第272話 敵陣の真ん中で
ドーム状の結界が割れた事により溢れ出す瘴気のような淀んだ空気と、乱気流。
乱気流により、翼竜は大きくその体躯を激しく揺らしていた。
淀んだ空気は魔力を帯びた雲のように、体にまとわりつく。だが、魔力の波動を感じない為、その淀んだ空気が含んでいるのは魔力ではない全く別のものだった。
「くっ! これは……」
鋼の表皮を持つ光沢ある黒き翼竜の背に乗ったライは、思わず表情を歪める。
ただ溢れ出しただけの様に見える淀んだ空気が、まるで意志を持つように広がっていたのだ。魔力ある方へ、人のいる方へ、そんな風に淀んだ空気は動いていた。
「おい。あれって何だ?」
ライは一緒に黒き翼竜の背に乗る獅子のぬいぐるみオンに尋ねる。
しかし、オンもあれが何なのかハッキリと分からない。その為、奥歯を噛むと小さく頭を左右に振った。
「分からないニャ。ただ……あれは、危険ニャ」
「危険って……一体、ルーガスには何があるんだ! そもそも、何で、結界が張ってあるんだよ! 未開の地のはずだろ!」
ライが声を荒げる。しかし、ライの言う通りだ。
何故、未開の地であるはずのルーガスの奥地に巨大な結界が張ってあるのか。
これほどまで大きな結界になると、複数人で行う必要がある。しかも、外堀を埋める為に大陸の端まで行かなければならない。
未開の地であるはずのルーガスの奥地にいける程の実力者がいたのか、と言うのが、ライの疑問だった。
そんなライの疑問に対し、オンはまたしても首を振った。
「詳しくは知らないニャ。ただ、この結界を張ったのは一人の女性ニャ」
「は、はぁ? コレだけの結界を一人で! そんなの無理に――」
「そうだニャ。普通にやったら無理ニャ。だから、彼女は自らの命を賭してまで、結界を張ったんだニャ」
真剣な声でそう言うオンに、ライは息を呑む。他のために底まで出来る者がいるのか、そう思ってしまった。
押し黙るライに対し、オンは静かに告げる。
「確り掴まるニャ」
「えっ? な、何で?」
「アレを追うニャ」
オンが顎で進行方向を示す。その先には、一番結界の近くに居た白い肢体の翼竜の姿があった。すでにその身は淀んだ空気に囚われ、落下していた。
このままでは完全に呑まれてしまう。いや、すでに呑まれているのだが、放置しておくわけには行かない。
何故なら、あの白き翼竜の背に乗っているのは、ライのよく知る人物だったからだ。
オンの指示で、黒き翼竜は、淀んだ空気へと向かって自ら突っ込む様に急降下した。
地響きと共に沈む宙に浮かぶ島。
そこへと向かうのは紅蓮の炎を両翼にまとわせる赤い翼竜。
その背に乗るのは冬華、クリス、クマの三人だった。
島の落下速度は遅い。その為、島が落ちる前に、冬華達は島に辿り着きそうだった。
だが、淀んだ空気は着実に赤い翼竜の動きを鈍らせる。
「な、何……この空気……」
思わず表情を歪める冬華は、右手で口と鼻を覆う。特別ニオイがあるわけではないが、思わずそうしてしまった。
手足に絡みつくようなその空気にクリスも眉を顰める。
赤と黒のオッドアイのクリスは、赤い右の瞳で魔力を感知する。しかし、淀んだ空気から全く持って魔力を感じず、クリスは一層険しい表情を浮かべた。
(なんだ……あの空気は……魔力でもないのに、体に絡みつく……)
険しい表情を浮かべるクリスは、唇を噛み締める。得体の知られない不気味な空気に、クリスはクマに尋ねる。
「クマ。アレは何だ? それに、あの結界もなんだ?」
クリスの問い掛けに、クマは目を細める。何かを隠しているようにも見えた。
だが、クマは横顔をむけニコッと笑う。
「クマもあれについては分からないクマ。でも、結界は、昔ある人が命を賭して作った代物クマ。それだけ、あの場所は危険な場所クマ」
「待て! ちゃんと説明しろ。お前は、何を、何処まで知ってるんだ!」
クリスが声を荒げる。
丁度、翼竜は空に浮かぶ島の古城へと向け、広場の上空を飛んでいた。
そんな折だった。突然、衝撃が赤い翼竜を襲う。
“キュピィィィッ!”
悲鳴のように、赤い翼竜は声を上げる。
「な、何!」
冬華が声をあげ、辺りを見回す。すると、赤い翼竜の腹部から蒼い炎が徐々に上がってくる。肩口から見える蒼い炎に、クリスは奥歯を噛む。
「クマ! この炎は!」
「間違いないクマ。魔界の炎……番犬クマ!」
クマはそう言い、翼竜の肩越しに地上を見据える。広場には多くの兵がいた。人間・獣魔族・龍魔族、そして、魔人族。
その中に、拳に蒼い炎をまとわせる黒髪の若者の姿があった。鋭い眼差しを向け、禍々しい程の魔力を身にまとうその姿は、まさに番犬の異名が相応しい。
ここまで無理をさせ過ぎていたのだろう。翼竜と言えど、疲弊した肉体に攻撃を受ければ、容易に大きなダメージを与える事が出来た。
故に、翼竜の翼を包んでいた紅蓮の炎が消滅し、その翼を蒼い炎が侵食する。
「ど、どうしよう! このままじゃ……」
不安げな冬華に、
「確実に落ちるぞ!」
と、クリスがクマに怒鳴る。
しかし、冬華が言おうとした事はクリスとは違う。
“このままじゃ、翼竜が――死んじゃう”
冬華はそう言おうとしたのだ。
だが、すぐに冬華は押し黙り、心配そうに翼竜の首筋を右手で撫でた。
一方、クマは両手に魔力を集めていた。このまま翼竜が落ちると、相当の衝撃が広がる。
それにより、下手をすると冬華とクリスが死ぬ恐れもあったのだ。それを阻止する為にも、クマは意識を集中していた。
その頃、地上――広場では異変が起きていた。今までいたはずの獣魔族と龍魔族の部隊がそこから消えていた。
数秒の間に何があったのか、と考えている余裕はクマには無く――衝撃が広がった。
翼竜が広場に落ちた。ギリギリでクマは魔力を放ち勢いを殺したが、それでも、硬い地面は陥没し亀裂が走っていた。
激しく舞い上がる土煙が視界を遮る。
最初に立ち上がったのはクリスだった。赤い翼竜に軽く手を乗せ、
「ここまでよく頑張った」
と、労いの言葉を述べ、ゆっくりと地上に足を着いた。
異様な感覚だった。まるで体が軽くなったそんな気がするのは、きっとこの島が落ちているからだろう。
それともう一つ。右目のお陰だろう。この場にいる者の魔力がハッキリと見えていた。
ここまで魔族の目が自分に馴染むとは思っていなかった為、クリスは聊か驚いていた。
この場にいる中で最も強い魔力を放っているのは、拳に蒼い炎をまとう番犬――ケルベロス。
間違いなくその他の者達とは全く持って格が違う。ゆっくりと消えていく土煙の中、クリスはケルベロスを見据え、
「くそ……どうする気だ。こんな敵陣の真ん中に……」
と、口にした。
幾らケルベロスに劣ると言っても、周囲には数千以上の兵。この軍勢を相手に、三人では圧倒的に分が悪かった。
そんな折、頭を右手で押さえる冬華は、
「うぅっ……それより……大丈夫? 翼竜、まだ燃えてるよ?」
と、心配そうに赤い翼竜を見据える。
正直、そう言う状態ではない為、クリスは構ってはやられない。
「……英雄!」
冬華の登場に、すぐさま番犬ケルベロスが声を上げた。
その声に周囲がざわめき、瞬時に皆が臨戦態勢に入った。
右目でそれを感知したクリスは冬華の前に出ると、
「冬華! 下がってください」
と、声を押し殺し告げた。
白銀の髪を揺らすクリスは、身構える。だが、現状武器を持っていないクリスは、拳に精神力と魔力を込めた。
そんな緊迫した空気の中、
「ビックリしたクマ!」
と、クマがのんびりと姿を見せる。
臨戦態勢に入った兵達はその姿に皆唖然とする。緊張感のないクマの姿は、それ程衝撃的だった。