第278話 溢れる想い
クロトの言葉に冬華は動揺していた。
当然だろう。
いきなり、自分を殺せと言ってきたのだ。動揺して当然だ。
真っ直ぐに冬華を見据えるクロトの眼差しはすでに覚悟を決めた真剣な眼差しだった。
だが、冬華の瞳は揺らぐ。心音は高鳴り、挙動は明らかにおかしかった。手が震える。
あの時の感覚を思い出した。あの日、バレリア大陸での事がフラッシュバックする。
未だに手に残る生々しい感覚。忘れようとしていたその感覚に動悸が激しくなる。
視野がぼやけ、目の前に佇むクロトの姿が滲む。
静かに吹き抜ける風が足元に土埃を巻き上げる。
目の前に佇むクロトは、微動だにしない。動けないのか、動かないのか、冬華には分からない。
だが、彼が苦しんでいるのは分かった。その証拠に噛み締めた唇が切れ、血が流れていた。
呼吸を乱す冬華をジッと見据えるクロトは、苦しそうな表情を浮かべながらも、優しく微笑する。
「大丈夫……。俺には見えてる……だから、そんな顔するなよ……」
意味不明なクロトの台詞など、冬華の頭には入ってこない。それよりも、彼のその笑顔を、冬華は知っている気がした。
それを思い出そうとすると、激しい頭痛が冬華を襲う。唇を噛む冬華は目を凝らす。痛みを堪える。
(何……何なのよ……私の邪魔をしないでよ!)
激しい頭痛にそう言い聞かせ、記憶を辿る。だが、思い出す記憶は、全て顔の消された少年ばかりだった。
この少年が、黒兎裕也なのだろう。そう冬華は答えを出した。
未だに瞳が泳ぐ中、冬華はクロトと視線がぶつかる。クロトは何かを言いたげな眼差しをしていた。
だが、とても険しい表情を浮かべる。そんなクロトの顔を見ているのが辛く、冬華は俯いた。
そんな冬華へとクロトは瞼を閉じると、
「お前……英雄なんだろ! 覚悟を決めろよ……」
と、震えた声で告げた。
奥歯を噛み締め、辛そうなクロト。
そんな彼の言葉に、冬華は呟く。
「……ふざけんじゃないわよ」
と。
非常に小さな声だった。周囲の激しい戦いの音にかき消される程の小さな声。
無論、その声はクロトには聞こえていなかったのだろう。訝しげな表情を浮かべていた。
深く息を吐く冬華は、下唇を噛む。色々と言いたい事はあったが、考えが纏らない。
そんな冬華に、
「と、冬華?」
と、クロトは恐る恐る尋ねる。
クロトの呼びかけに、冬華は拳を握った。
そして、顔を挙げ、涙で滲んだその目でクロトを見据え怒鳴る。
「うるさい! 何であんたに指図されなきゃいけないのよ!」
自然と出た言葉だった。
何でそう言ったのか、冬華には分からない。
でも、そう口にした瞬間にふと懐かしい感覚を覚えた。何故だろう。いつもこうだった気がする。彼の顔を見ると、素直になれず、いつも乱暴な言葉を――。
冬華の記憶の中で、黒塗りにされていた少年の顔が薄らと浮かび上がる。
それでも、まだまだハッキリとは映らない。
冬華の突然の怒鳴り声に、「お、おう……」と驚いたように呟いたクロトは、少々戸惑った様子だった。
「大体! 全部あんたの所為じゃない!」
本当はクロトの所為なんて思っていないのに――。
「折角、戻れたと思ったのに……」
本当はこんな事が言いたかったわけじゃないのに――。
口は、勝手に言葉を紡ぐ。
あまりの迫力に押されたのか、クロトは、「ご、ごめん……」と謝罪する。
別に謝って欲しかったわけじゃない。その為、冬華は奥歯を噛むと更に言葉を続ける。
「何がごめんよ! 大体、英雄って何よ!」
クロトが悪いわけじゃない。それは分かっている。
「何で私がこんな思いをしなきゃいけないのよ!」
それでも、言わずにはいられなかった。彼に不安を、不満をぶつける事で、記憶の中で小さなピースが次々と埋まっていく。
記憶の中の少年の顔が戻ってくる。
息を切らせ、肩を激しく上下に揺らす。
真っ直ぐに冬華を見据えるクロトは、苦しげに表情を歪め、申し訳なさそうに告げる。
「ホント……ごめん。でも、分かるだろ? 英雄は肩書きじゃない。その名は――」
「分かるわけないじゃない! 私はただの女子高生だよ! 英雄なんかじゃないわよ!」
冬華は思わず怒鳴り、左手を払うように振り抜いた。
本当は、分かっている。クロトに言われなくても。
もう、この世界ではただの女子高生ではいられない。冬華はすでに英雄と言う道を進み始めていた。
そして、その背に多くの人々の思いと、多くの人々が希望を抱いていた。
皆が英雄と言う名に、冬華の姿に、全てを託し、動き出していた。だからこそ、冬華もここまでやって来たのだ。
深く息を吐き出すクロトは、真っ直ぐに冬華の目を見据える。
「お前はもうただの女子高生じゃないだろ。英雄にならなきゃいけない。この世界を救わなきゃいけない。だから、覚悟を決めろ! 俺を――」
「出来るわけないじゃない!」
クロトが言いきる前に、冬華は怒鳴った。
人を――しかも、親しい人を殺すなんて、出来るはずがなかった。
しかし、クロトは引き下がる事なく続ける。
「もう時間がないんだ! お前にしか――」
「何よ……私は……あんたを――あんたの事を思い出そうとして、必死になってここまで来たのに! 何で! 何で……殺さなきゃいけないのよ……」
感情が高まり、硬く閉ざした瞼の合間から涙が零れ落ちる。
必死に堪えたものが、一気に噴出した。素直な自分の気持ちがあふれ出していた。
記憶はまだ戻っていないはずなのにあふれ出す涙。それを冬華は止める事は出来なかった。
冬華のその姿に、クロトは小さく息を吐いた。
「俺の事を思い出す必要はないって。過去はこの先ある楽しい思い出で埋め尽くせばいいんだから」
気を使ったクロトの一言に、
「ふざけないで! あんたにとっては大した事無い過去かもしれないけど、私にとっては大切なことなの!」
と、冬華は声を荒げた。
彼との過去がどんなものなのか、冬華は覚えていない。それが、幸せな時だったのか、辛い時だったのか、何も分からない。
それでも、大切な思い出だった事だけは分かる。
だから、その思い出を否定するようなクロトの言葉は許せなかった。
しかし、クロトはそんな冬華に微笑する。
「そうか……そう言ってもらえると嬉しいよ。でも、過去は過去だ。今、この時を大切にしろよ。この世界の人々の未来が懸かってるんだ」
クロトの言葉に、冬華は「けど……」と鼻声で呟いた。
だが、クロトは有無を言わさず言葉を続ける。
「世界を救う為に、何かを犠牲にしなきゃいけない。俺の中にある力は簡単に多くの人の命を奪える。多くの人の命が失われるよりも、たった一人の命で多くが助けられる方がいいだろ」
クロトの言い分は尤もだった。
だからこそ、冬華の口からは、「そんなの……卑怯だよ……」と言う言葉が漏れた。
左手の人差し指で涙を拭う冬華に、クロトは更に言葉を続ける。
「卑怯でも構わない。お前には酷い事をしていると思っている。でも、お前の手で死ねるなら本望だよ」
クロトは微笑する。
最低な奴。冬華はそう思う。だけど、何故だろう。コイツはこんな奴だったと思ってしまう。
だからだろう。冬華は鼻を啜り、
「…………バカじゃないの。何よ。私を人殺しにしようとしてるくせに……」
と、呟く。
「ご、ごめん」
申し訳なさそうにクロトは謝る。
「いいわよ! やってやるわよ! もう! あんたなんて知らないんだから!」
冬華は覚悟を決め、そう言い放つと、槍を構えた。
この世界で死ねば、現実世界に戻る。それを思い出したのだ。
可能性は限りなく低い。それでも、黒金陣が助かったように、助かる可能性があるなら、そう冬華は思いその手に力を込める。
両腕を広げ、胸を張るクロト。胸を貫け、そう言っているようだった。
だが、その直後、クロトの背後に黒い影が突如現れる。
「そんなに死にたいなら、私が殺してやろう」
身の毛も弥立つ低く不気味な声。
それと同時に、クロトの腹部から鮮血と共に鋭い刃が突き出した。
「うぐっ!」
「黒兎!」
思わず冬華は叫ぶ。
その瞬間に、記憶がフラッシュバックする。今まで黒く潰されたその人物の顔が、その人の事が次々と脳内に蘇る。
それは、走馬灯のように――死に行く彼の最期の思い出を巡るように、冬華の頭の中を埋め尽くす。
吐血するクロトが、
「クロウ!」
と、叫び、その手にした剣を振り抜いた。
だが、クロウと呼ばれた漆黒のローブを纏い、深くフードを被った男はクロトの体から剣を抜き、その場を飛び退いた。
「ガハッ! ゲホッ……」
咳き込み吐血を繰り返すクロトは、体を男の方へと向けた。
我に返る冬華は、そんなクロトを見た後に、漆黒のローブをまとうクロウへと目を向けた。
「だ、誰! あなた!」
冬華はクロトの傍まで駆け足で近寄り、クロウを睨んだ。
そんな冬華に対し、肩を竦めるクロウは、
「名乗る程の者ではありませんよ。それより、彼の願いを叶えて差し上げたんだ。文句はなしでしょ?」
と、悪びれた様子もなく答えた。
「くっ……ふざ、けんな……」
声を震わせるクロトの膝が地面へと落ちた。
見るからにクロトは重傷だった。出血も酷く、衣服は血で赤く染まっていた。
それでも、クロトは強い眼差しをクロウへと向ける。
「さて、あの方の力も回収したし、あとはその魔剣を渡してもらいましょうか?」
クロウはそう言い、右手を差し出す。
「ふざけないで! 私が、そんな事させない!」
クロウが何を考えているのかは分からない。だが、コイツに魔剣を渡してはいけないと、冬華は直感し、そう声を荒げ槍を構えた。
しかし、クロウは肩を揺らし笑う。
「キミには何も出来ないよ。名ばかりの英雄」
挑発的なクロウの発言に、冬華は地を蹴った。
――先手必勝。そう思い駆けた冬華だったが、その瞬間にクロウの右足が振り抜かれ、ミゾオチを抉った。
「うがっ!」
鈍い音が体を抜ける。
光鱗は発動せず、冬華はクロウの蹴りをまともに受け、唾液を吐きながら地面を転げた。
「あっ……がはっ……」
一瞬、息が止まった。死ぬかと思った。
どれだけ、光鱗に助けられていたのかと、冬華は思い知り、その目を潤ませながらクロトとクロウへと目を向けた。