第263話 受け継いだ意志
フラフラと、クリスは一人通路を歩んでいた。
壁に右手を着け、左手で口を押さえるクリスは膝を床へ落とすと嘔吐する。
魔力酔いだった。
今までなかった膨大な魔力が、一気に体の中に流れ込んだのだ。
気持ち悪くなって当然だった。
赤い瞳の右目。これは、一人の魔族から受け継いだ眼。
眼は彼女の残されたほぼ全ての魔力を帯びており、それはクリスの右目に入ると、視神経全てを再生し複合。そして、クリスに同化し、まるで今まであったかの様に馴染んだ。
今まだ、移植したばかりで、右目の視界はぼやけているが、それを修復する様に魔力がうごめいているのが分かる。
その右目から溢れる魔力は次に、クリスの体内へと大量の魔力を流し込んだ。
それは、魔力を供給するのと同時に、魔力を自ら生成する為のものだった。
今まで精神力を魔力に変換し使っていたクリスの中へと初めて流れ込む魔力は、とても不快なもので、吐き気が止まらない。
それほど、人間と魔族の体内の作りが違うのだ。
正直、魔法石を使ったあの義眼なんかとは比べ物にならない程だった。
通路の隅で蹲り、嘔吐を繰り返すクリスは、眉間へとシワを寄せる。
静かな足音が正面から聞こえてきたのだ。
顔を挙げ、目を凝らす。
薄暗い為、殆ど姿は見えない。
だが、間違いなく誰かが近付いてくる。
それが敵だとして、今の自分で戦う事が出来るだろうか。
そう思うクリスは、吐き気に険しい表情を浮かべ、ゆっくりと立ち上がる。
やるしかないんだと、自分に言い聞かせた。
「大分……苦しそうだね? 一体、何があったのかな?」
静かな声が足音と一緒に聞こえる。
薄暗い通路の奥に瑠璃色の髪が輝き、眼鏡をかけた爽やかな青年が佇んでいた。
白銀のローブをまとう青年は、義手の右腕を持ち上げると、ギギギッと関節を軋ませ指を曲げる。
「私は龍殺――」
名乗るその直前、T字路になったその通路の曲がり角から出てきた丸っこい手が、彼の頭を壁へと叩きつけた。
眼鏡のフレームが拉げ、レンズが砕け散る。
硬い壁には亀裂が走り、その額からは血が弾けた。
それに遅れ、
「クマーッ!」
と、叫び声が響いた。
何事かと、目を白黒させるクリスは、眉間にシワを寄せ、目を凝らす。
自分の目が確かならば、そこに居るのは、間違いなく――
「ぬいぐるみ?」
クマのぬいぐるみだった。
いや、ぬいぐるみと言うよりも、きぐるみだった。
何故、そんなものを着た者がここに、と思ったクリスだったが、すぐに思い出す。
「お前! クマか!」
クリスが驚きの声をあげると、青年の顔を壁に押し付けたクマが、顔を向ける。
それに遅れて、路地の曲がり角から、冬華が飛び出し、
「クマ! 今のは酷いよ。名乗ろうとしてたのに……」
と、冬華は肩を落とす。
「と、冬華?」
驚くクリスは、更に目を白黒させる。
この状況は何なのか、とクリスは考える。
考えるが、やがて思考は止まり、
「うっ!」
嘔吐した。
突然のクリスの嘔吐に、
「えっ! えぇっ! ご、ごめん! な、なんか気持ち悪い事したかな?」
と、冬華は謝り、クリスの方へと足を進めた。
そして、背中を擦る。
「す、すみ――うおっ!」
「だ、大丈夫? な、何? そ、そんなに気持ち悪い?」
嘔吐するクリスに、冬華は不安そうにそう告げた。
右手の甲で口を拭いたクリスは、大きく息を吐くと、頭を振る。
「いえ……ちょっと、右目の影響で……」
左手で右目を押さえ、クリスは息を吐いた。
クリスの言葉で、冬華は気付く。
「あっ! 右目……どうしたの?」
綺麗な赤い瞳の右目を真っ直ぐに冬華は見据える。
そんな折だった。
「いつまでも、人の頭を押さえつけてんじゃねぇ!」
と、声が響き、
「はぐっ!」
と、クマの呻き声が聞こえた。
壁へと押し付けられていた青年がクマを蹴り飛ばしたのだ。
よろめくクマは後方へと下がり、壁と丸い手から解放された青年は頭を振り、不快そうに冬華達を睨んだ。
「私は龍殺しのウィルヴィス! 貴様らを排除する!」
ウィルヴィスはそう言うと、二本の剣を抜いた。
そして、鋭い眼差しをすぐ傍に居たクマへと向け、
「ぬいぐるみ風情が、舐めたマネをするな!」
と、右腕を振り抜いた。
しかし、次の瞬間、響いたのは鈍い金属音だった。
ただの布切れと綿だけで作られたぬいぐるみのはずなのに、響いたのは金属音。
その音にその場に居る皆が驚く。
「なっ!」
声を上げるウィルヴィスに、
「いきなり危ないクマ」
と、ウィルヴィスの振り抜いた剣を、クマは右腕で受け止めていた。
その右腕は布ではなく金属へと変わっていた。
土属性への属性変化による硬化だ。
奥歯を噛むウィルヴィスに対し、クマは剣を弾き距離をとる。
「全くクマ……死ぬかと思ったクマ」
クマはそう言い安堵したように息を吐く。
しかし、ウィルヴィスは不快そうに眉を顰める。
「貴様……」
たかがぬいぐるみに白銀の騎士団の部隊長である自分の一撃が防がれるなど、プライドが許さなかった。
苛立ちの見えるウィルヴィスは、完全に冬華とクリスを見ていなかった。
それだけ、今の一撃を防がれたのが不快だったのだろう。
「ど、どうしま……うぷっ」
口を右手で押さえるクリスに、冬華は苦笑する。
「ここは、クマに任せよう。それよりも、クリスはどうやってここに? 手枷されてたでしょ?」
冬華が眉を曲げそう尋ねると、クリスは呼吸を整える。
「私は……あの白装束の女に助けられました……」
「白装束? それって、あの時、襲ってきた……」
「えぇ……。この右目は、彼女から譲り受けたもので……、彼女から受け継いだ意志です」
クリスはそう言い強い眼差しを向けていた。
何があったのか、冬華はそれ以上聞かない。
それは、聞いてはいけない事なのだと悟ったのだ。
そんな中、クマはウィルヴィスは激しくぶつかり合う。
ムキになり二本の剣を振り回すウィルヴィスに対し、クマは両腕に魔力を込め対応する。
「くっ! ふざけるな! 貴様如きに!」
ウィルヴィスは完全に怒りで我を失っていた。
一方で、クマは冷静だった。
必要最低限の魔力のみをまとわせ、刃が当たる直前に腕を土属性への属性変化で腕を金属へと変える。
その動きは戦いなれしているように見えた。
以前のクマとは明らかにその動きは違う。
その為、冬華とクリスは違和感を感じていた。
本当にアレはクマなのか?
と。
その矢先だった。
「もう、しつこいクマ!」
と、クマは丸っこい右手を腰の位置へと構えると、
「属性武装。業火!」
と、右手に赤黒い炎をまとわせる。
そして、それを圧縮すると、
「爆炎掌!」
と、クマはその丸っこい手をウィルヴィスの腹部へと打ち込んだ。
その手はまるで二本の刃を縫うように伸び、完璧にウィルヴィスの腹部を捉える。
鈍い音の後、ウィルヴィスの体が後方へと弾けた。
「かはっ!」
吐血するウィルヴィスは後退し、目を見開く。
体内を高熱が巡る。
まるで全てを焼き尽くす炎が体内で燃えているそんな感覚だった。
「な、何を……」
「大丈夫クマ。ちょっと体内に炎を放っただけクマ」
クマはえへへと笑い、ブンブンと右手を振った。