合間から覗く鋭い眼差し。その奥に見える赤い瞳が不気味に輝く。そして、青白い顔に僅かな笑みを浮かべると、そのまま体を正面へと向けた。
興味が無いと、言わんばかりのその態度にジェスの額に青筋が浮かぶ。鼻筋にシワを寄せ、怒りをあらわにしたジェスは、その手に剣を抜く。白刃の片手剣を。
それと同時に体勢を低くし加速し、一気に男との距離を詰めようとした。だが、その時、門を出た和服の男が一人の少年とすれ違う。何かを告げたのか、和服の男とすれ違うと、その少年の表情が強張り、腰の剣の柄を握っていた手が落ちる。
遠目からの為、クリスもジェスも何があったのか分からなかった。だが、次の瞬間、全てを理解する。彼の背後に吹き上がる赤黒い炎の壁によって。
皆が一斉に足を止め、土煙が舞う。ジェスは渋い表情を浮かべ、少年へと視線を送った。俯く少年。その右手が右目を押さえ、ゆっくりと顔が上がった。
道を塞いだ彼は、あの男の仲間。そう判断していたクリスとジェスだったが、その表情は何処か悲しみを宿しており、何か思いつめた様な瞳を向けられ、クリスとジェスは彼はあの男の仲間では無いと直感的に理解した。
「そこを通してくれないか?」
ジェスが今にもその少年に切りかかって行きそうな皆を片手で制し、静かで穏やかな口調で少年へと問う。怒りを、その殺気を押し殺し、その少年に対し最善の態度で告げたその言葉に、少年は首を振った。ここまで来て、あの男を見失う。そう考え、ジェスの怒りが言葉に表れる。
「退け! クソガキ!」
口調が変わり、その少年の表情が曇る。それと同時に他のメンバーが喚声を上げ、周囲一帯を呑み込む。大気を揺るがし地鳴りの様に轟くその声に、少年の右手が静かに右目から離れ、腰にぶら下げた剣の柄を握った。
その瞬間、皆の目に飛び込む。その少年の血の様に真っ赤な目。その目に皆の喚声は静まり、数人の男が後退り、声を上げた。
「な、何だ! あ、あの赤い眼……」
「ば、化け、化け物!」
二人の声に、一気に部隊がざわめく。
だが、クリスとジェス、残り数人はただその目を見据えていた。そして、ジェスが後退した者達を鼓舞する様に声を上げる。
「ビビッてんじゃねぇ! 相手は一人だ! それに、奴は魔族だ……手加減なんて必要ねぇ!」
ジェスのその言葉で、クリスは気づいた。その耳が尖っている事に。そして、以前街ですれ違った魔族の少年である事に。その瞬間、体の底からわきあがる。魔族に対しての憎悪。薄らと漂う殺気が冷たくその場を包む。
その異変に最初に気付いたのは魔族の少年だった。驚き自然と息を呑む。その眼の瞳孔が開いたその少年の目を真っ直ぐに殺意の篭った目で見据えるクリス。その横で、ジェスが剣を抜き静かに告げる。
「退かねぇーなら、力付くで通らせてもらう!」
と。だが、その言葉に対し、一歩前へと踏み出したクリスが「――待て」と静かに告げ、更にゆっくりとその少年の方へと歩みだす。その手に自然と剣を呼び出し、ゆっくりと。
そこでジェスもようやく気付く。クリスの放つ異様な殺気に。