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ゲート ~白き英雄~  作者: 閃天
最終章 不透明な未来編
295/300

第295話 怒れる獅子

 西館から古城へと侵入した冬華達はエントランスへと足を踏み入れていた。

 西館はほぼ崩壊していた。天井は崩れ、道はただ一つ。エントランスへと続く廊下だけだったのだ。

 吹き抜けの天井を見上げれば、古びたシャンデリアがゆらゆらと揺れ、ガラス片をパラパラと落としていた。

 くすんだ赤絨毯の敷かれた中央階段。その踊り場には巨大な絵画が埋め込まれ、エントランスを彩っていた。

 不気味な雰囲気の漂うその場所に佇む冬華は、寒気を感じ身を震わせる。何か嫌な感じがしていた。

 そんな冬華に、イエロはピョコピョコと歩みを進め、


「どうかしたのですか?」


と、脳天気な声をあげた。

 そんなイエロに怪訝そうに眉間にシワを寄せる冬華は、鼻から息を吐く。

 この状況で、何故そんなに落ち着いていられるのか、冬華にはわからなかった。


「どうかしたも何も……どう言う事よ? 東館の通路崩れてるじゃない?」

「だから、言ったのですよ? ここからは二手に別れると」


 冬華の言葉に不思議そうにそう答えたイエロ。当然と言えば当然の答えだが、冬華はてっきり城内で合流するものだと思っていた。

 故に落胆は大きかった。状況が状況だが、もう少しクロトには伝えたい事があった。話したい事、聞きたい事もあった。ここに来るまで、どんな顔をしてあったらいいのか、とか色々考えていた為、冬華はそれらを思い出し唐突に恥ずかしくなり、両手で頭を抱えその場に座り込んだ。


「はうぅっ……もう、なんで私がこんな恥ずかしい思いしなきゃいけないのよ……」


 小声でそう呟き、真っ赤になった耳を肩口まで伸ばした黒髪の合間から覗かせていた。

 突然の冬華の行動に、イエロは小さく首を傾げ、両翼を組む。

 そんな折だった。


「で、何処に向かえばいいんだ?」


 セラを抱えたアオが、イエロの背に尋ねた。落ち着いた面持ちのアオの問いに、イエロはジャンプして振り返る。

 全く持って無駄な動きの多いイエロに、不愉快そうな表情を浮かべるアオは、とりあえず一つ深呼吸をした。そして、もう一度同じことを尋ねる。


「何処へ向かえばいいんだ?」


 その問いへの回答はシンプルだった。


「それは、冬華っちに任せるのですよ!」

「えっ! ええっ!」


 いきなりのイエロの発言に蹲っていた冬華は驚きの声を上げ、飛び上がる。


「ちょ、ちょっ――」

「ちょっと待て!」


 冬華の声を遮り、クリスが怒鳴った。いや、怒鳴ったと言うには語弊がある。少しだけ大きな声を張り上げた。

 特別怒っていると言うわけではなく、少々疑問を抱いたのだ。

 そんなクリスの声に、イエロはぴょんと跳ね体を向ける。


「どうかしたのですか?」


 何食わぬ顔でそう言うイエロに、クリスは呆れたように小さく頭を振った。


「イエロ……。お前は、確か、未来視が出来るんじゃないのか? この先の展開を知ってるんじゃないのか? だからこそ、アオは何処へ向かえばいいのか、お前に聞いたんじゃないのか?」


 苛立ちからなのか、クリスの口調は少しだけ早く、語気を強める。そんなクリスに、困ったように眉尻を下げるイエロは、右翼の先を口元に当てた。


「うーん……。こう言う言い方は悪いのですが……未来視に頼っていいのですか? 未来を変えようと言うのに?」


 残念そうなイエロのその言葉に、クリスはムッとする。未来を変える為には最悪の未来を知っておく必要があると、クリスは考えていた。

 ここで選択する結果が、最悪な方向へと進んでは何の意味も無い。故にクリスはイエロを睨み、腕を組む。


「未来を変える為には、知らなきゃいかんだろ? どう言う未来があるのかを!」

「そんな事無いのですよ? そもそも、どうして未来を変えようって話になっているのですか?」

「そりゃ、お前が未来視したからだろ?」


 アオが不満そうにそう言うと、イエロは首を傾げる。


「私は一度も未来視なんてしてないのですよ? そもそも、私の未来視は断片的なものしか見えないのです。そんな曖昧な未来視を頼りにするよりも、私は自分で選び、自分自身で歩む道を大切にしたいのです」


 胸に右翼を当て、瞼を閉じるイエロは、小さく頷く。


「だからこそ、私は、この決断は英雄であり、この世界を救う事の出来る冬華っちにして欲しいと思っているのですよ」


 瞼を開きニコリと笑うイエロに、クリスとアオは渋い表情を浮かべる。そんな二人にイエロは更に続ける。


「そもそも、今、この瞬間も時は刻み、未来へと進んでいるのですよ? どうですか? 未来を知らずとも、進む事は可能なのです。未来を知って、立ち止まるのと、知らずに進み続けるの、どちらがいいのですか?」


 説得力のあるイエロの発言にクリスもアオも諦めたように息を吐いた。


「でも、いいのか? それって、冬華に全てを背負わせるって事じゃないのか?」


 今まで黙って話を聞いていた剛鎧が静かに口を挟む。腕を組み、静かな面持ちの剛鎧に続き、ウォーレンも一歩踏み出し怪訝そうな表情で口を開く。


「英雄だからって、なんでも背負わせるってのは、俺は反対だ」


 身振り手振りでそう宣言するウォーレン。二人の反対に、イエロは微笑する。


「でしたら、責任を負わせないよう、皆さんが頑張ればいいのですよ。ファイトなのですよ!」


 えらく客観的に物を言うイエロに、剛鎧・ウォーレン共に複雑そうな表情を浮かべた。

 そんな二人に対し、アオは失笑し、


「コイツはそう言う奴なんだ……気にするな」


と、目を細めた。

 ここに来て、責任重大な選択を強いられる冬華は、硬直していた。完全に放心状態の冬華に、話は聞こえていたのか定かではない。

 だが、ここで放心してもらうわけには行かず、イエロはぴょんと跳ね冬華の方へと体を向けた。


「さぁさぁ! 冬華っち! 何処に向かうか、決めて欲しいのですよ!」


 力強いイエロの声に、冬華は我に返る。そして、慌てて両手を体の前で大きく振った。


「ま、まま、待って待って! 無理無理! ぜっっったい無理!」


 強い拒絶反応に、イエロは「えぇーっ」と声を上げた後、ジト目を冬華へと向ける。


「ここは、空気を読んで欲しいのですよー。もう、勢いとかで、パパッと」

「無理! 勢いとか、流れとか、ノリとかで決める事じゃないじゃない!」


 涙目でそう声を荒げる冬華。その発言は、尤もだった。だが、そんな事を言わせないのがイエロだった。


「いいのですよ。考えても結果は変わらないのです。だったら、勢いと流れ、ノリで決めてくれた方がいい結果に繋がるのです!」


 勢いと流れとノリで、力強くそう言い放つイエロに、「ひぃっ」と声を上げた冬華は、身を引いた。

 もう逃げられない。そう思った冬華は、目を背け、


「じゃ、じゃあ、上! 上に行く! それでいいでしょ!」


と、大声をあげた。

 冬華の声に吹き抜けになった天井を見上げるクリス・アオ・剛鎧・ウォーレンの四人。その視線の先には揺れるシャンデリアがあった。


「あーあ……ここって、何階まであると思う?」


 アオがボソリと呟く。


「少なく見積もっても四……以上か?」


 ウォーレンが右手を口元に当て少し考え答える。


「しかも、西館、東館もあって、結構内部も広く複雑になっているのですよ」


 満面の笑みでイエロが付け加えると、剛鎧は呆れたようにため息を吐いた。


「道のりは遠いな……」


 右手で頭を掻き、剛鎧は歩き出す。

 それに続くようにセラを抱えるアオ、ウォーレンと続く。

 赤絨毯の敷かれた階段をあがる三人を尻目に、残った女性三人は顔を見合わせる。白銀の髪を揺らすクリスは、深く息を吐いた後に冬華へと微笑した。


「行きましょうか? 冬華」

「う、うん……」


 申し訳無さそうに冬華が返答すると、イエロは右翼を振り、


「それじゃあ、後のことはよろしくなのですよー」


と、歩き出したクリスと冬華を見送った。

 何事もないように階段を一段、二段と、上がった所で冬華とクリスは足を止め振り返る。


「ちょ、ちょっと!」

「お前は来ないのか!」


 冬華とクリスが声を荒げると、イエロは困ったように頬を掻き、


「申し訳ないのですが、私はちょっと野暮用があるのですよ」


と、微笑した。文句を言いたい所だったが、そんな二人に先に進んだアオが足を止め、


「おい。急ぐぞ」


と、上から声をかける。

 その声に冬華とクリスは顔を見合わせ、渋々と階段を駆け上がった。

 先頭のアオは二人が並ぶのを待つ。そして、二人が自分に並ぶと、ゆっくりと足を進め、口を開く。


「アイツは……多分、もう戦えない。それに、もしかしたら、限界で動く事も出来ないかもしれない」


 深刻そうなアオの声に、冬華は怪訝そうに首を傾げる。とてもじゃないが、限界そうには見えなかった。

 明るく普段通りのように見えた。それは、クリスも同じだったのか、不思議そうに尋ねる。


「私には特に変わった様には見えなかったが? どうして、そう思うんだ?」


 クリスの言葉にアオは小さく息を吐き、


「アイツは、人じゃない」


と、静かに告げる。

 アオの言っている事が分からず、首を傾げる冬華。だが、クリスは意味を悟ったのか言葉を呑んだ。

 沈黙が数秒続き、それを嫌ったのかウォーレンが口を挟んだ。


「もしかして、改造人間って事か?」


 複雑そうな表情のウォーレン。魔導科学の最先端であるミラージュ王国の国王であるウォーレンも、常々噂は耳にした事があった。

 北の大陸フィンク、ヴェルモット王国では非道な人体実験が行われている、と。しかも、その人体実験にミラージュ王国の技術も一部使用されている。

 ただ、証拠がない。現物を見たわけでもなく、実際に改造人間を見たわけでもない。故に、ヴェルモット王国を問いただす事は出来なかった。


「……そうだな。まぁ、本人から言わせれば、ただの化物らしい」


 何処か悲しげなアオに、クリスは怪訝そうに尋ねる。


「どう言う事だ? 何故、改造なんて……それに、人体実験を行ったとして、成功していたならもっと世界中にその話が広がっててもおかしくないだろ?」

「そりゃ、隠すだろうな。全力で」


 剛鎧がそう呟き不愉快そうに眉間にシワを寄せる。

 そんな剛鎧の言葉にアオも小さく頷く。


「ああ。非人道的なそんな事を公には出来ないだろ?」

「じゃあ、イエロは? どうして、イエロは隠してるの?」


 冬華がそう尋ねる。すると、アオは複雑そうに右手で頭を掻く。


「まぁ……そうだな。イエロは元々、人体実験の後、廃棄された存在なんだ」

「廃棄って……そんな、ゴミみたいな扱いって……」


 絶句する冬華。クリス、ウォーレン、剛鎧の二人も複雑そうに眉をひそめる。

 一方で、アオは苦笑し深く息を吐いた。


「そうだな……。けど、そのおかげで、今のイエロがいる」

「どう言う事?」

「まぁ、なんだ……。イエロは元々頭脳明晰でな。その上、人体実験により、より多くの知識を得て、更に魔力・聖力をも肉体に宿した。ただ、彼女の心臓はそれに耐え切れなかったんだろうな。急激に生命維持が難しくなり、破棄となったらしい」


 サラッとイエロの過去を語るアオに、皆、沈黙する。だが、アオはその場を和ませようと微笑し、


「けど、彼女は諦めず、心臓の代わりに魔法石を代用する事にしたんだ。だから、イエロには心臓はなく、核となる魔法石がその胸には埋め込まれている」


と、言い鼻から息を吐いた。

 アオの説明を聞いた冬華は、眉をひそめ、口を開く。


「それで……どうして、イエロが限界だって分かるの?」

「あぁ……そうだな。今までイエロは特殊な魔法石を核として使っていた。だが、それを奪われてな。今は、普通の魔法石を使用している。ただ、それでは、イエロの体はもたない」

「もたないって……」


 怪訝そうに冬華が呟くと、アオはもう一度鼻から息を吐く。


「考えてみろ。イエロは何度空間転移を使用した? アレは、膨大な精神力を消費するものだ。常人では、一度、二度が限界だ。それをアレだけ使用したんだ。ガタが来ていてもおかしくはないだろう」


 アオの言葉に、冬華は「そっか……」と呟き、後ろを振り返る。イエロがどう言う状態なのかは、目視する事は出来ない。だが、なんとなく、動けなくなっている姿が想像できた。

 だからこそ、冬華はギュッと手を握ると、


「それじゃあ、急ごう! 全部終わらせて、イエロを迎えに行こう!」


と、力強く声を上げ階段をあがる。その後姿に、クリスは微笑し、「そうですね」と、後に続いた。

 そんな二人へと続くように、アオ、剛鎧、ウォーレンと続き階段を上り始めた。



 場所は古城前広場へと移る。

 地面は裂け、陥没し、大きく変貌した地形。

 度重なる衝撃音が轟き、土煙が舞い、地上はクレーターの様な跡が幾重にも残されていた。

 その中でも最も大きく陥没したその中心に、ルーイットの姿があった。右腕は倍以上に膨れ上がり、僅かに湯気があがっていた。

 そんなルーイットからやや離れた場所に片膝を着く魔術師は、息を切らせ眉間にシワを寄せる。

 一方、シオとケルベロスはやり辛そうにしていた。

 その理由は――


「邪魔だ! ルーイット!」


 ケルベロスが怒鳴り、


「さっきから、飛んでは落ちて、飛んでは落ちてで、足場が最悪じゃねぇか!」


と、シオも続けて怒声を轟かせた。

 そんな二人の声に紺色の長い髪を揺らしルーイットは振り返る。膨れ上がっていた右腕は元に戻り、右の獣耳を閉じ、


「てへっ。やり過ぎちゃった?」


と、舌をペロッと出しおどけてみせた。

 ルーイットの態度に、シオとケルベロスはこめかみに青筋を浮かべる。

 この辺り一帯がクレーター状に陥没しているのは、全てルーイットの所為だった。跳躍しては急降下し、地面へと拳を叩きつける。これを繰り返した結果だ。

 何も考えずの力任せのゴリ押し。一撃一撃の破壊力は高いものの、単調で単純な一撃は容易にかわす事が出来た。

 故に魔術師には殆どダメージがなく、地形だけが変わり果てていたのだ。

 呼吸を整え、背筋を伸ばすシオは、首を右へ、左へと曲げ骨を鳴らし、鼻からフッと息を吐いた。そして、横目でケルベロスを見据える。

 ケルベロスはすでに肩で息をし、額には大粒の汗が浮かんでいた。魔力開放の影響で、常に魔力は放出されている状態だった。ルーイットが無駄に攻撃を仕掛けている間もずっと。

 正直、ケルベロスがあとどれくらいの時間戦えるのか。それが、戦況を大きく左右するとシオは考えていた。


「悪いが、お前らみたいに遊んでいる暇はないんだ」


 唐突にそう口にし、両手に蒼い炎を灯すケルベロス。

 その言葉にピクリと右の眉を動かすシオは、不快そうに眉間にシワを寄せた。


「おい! 誰が遊んでるだ!」


 心配して損をした、そんな風に怒鳴るシオだが、ケルベロスはそれを無視し、


「黙って引っ込め」


と、呟き走り出す。

 後塵を巻き上げ、一気に魔術師へと突っ込むケルベロスに、


「テメェの言う事なんて聞くかよ!」


と、シオも続く。

 幾ら魔力開放を行ったからと言って、本気の獣魔族に身体能力では勝てるわけもなく、シオはあっさりとケルベロスを抜き去る。そして、そのまま魔術師へと突っ込んだ。

 しかし、魔術師はゆっくりと立ち上がると、口元へと薄っすらと笑みを浮かべる。


「さっきから……俺の事、馬鹿にしてねぇ? 言っとくけど、テメェら如きが束になっても俺には勝てねぇよ!」


 魔術師は左手をシオへとかざす。魔力が手の平に渦巻き、


「フレア」


 静かな声と共に、魔力は赤く輝き、手の平へと圧縮される。

 その瞬間、シオはピクリと獣耳を動かす。圧縮される赤い光が視界にハッキリと映り、シオは眉間にシワを寄せる。

 魔力耐性の無いシオ。このまま行けば、間違いなく直撃は免れない。それは、シオにとって致命傷となる一撃になる。

 思考を働かせるシオだが、すぐに考えるのを止め、本能と直感に従い更に一歩踏み込んだ。右拳を腋の下へと握り込み、その拳に精神力を集める。

 踏み込んだ足に体重を乗せ、そのつま先でしっかりと地面を捉えた。


「獣拳!」


 シオの上体が僅かに左へと傾き、踏み込んだ足のつま先が地面を掻きながら外へと半円を描いた。

 それと同時に、魔術師の左手から放たれる。紅蓮の炎。それが、一瞬にしてシオを包み込むように広がった。

 奥歯を噛むシオ。ここで、やめるわけには行かない。例え、分が悪くても、打ち切るしかなかった。

 腰を回し、左肩を引き、右肩を押し出す。そして、腋の下に握りこんだ右拳を、折りたたんだ腕を捻るように打ち出した。

 風を切る音は一瞬。後に広がるのはパンッと甲高い破裂音と衝撃。シオをの視界を遮る紅蓮の炎には風穴が空き、そこから向こう側にいる魔術師の姿がハッキリと見えた。

 ふてぶてしく笑む魔術師の顔が――。


「ッ!」


 表情を険しくするシオ。炎に空いた風穴は、みるみる内に塞がっていく。まるで、お前の力など無意味だと言わんばかりに。


「炎に焼かれて死ね」


 完全に塞ぎ切る直前に、聞こえた魔術師の言葉が、シオの耳の残っていた。

 開いていた左手を、魔術師は力強く握り締める。それが、合図だったのか、大きく広がっていた炎はシオを呑み込むように凝縮されていく。

 そんな折だ。


「引っ込んでろと言っただろ!」


 ケルベロスの声と共に、シオは襟首を引かれる。


「うぐっ!」


 僅かな呻き声を上げ、シオはそのまま後方へと投げ飛ばされる。その代わりに炎の中へと飛び込んだケルベロスは、その中で魔力を練り上げた。

 そして、跳ねるように上体を引き上げると、右拳を足元へと向かって振り下ろした。


「蒼炎拳!」


 ケルベロスの右拳が地面を打ち砕く。右拳は地面へと減り込み、そこを中心に地面には深い亀裂が無数に広がる。と、同時に亀裂から蒼い光が溢れ、やがて爆発。砕石が弾け、爆風と共に蒼い炎が周囲へと広がった。

 衝撃と共に噴き出した蒼い炎。それは、一瞬にして魔術師の放った紅蓮の炎をかき消した。


「いってねぇな! 何しやがんだ!」


 地面を転げたシオは体勢を整えると、瞬時にケルベロスへとそう怒鳴った。だが、すぐに息を呑む。

 その目に映るのは、砕けた地面の中心に佇むケルベロス。褐色の肌を僅かに焦がし、黒煙を噴かせるその姿はとても痛々しく見えた。

 両拳に灯した蒼い炎は揺らめき、火の粉が僅かに舞う。痛々しくただれた皮膚。そこから黒ずんだ粘り気のある血が滴れる。

 そんなケルベロスへと、魔術師は両手を叩き賛辞を送る。


「見事だよ。爆風とその火力で俺の炎をかっ消すなんて。でもさぁ……」


 魔術師は手を止め、その口に薄ら笑いを浮かべる。


「それ――いつまで持つのかな?」


 静かな口調、冷ややかな眼差しに、ケルベロスの表情が険しくなる。

 そして、シオも険しい表情をする。ケルベロスの現状を理解している。魔力開放はそれだけ消耗が激しい。どれだけ、ケルベロスに魔力が残っていたのか分からない。当然だが、限界以上魔力が出る事は無い。

 意地や気力でどうこう出来るものじゃない。魔力が底を尽きれば終わりだ。

 シオの考えでは、ケルベロスの魔力開放の効果はもうすぐ切れる。故に、ケルベロスも額に大粒の汗を滲ませているのだ。


「最初から飛ばし過ぎなんだよ。それとも、俺を瞬殺出来るとでも思ってたのか?」


 大手を広げ、声を高らかに言い放つ魔術師に、ケルベロスの肩がゆっくりと上下する。その後ろ姿を見据えるシオは、奥歯を噛み、拳を握り締める。

 そんな中、脱力するケルベロスは落ち着いた面持ちで魔術師へと強い眼を向けた。


「テメェを瞬殺出来るなんて思ってないさ……」


 そう言い放つケルベロスに対し、


「の、割に余裕なく魔力開放しちゃって、勝負を焦ってるようにみえるけど?」


と、右手を顎へと当て考えるような仕草を見せる魔術師だが、すぐに閃いたように顔をあげると目元を緩める。


「そっかそっか。もしかして、俺に勝てないって知って、自棄糞になってんのかな?」


 肩を揺らし笑う魔術師に、シオはイラッと来る。だが、シオが何かを言う前に、ケルベロスはそれを鼻で笑った。

 その声が聞こえたのか、魔術師は笑うのをやめる。そして、不快そうに眉間にシワを寄せ、ケルベロスを睨んだ。

 ゆっくりと腰を上げるシオは、衣服に付着した土を払い、不満気に目を細めた。ケルベロスが何も考えずに魔力開放を使用するワケがない。自棄糞なんてなるわけが無い。故に、シオは静かに息を吐き、その背を見据えていた。


「自棄糞? そんなわけないだろ。俺は俺のすべき事をするだけだ」


 握り締めた拳に魔力を込め、蒼い炎をまとった。

 そんな折、シオはようやく、ケルベロスの今までの発言の意味を理解する。


“悪いが、お前らみたいに遊んでいる暇はないんだ”


 これは、言葉通り、魔力開放の効果時間は短い。お前達と違って、時間が惜しい。と、言う事だ。

 そして、


“黙って引っ込め”


は、ここは俺に任せて休んでいろ。と言う意味だった。

 今に思えば、そうだ。ケルベロスが素直に、下がっていろ、俺に任せろと言うわけがなかった。故に、シオがこの答えに行き着くまで時間がかかった。

 それでも、“俺は俺のすべき事をするだけ”この発言で全てを一本に繋ぐことが出来た。

 非常に不満ではあった。だが、シオは何も言わず静かに息を吐いた。

 そんな折だ。


「もう! 私もいるんだから!」


と、ルーイットが声を上げる。そして、一歩、二歩と足を進めた後に、コケた。何も無いその場所で。


「痛っ!」


 ルーイットのその声に、シオとケルベロスは目を向ける。そして、目を細めた。


「アイタタ……」


 膝を地面に打ち付け、血を流すルーイットは、涙目を浮かべていた。

 そんなルーイットの姿に、シオとケルベロスは思い出す。ルーイットが獣魔族では稀な超がつくほどの運動音痴だと言う事を。

 右手で頭を抱えるシオは、大きくため息を吐いた。


「ルーイット! お前は黙ってろ!」


 シオが呆れた様子の声でそう言うと、


「うっさい! 人に命令しないで!」


と、乱暴な口調で言い放つ。だが、ケルベロスの意図を理解しているシオは、落ち着いた口調で、


「いいから……今はおとなしくしてろ」


と、ルーイットへと告げた。あからさまに不満気に頬を膨らせるルーイットだが、シオはそれを無視し魔術師へと目を向けた。

 三人の視線が魔術師へと向けられる。その視線に魔術師はふてぶてしく微笑する。明らかな余裕の現れだった。

 肩を上下に揺らすケルベロスが、右足をすり足で前へと出した。その動きに魔術師は鼻から息を吐く。


「まだやんだ。まぁ、いい加減飽きたし、そろそろ殺すよ」


 両手を広げ、膨大な魔力を広げる魔術師は、群青の髪を揺らす。


「そうだな……そろそろ、終わりにしようか」


 肩で息をするケルベロスは、重心を落とした。そして、右拳に蒼い炎をまとう。

 それを見届けた後、魔術師は右手をかざす。


「アクアベール」


 かざした右手を起点とし、水の膜が魔術師を覆い尽くす。

 完全なケルベロス対策だった。火属性しか使えないケルベロスにとって、その水の膜は致命的なものだった。

 険しい表情のケルベロスに、魔術師は肩を竦め頭を振った。


「さぁ、どうする? テメェの攻撃は俺まで届かねぇぞ」


 挑発的な言葉に、ケルベロスは地を蹴り、


「んな事は関係ねぇよ」


と、右拳を水の膜へと叩き込んだ。衝撃音と共に、水飛沫が散る。そして、噴き上がるのは蒸気。

 相当な破壊力を持ったその一撃だったが、その拳は水の膜に完全に止められていた。見た目と違い、とても硬い厄介な壁だった。

 それを、知ってもなお、ケルベロスは拳を振るう。今度は炎をまとわず左拳を。だが、拳は当然の如く水の膜に防がれる。そして、皮膚が裂け、鮮血が弾けた。


「くくくっ! 残念だったな。テメェの脆弱な力じゃこの防壁は突破できねぇよ」


 腕を組む魔術師は、左手を血に染めるケルベロスを見据える。だが、魔術師は手を緩めず、全身に魔力を込め、片膝を着き、両手を地面へと下ろす。


「羅生門!」


 高らかに響く魔術師の声。と、同時に起こる地響き。大地が大きく揺れ、やがて地面を突き破り姿を見せる。高さ十メートル、横幅八メートル程の赤い門が。

 両開きの扉は堅く閉ざされ、不気味な雰囲気が漂っていた。門を見上げるケルベロスは瞬時に魔力を拳に込める。だが、それを阻止するように、水のベールが範囲を広げた。


「おっと。コイツを破壊されちゃ困るな。開門までの十分間。お前らは何も出来ず死を待つんだよ」


 大手を広げ、高笑いする魔術師に、シオとルーイットは唇を噛んだ。本能的にそれが相当危険なものだと感じ取ったのだ。


「どうするのよ! あんなのに守られてたら手出しなんて出来ないじゃない!」


 目尻をつり上げ怒鳴るルーイットだが、シオは黙ってケルベロスの背を見据える。ケルベロスを信じ、今は託すしかない。自分のすべき事をすべく為に、腹の底に精神力を集めて待つ。その時を。

 沈黙するシオに、ルーイットは奥歯を噛む。何故、シオが静観しているのか、理解出来ない。シオとケルベロスが仲が良くない事は昔からだが、ここまで酷いとは、とルーイットは悔しげな表情を浮かべた。

 呼吸を乱すケルベロス。魔力開放の効果時間はあと僅か。もう全てを絞り出すのみ。

 故にケルベロスはゆっくりと両足を肩幅に開き、重心を落とす。


「全てを……尽くす……」


 ケルベロスは全ての魔力を血液へと流し込む。そして、血液中に蒼い炎を灯す。


「燃やせ――血液を!」


 蒼い炎が血液を燃やし、ケルベロスの全身を青白く発光させる。

 と、同時に、ケルベロスの褐色の肌は赤く染まり、黒髪は一気に白く変化する。完全に魔力が消失した。残すのは、今、血液を燃やし、血流を同調し加速させている蒼い炎のみだった。


「命を燃やし、お前を討つ!」


 ケルベロスは宣言した。そして、地を蹴った。地面が砕け、大量の土が舞う。

 地面を蹴ったケルベロスは先程の比では無い速度で踏み込み、拳を水の防壁へと打ち込んだ。

 衝撃音と水の弾ける音が広がり、赤い飛沫が飛び散る。打ち込んだ拳が弾かれ、それと同時にケルベロスはもう一方の拳を突き出す。水の防壁は完璧にケルベロスの拳を受け止め、赤い鮮血だけが飛び散る。

 それでも、ケルベロスは交互に拳を打ち込む。右、左、右、左と交互に。限界は等に超えていた。水の防壁を殴りつける拳は魔力耐性すら失い、激しく損傷していた。血が飛び散り、自らの顔に付着する。それほど、酷く拳は血まみれだった。

 そんなケルベロスの背を見据えるシオは、血がにじむ程強く拳を握っていた。堪えていた。


「まずいよ! シオ! このままじゃ……」


 不安げに声を上げるルーイットがシオへと目を向ける。だが、シオは動かない。

 何も言わないシオに、ルーイットは業を煮やし、


「もういい! 私がなんとかする!」


と、声を荒げ、屈み込むと地を蹴り跳躍した。

 ルーイットが跳躍したのを見て、シオは重心を落とした。その眼が見据えるのは、水のベールに覆われた魔術師の姿。いつでも、飛び出す準備は出来ていた。


「何発殴っても無駄だ。テメェ程度の力じゃ――」


 何度も拳を叩きつけるケルベロスにそう言いかけた魔術師の顔に、赤い液体が付着する。

 それを、親指で拭う魔術師は、不可解そうに目を細めた。何故なら、その血は魔術師のものではない。なら、誰のものか、そう考える魔術師の眼に映るのは水の防壁へと拳を叩きつけるケルベロスの姿だった。

 そこで、ようやく魔術師は気付く。水飛沫が防壁の内側へと広がっている事に。


「な、何だ! まさか――」


 驚愕する魔術師の瞳孔が広がる。

 強固な水圧の防壁を突き破り、ケルベロスの拳が防壁の内側に到達していた。それが、引かれ、続けざまに同じ箇所に拳が突き出される。

 水の防壁が塞ぎ切る前に拳は水飛沫を上げ、内部へと侵入する。


「ッ! 強引な力押しかよ!」


 険しい表情を浮かべる魔術師だが、瞬時に右手をケルベロスへと向け、魔力を込める。目に見えて分かる程、ケルベロスは疲弊していた。拳も、痛々しく裂け血が溢れる。

 故に魔術師は薄っすらと笑みを浮かべ、


「まっ、そこが、テメェの限界だがな」


と、右手に集めた魔力を水へと変換した。

 だが、その時だ。天より轟く。


「部分獣化! 右腕!」


 紺色の長い髪を揺らし、右腕を振りかぶるルーイットの声。その右腕は金色に輝きを放っていた。

 その声に顔をあげた魔術師は、不快そうに目を細める。


「チッ! 獣風情が……同じ事を繰り返しやがって」


 不快そうに眉間にシワを寄せ、魔術師は吐息を漏らす。だが、すぐにケルベロスの方へと視線を戻した。

 全くもってルーイットなど相手にしていない。すでに確信しているようだった。この水の防壁をルーイットでは破壊できないと。

 今までのルーイットの攻撃パターンから、その一撃の威力は分かっていた。故に魔術師はルーイットの攻撃では防壁を破壊できないと決めつけたのだ。

 その魔術師の判断に、ケルベロスはクスリと笑う。水の防壁の内側に突き出された左拳から、ポツリポツリと青白く輝く血液が落ちる。


「お前……アイツを甘く見てるだろ……」


 意味深なケルベロスの声。その声は魔術師に聞こえていないのか、反応は無い。

 だが、獣魔族であるシオとルーイットの耳にはハッキリとその声が聞こえた。その声を聞き、シオは地を蹴り、ルーイットは振りかぶった右拳に魔力を込めた。


「雷帝!」


 ルーイットの力強い声。

 ――刹那。轟く雷鳴が全ての音を呑み込む。シオの地を駆けるその音すらも。

 大気を裂くのは閃光は、一瞬の後に地上へと飛来する。強固な水の防壁をいともたやすく打ち砕き、大地を砕く。衝撃で地面は大きく揺らぐ。

 砕けた地面の中心。そこに魔術師はひれ伏す。その背にはルーイットの右拳が減り込んでいた。今までの部分獣化と違い、黒光りする筋肉質なか細い腕。その腕からは黒煙が上がり、激しく稲妻が弾ける。

 呼吸を乱すルーイットの紺色の髪は、雷の影響で逆立ち大きく乱れていた。


「ぜぇ……ぜぇ…………」


 大きく口を開き、両肩を大きく上下に揺らすルーイットは、よろよろとその場を離れ、天を仰いだ。酷く消耗する為、使いたくなかった技の一つだった。

 複数の獣を宿すキメラ型の獣魔族ルーイットの中にある魔獣の力。

 今までの部分獣化では精神力の消耗だけで済んでいたが、魔獣の力を使用するには魔力を消費しなければならない。基本魔力をもたない獣魔族だが、キメラ型のルーイットは魔力を少量だが所有している。それは、体内に魔獣の力を宿しているからだ。

 当然だが、それは戦いで使える程の魔力量ではなく、今回の“雷帝”も全ての魔力を使用し、ようやく一発打てる程度。二度目は無い。故に、外すわけにはいかない切り札だった。

 呼吸を乱すルーイットの肩を、ボロボロのケルベロスの左手が叩く。


「よく……やった……」


 フラつき、今にも倒れてしまいそうなケルベロス。髪は完全に真っ白に変わり、魔力開放の効果は切れていた。

 それでも、ケルベロスは足を進める。

 ケルベロスの動きに、ルーイットは苦しそうに膝に手を付いた。


「む……無理よ……。もう、魔力もない……のに……」

「ああ。テメェも休んでろよ」


 ルーイットの声に答えたのは、シオだった。金色の髪をなびかせ、低い姿勢でルーイットの横をすり抜け、ふらつくケルベロスを追い抜く。

 目指すのは未だにそこに佇む赤い門。これを破壊すべく為、シオは全身に濃い精神力を広げ、それを両拳へと集中する。

 そして、閉ざされた赤い門へと右足を踏み込んだ。


「獅子爪撃!」


 シオの拳が交互に振り抜かれた。右、左、右、左と何度も。鋭い一撃一撃が、閉ざされた赤い門を激しく殴打する。その度に門には鋭い三本の爪痕が刻み込まれた。

 鈍い打撃音と鋭い風切り音が幾重にも重なる。


「うららららっ!」


 雄叫びを上げシオは拳を叩き込み続ける。その拳が裂け、鮮血が迸ろうとも。

 ケルベロスの痛みはこんなもんじゃない、ルーイットの一撃の破壊力はこんなもんじゃない。そう自分に言い聞かせ、痛みに耐え、徐々に拳を突き出す速度を上げていく。

 歯を食い縛り、全力で門を殴り続ける。柱が軋み、門に亀裂が生じる。


「これで、終わりだ!」


 シオは叫び、腰に力を込める。そして、全体重を乗せ、右拳を振り抜いた。

 その一撃は轟音と衝撃を広げる。門へと突き出されたシオの拳が血を噴く。だが、同時に閉ざされた門も音を立て砕け散った。

 呼吸を乱すシオは、ゆっくりと右拳を下ろす。脱力し、息を吐き出し、上半身を前へと倒した。

 崩れゆく門を見据えるルーイットとケルベロス。皆疲弊し、その場を動く事は出来なかった。

 その時、ケルベロスは目にする。蠢く影を――。


「シオ!」


 ケルベロスの叫び声に、シオは振り返る。ルーイットも顔をあげる。二人の視線に映るのは、魔力を失い限界を迎えたケルベロス。

 鮮血が迸り、真っ赤な雫が宙を彩り、ケルベロスの白髪を赤く染める。

 目を見開くシオとルーイット。全てを理解するのに数秒の時間がかかる。その間に、ケルベロスの体は地面へと背中から倒れ、二度三度とバウンドした。深く切りつけられた体から止めどなく溢れる血が、ひび割れた地面へと流れ込む。

 そんな二人の視線の先に、佇むのは――


「くっ……くくっ……おいおい。まさか、羅生門を壊したら終わりとか思ってねぇーだろうな」


 ひび割れた魔導義手の右腕は漏電しているのか、火花が何度も迸り、額からは血が流れ、左足は引きずる魔術師だった。しかし、それでも、魔術師は不敵に笑む。

 だが、その笑みは、シオの逆鱗に触れる。いや、それが引き金となり、目を覚ます。シオの奥底に眠る獣の力が。


「ケルベロス!」


 シオは叫ぶと同時に、地を蹴る。衝撃が広がり、土煙が舞う。地面が砕け、シオは一瞬でケルベロスの横をすり抜け、魔術師へと右足を踏み込んだ。

 だが、魔術師は反応出来ない。と、言うよりも、まだシオがそこに迫っている事に気付いてすらいない。そんな魔術師の顔面にシオの右拳が振り抜かれる。

 鈍く重々しい打撃音が響き、


「ガハッ!」


と、魔術師は鼻と口から血を噴いた。


「シオ!」


 そこで、初めてルーイットも気付く。シオが魔術師を殴打した事に。

 そして、その目でハッキリと確認する。シオのまとう精神力の揺らぎから、獣化の傾向が出ている事を。

 ルーイットの使う部分獣化と違い、完全な獣化。それは、今のシオの体力の消耗具合、肉体的ダメージから見ても、すべきではない行動だった。

 元々、獣化は体に相当な負荷が掛かる。下手をすれば死に至る程の危険もある。それが、例え、獣王の息子であっても。

 金色の髪が逆立ち、振り抜いた拳からは血が噴く。シオの血ではない。殴りつけた魔術師の血だ。

 殴られた魔術師の顔は歪んでいた。


「うおおおっ!」


 シオの雄叫びが轟き、その瞳の色は一段と赤く染まり、獣の様に楕円形に変化する。

 膨れ上がった腕を振りかぶり、膨れ上がった足を踏み込む。その衝撃で地面が砕け、砕石が舞う。そして、大気を裂き、音を裂き、鋭く振り抜かれた拳が魔術師の腹部に減り込む。


「ふぐっ!」


 魔術師の体は地面へと叩きつけられ、大量の血が吐き出される。地面に叩きつけられた魔術師の体は衝撃で弾み、その背にシオは右足を振り抜いた。


「うっ!」


 背骨が軋み、魔術師は呻き声と共に、高らかと蹴り上げられる。そんな魔術師に追い打ちを掛けるように、シオは跳躍した。


「シオ! ちょ……」


 ルーイットは声を上げ、シオを目で追う。だが、すぐに言葉を呑み唇を噛んだ。完全に獣化したシオを止められる力を、ルーイットは持ち合わせていない。その為、ただ見守る事しか出来なかった。

 跳躍したシオは、蹴り上げた魔術師を追い越すと同時に、頭の上まで振り上げた組んだ両手を振り下ろした。

 鈍い打撃音の後、魔術師の体は地面へと叩きつけられる。爆音が轟き、土煙が広がる。地面はその衝撃で砕け、魔術師の体は地面に埋もれていた。

 そんな魔術師の傍に着地したシオは、喉を鳴らす。

 口から――、鼻から――、頭から――、血を流す魔術師。その虚ろな目が、シオを見据える。


「け……ものが……」


 そう途切れ途切れに口にした魔術師は、魔導義手である右腕をゆっくりと上げる。漏電し火花を上げるその右腕に魔力が込められ、その手から炎が放たれる。

 しかし、シオは――


「うがあああっ!」


と、声を上げ、右拳を振り抜き、その炎を殴打した。炎を弾け、火の粉が散る。

 シオの意識が食わていく。心が呑まれて行く。怒りと、内に潜む獰猛な獣の力に――、闇に染まっていく。

 熱気のこもった白い息を吐き出すシオは、地面へと爪を突き立て地を蹴った。体を僅かに起こす魔術師の顔にシオの左膝が減り込む。


「ふぐっ!」


 血を吐き、吹き飛ぶ魔術師。だが、すぐに空中で魔術師の体が停止する。右足首をシオの左手が掴んでいたからだ。


「ぐっ!」


 赤く染まった歯を食い縛る魔術師は、右の足首を掴むシオを睨んだ。


「て――」


 魔術師が口を開こうとすると、シオは軽々とその体を地面へと叩きつけた。地面が粉砕し、魔術師の口からまた血が吐き出される。

 背骨が軋み、亀裂が生じる。魔力を使い、ダメージを軽減しようとしているが、それが出来ない程獣化状態のシオの攻撃は凄まじかった。

 だが、それは、同時にシオの体にも負担をかけていた。左腕は血管が切れ、血が溢れだし、右足は先程跳躍した時に骨が折れていた。

 それでも、シオは力強く足を踏み締め、横たわる魔術師へと拳を叩きつける。骨が砕ける嫌な音が響き、鮮血が舞う。

 何度も何度も拳を叩きつけた後、シオは魔術師の頭を掴み放り投げた。魔術師の体は地面に落ち、そのまま土を抉り動きを止める。

 そんな魔術師へと、シオは駆け出す。だが、そんなシオの前に唐突に現れる。魔王デュバル。穏やかな表情をシオへと向け、静かに息を吐く。


「猛獣だな……」


 そう呟くデュバルへとシオは右拳をフック気味に放つ。しかし、デュバルは素早くその手首を右手で掴むと、体を反転させ背負い、投げる。

 背中から地面へと叩きつけられたシオ。その口から唾液が飛ぶ。そんなシオの顔をデュバルは左手で押さえこむ。


「深く眠れ――」


 手足をバタバタと暴れ回るシオに、デュバルは左手に魔力を込めた。すると、シオの動きは徐々に鈍くなり、やがて動かなくなった。

 デュバルの魔力による催眠効果だ。深く息を吐き出すデュバルは、シオの顔から手を離す。獣化は完全に解けていた。

 背筋を伸ばすデュバルは、その視線を魔術師の方へと向ける。

 血に染まりボロボロの魔術師と、デュバルの視線が交錯する。虚ろな目を向ける魔術師は、口元に薄っすらと笑みを浮かべた。


「くっ……くくっ……ま、おう……の手で……死ねるなら……」

「残念だが、私がお前に手を下す事は無い」


 デュバルは冷めた目を真っ直ぐに魔術師へと向ける。

 そんなデュバルの言葉に、魔術師は肩を小刻みに揺らした。


「くくっ……俺を生かして、おく……つもりか?」


 掠れた魔術師の声に、デュバルは小さく息を吐き、一層冷めた目を向ける。魔術師は畏怖する。その眼の恐ろしさに。


「生かしておく――わけないだろ? お前に手を下すのは――」

「部分獣化――」


 静かな声がデュバルの後ろから響くルーイットの声に、魔術師は目を見開く。その眼に映るのは、異様な魔力の波動。

 静かに息を吐くルーイットに、デュバルはシオを抱え告げる。


「私が許可する」


 その言葉に「はい!」と答えたルーイットは、一歩踏み出し、


「――口! 冥王!」


と、高らかに声をあげた。

 ルーイットを包む異様な魔力が逆巻く。ゆっくりと右手を差し出すルーイットは、瞼を開くと真っ直ぐに魔術師を見据える。


「私が裁きを下す。冥王の名の下に――開け! 冥府の門!」


 ルーイットの宣言と共に異様な魔力が、魔術師の体を包み込んだ。そして、薄気味悪い黒い霧が魔術師の周りに渦を巻いた。


「な……何を――」


 魔術師が全てを言い終える前に、事は起きる。黒い霧より伸びるのは、不気味な無数の腕。その手は、魔術師の体を捉え、やがて――


「ぬああああっ!」


 悲鳴と共に、魔術師の体を裂いた。そして、それらを黒い霧の中へと引きずり込む。

 悲鳴がこだまする中、ルーイットは背を向ける。すると、ルーイットの傍に僅かな黒い霧が現れ、そこから手が伸び、眼球が二つルーイットの手の平に置かれた


「シャルルの眼は、返してもらったから」


 血に染まった眼球を、ルーイットは握った。

 魔術師の悲鳴が響き、肉を、骨を、裂く嫌な音が響き渡る。ベチャ、ベチャと血と肉片が地面へと飛び散った。


「随分と強くなったものだな」


 シオをケルベロスの横へと寝かせたデュバルは、ルーイットの方へと体を向け苦笑した。希少種であるキメラ型のルーイットの事は、ロゼから聞かされていた。戦闘スキルなど無い、戦いに不向きなタイプだと。

 幼いケルベロスを預ける際に、デュバルもチラリとルーイットを目にした事があったが、ロゼの言う通り、とても戦闘能力があるとは思えなかった。そのルーイットがここまでの能力を身に着けている事は、正直言って感慨深いものがあった。

 関心するデュバルに対し、ルーイットは小さく首を振る。


「アレは、私の力じゃないです……だから、私が強くなったわけじゃ……」


 儚げにそう告げ、ルーイットは目を伏せた。

 だが、すぐに瞼を開きケルベロスとシオへと目を向ける。


「それより、二人は……助かるんですか?」

「まぁ、何とかなるだろ?」


 脳天気にそう答えたデュバルに、ルーイットは呆れたように目を細め肩を落とした。だが、ルーイットはクスリと笑みを浮かべる。何故か、クロトの事を思い出してしまったのだ。

 しかし、すぐに現状を思い出す。


「えっ! じゃ、じゃあ、どうするんですか!」


 横たわるシオとケルベロスの二人。今にも死にそうな二人の状態に、ルーイットは声を荒げる。

 そんなルーイットに、困ったように右手で頭を掻くデュバルは眉尻を下げた。


「まぁ、時期にここにヒーラーが来るだろう。とりあえず、今は――」


 唐突にデュバルは真剣な表情で空を見上げる。その視線に釣られるように、ルーイットを空を見上げた。

 空には複数の虫が飛んでいた。高速で羽根を動かし、ゆっくりと地上へと降り立つ虫に、ルーイットは絶句する。


「な、何……アレ……」


 虫と言うには大きすぎる緑色の昆虫種のモンスター。それが、数百と言う群れをなしていた。

 大量の虫に、深く息を吐くデュバルは拳を握り締める。


「アレは……バグだ。この地に巣食う災厄だ」

「さ、災厄? あれって、モンスターじゃ……」

「元は……な」


 静かにそう呟いたデュバルは、突っ込んできた一体の昆虫種のモンスターを右拳で殴り飛ばした。衝撃と共に甲殻を粉砕する乾いた音が広がる。

 軽く一振りした一撃で容易にモンスターを蹴散らしたデュバルは、小さく息を吐く。


「バグとは、寄生ウイルス。あのモンスターの体を変色させている緑色のものが、それだ」

「えっ! じゃあ、私達にも寄生するんじゃ……」


 身を捩らせ嫌な顔をするルーイットに、デュバルはクスリと笑う。


「安心しろ。人への害はない」

「ほ、ホントですか?」


 疑いの眼差しを向けるルーイットに、デュバルは苦笑し右手で頬を掻いた。そして、左手で裏拳を背後から迫っていたモンスターへと放った。

 衝撃音の後、裏拳を受けたモンスターは弾け飛んだ。慣れた様子のデュバルは深い溜息を吐いた。


「私はそんなに信用がないのか……」


 ガックリと肩を落とすデュバルにルーイットは苦笑する。何処から見ても魔王と言う威厳はなかった。

 ショックを受けていたデュバルだったが、すぐに気持ちを切り替え、


「とりあえず、私はここを死守する。それまで、彼らを頼むぞ?」


と、ルーイットにシオとケルベロスの事を頼み地を蹴った。

 そんなデュバルへと、


「ちょ、ちょっと! デュバル様!」


と、ルーイットは声を張った後、涙目で、


「二人の治療は……」


と、呟いた。



 崩れかけた古城を上る冬華達は、西館三階の書庫にいた。

 各館所々崩れており、まず中央から二階へ上がった。西館、東館へと続く道は閉ざされており、上へ行く階段も崩壊していた為、本館の奥へと進み、そこから、崩れた床から食堂へと降りる。

 食堂からキッチンへと入り、その裏口から外へと抜け、外階段を使い東館を三階まで上がり、外道を通り西館まで辿り着いた。

 ただ、扉は堅く閉ざされていた為、冬華達は壁をぶち壊し書庫へと侵入したのだ。


「ね、ねぇ……一つ聞いていい?」


 肩で息をする冬華は書庫を見回しながら、呟く。


「えぇ、何ですか?」


 と、答えるのはクリス。広々とした空間に本棚がいくつも並び、僅かな埃臭さが漂っていた。だが、なぜだか本棚は倒れておらず、本も力っていない。念入りに手入れをされている様子が伺えた。

 異様な空気感に、クリスは表情をしかめ、アオと目を合わす。アオも同じように嫌な空気を感じ取ったのだ。

 一方で、その容姿とは裏腹に、ウォーレンは書庫に並ぶ本の数々に目を輝かせていた。これでも、研究者であるウォーレンにとって、そこにあるのは貴重な書物の数々だった。


「しかし……すげぇー本の数だな……」


 腰に右手を当て、右足に体重を乗せる剛鎧は息を吐いた。半ば呆れていた。

 それだけ、書庫にある本の数は膨大だったのだ。

 本棚へと歩み寄った剛鎧は、右手で本の背表紙を撫で、鼻から息を吐く。


「随分と古い本だぞ」

「失われた書物だ! コイツは貴重だぞ」

「どうでもいいけど! ここ、書庫だよ? 行き止まりじゃない!」


 冬華が不満げに声を荒げる。そう、ここは書庫。部屋は広いが、他に出入り口があるようには見えなかった。

 今は一刻を争う。こんな所で立ち往生している場合ではないのだ。


「確かに、行き止まりですね」


 腕を組むクリスがそう呟き、目を細める。


「どうするの? また、壁壊す?」


 右手を顔の横で握り締めた冬華は、眉尻を曲げ頭を右へと傾けた。

 困り顔の冬華に、クリスは右手で髪を触り、


「そうですね……しかし、何処の壁を壊すか、ですね」


と、本棚で囲われた部屋を見回す。

 壁を壊すとなると、本棚を退けなければ行けないが、棚には本がギッシリ詰まっていた。


「ちょ、ちょっと待て! お前ら、貴重な本を傷つけるつもりか?」


 唐突にウォーレンが声を上げる。悟ったのだ。冬華達が何を考えているのか。

 だが、それを止める為に、ウォーレンは更に声を上げる。


「待て待て待て! 書物ってモンは貴重なモノなんだ! 一冊失われるだけで、何年もの記録が失われるんだぞ!」

「落ち着けってウォーレン。たかが本だろ?」


 あまりの興奮状態のウォーレンに、苦笑する剛鎧。だが、そんな剛鎧にウォーレンは血走った目を向ける。


「たかが本! たかが本だって!」

「もう! 言い争いはいいから!」


 冬華がそう怒鳴ると、ウォーレンと剛鎧はシュンッと身を縮こませる。

 そんな折だった。パタンと本が強く閉じられる音が広い書庫へと広がる。突然の音に、皆が声を呑む。

 最中に、静かな足音が奥の棚の間から聞こえる。そして、姿を見せたのは、長い銀髪を結った和服姿――“剣豪”蒼玄。腰には刀と脇差しを一本ずつ差し、切れ長の眼を向けていた。

 物静かな顔を向ける蒼玄に、今まで希少な書物の数々に目を輝かせていたウォーレンは、真剣な目を向け、奥歯を噛んだ。

 二人の視線は自然と交錯する。あの戦場での事を、ウォーレンは思い出したのだ。


「剣豪……蒼玄……」


 険しい表情を向けるアオは拳を握る。まさか、こんな所で、英雄のパーティーの一人と会うとは思わなかった。

 しかし、覚悟はしていた。こうなる事を。


「どうする?」


 アオがそう呟き、隣に並ぶクリスへと目を向けた。


「戦うしかないだろう……」


 厳しい表情のクリスは「くっ」と声を漏らした。皆が口を噤み、重苦しい空気が漂う。

 セラを背負うアオは、僅かに膝を曲げ、身を屈めようとした。だが、それをウォーレンが制する。


「ここは、俺がやる。お前達は先に行け!」

「先に行けと言われてもな……」


 剛鎧が目を細め、周囲を見回す。先に行こうにも、道がなかった。だが、ウォーレンは背負っていたハンマーを右手に握ると、


「道がねぇーなら、作ればいいだけだろ!」


と、そのままハンマーを天井へと投げつけた。ハンマーは鈍い風切り音を響かせ、天井を打ち砕いた。

 瓦礫と土埃が書庫へと降り注ぎ、それを避ける為に、ウォーレン以外の四人は壁際まで下がっていた。一方のウォーレンは瓦礫と土埃の降り注ぐ中心に佇み、右手を穴の空いた天井へと伸ばす。

 そんなウォーレンの手にズンッと重々しい音を広げ、ハンマーが落ちてきた。その柄を握り締め、ウォーレンは重心を落とした。


「さぁ、これで、先に行けるだろ!」


 ウォーレンの言葉にアオは小さく頷くと、剛鎧へと目配せをする。その視線に気付いた剛鎧は鼻から息を吐き、


「分かった分かった。俺が踏み台になってやるよ」


 そう言い、剛鎧は片膝を吐いた。


「すまないな」


 その背を蹴り、アオは上の階へと軽々と移動した。それに続くようにクリスが剛鎧を踏み台にし、上へと上がり、穴の空いた天井から身を乗り出し、右手を差し出す。


「さぁ、冬華」

「う、うん……」


 不安そうにウォーレンの背を見据える冬華は、剛鎧の背中へ右足を乗せた。


「心配すんな」


 剛鎧がそう言い、冬華の体を押し上げる。


「わわっ!」


 大きくバランスを崩す冬華の右手がクリスの手へと伸びる。


「冬華!」


 そう叫び、身を乗り出すクリスが冬華の右手を掴み、そのまま冬華の体を引っ張りあげた。


「はぁ……はぁ……び、ビックリした……」


 腰を落とし、こじんまりとした胸を僅かに揺らす冬華は、目を見開いていた。


「怪我はありませんか?」

「う、うん……大丈夫」


 心配そうなクリスへとそう答えた冬華は立ち上がり、床に空いた穴を覗き込み、剛鎧へと目を向ける。背筋を伸ばし天井を見上げる剛鎧と目が合う。すると、剛鎧はニシシと笑った。


「先に行け」

「えっ?」

「流石に、コイツ一人じゃ心配だろ?」


 ウォーレンを右手の親指で指差しながらそう言う剛鎧に、冬華は何かを言おうとしたが、それをクリスが制した。

 冬華が顔を向けると、クリスは何も言わず首を振る。その行動に、冬華も察し、小さく頷き、


「じゃあ、任せるね!」


と、剛鎧へと告げ、歩き出す。クリスとアオは顔を見合わせた後、歩き出す。一刻も早く最上階へと辿り着くために。

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