第259話 目
あれから、一週間ほどが過ぎた。
冬華達はヴェルモット城の地下に囚われていた。
寒く、薄暗く、かび臭い地下の牢獄。
廊下を照らすのは、僅かな松明の明かりのみ。
当然、牢獄中には殆ど光は入ってこない。
一人一人別々の牢屋に居る為、冬華は他のメンバーがどうなっているのか分からない。
特に、冬華は他のメンバーとは離れた牢屋に入れられたのだろう。
声も聞こえてこず、時折風の吹き抜ける音だけが聞こえていた。
両腕にされた枷は重く、冬華はいつも以上に肩を落とし、俯いていた。
黒髪がサラサラと揺れ、冬華の顔を覆う。
何をしても裏目に出ている。そう思え、冬華は正直気力を失いかけていた。
当然だろう。
プライドも捨て、仲間とも引き剥がされた。
支えが無い。自信が無い。
もう、何をどうしたらいいのか、分からなくなっていた。
冬華の牢屋から程なく離れた牢屋の中にライは横たわっていた。
牢屋は冬華と同じく薄暗くかび臭い。
だが、冬華のいた場所と違い、そこは狭く天井も低い。
故に、天井からの雫がダイレクトにライの顔へと落ちた。
「んあっ!」
何度目かの雫が顔で弾けると同時に、ライは目を覚ます。
顔はびちゃびちゃに濡れていた。
しかし、目を覚ましたばかりのライはその事に気付くのに暫しの時間が掛かる。
目をパチクリとさせ、低い天井を見上げた。
思考がまだ働いていない。
何故、自分がこんな場所にいるのかも、イマイチ理解出来ていない。
そうこう考えている間に、次の雫がライの顔へと落ちる。
「んなっ!」
額で雫が弾けると、ライはそう声をあげ、体を起こした。
ここでようやくライは自分の顔がびちゃびちゃだと気付いた。
「なんだ――……コレ」
右手の甲で顔を拭こうとして、ライの表情が曇った。
自らの両腕を拘束する枷に、ここで初めて気付いた。
そして、理解する。
「そうか……捕まったのか……」
背を丸め、そう呟くライは瞼を閉じ、深く息を吐いた。
だが、すぐにフッと短く息を吐き出すと、瞼を開き、
「よしっ!」
と、ライは跳ね起きる。
両手は拘束されているものの、両足は拘束されていなかった。
精神力が使えなければ、何も出来ないと思われていたのだろう。
狭い牢屋内を歩き回るライは、やがて足を止めると鉄格子の間に頭をぶつける。
「んんーっ……やっぱ、無理だよな」
頭が入れば、強引に鉄格子の間を抜けられるんじゃないか、そう考えたがそれは無理そうだった。
当然、無理なのはライも百も承知だ。
なら、何故、そう口にしたか。
その理由は簡単だ。周囲に誰かいるかを確かめる為だった。
そして、頭を鉄格子の間にぶつけたのも理由がある。通路内の音を――声を――聞く為だ。
元々、ライは聴覚・視覚・嗅覚・触覚の四つの感覚が常人よりも優れており、この若さで超一流のハンターになりえたのは、このお陰だった。
暫しの間、耳を澄ましたライは、静かに鼻から息を吐いた。
声は聞こえない。
足音も聞こえない。
聞こえるのは、何処かで反響した自分自身の声だけ。
と、言っても恐らくライ以外には聞き取れない小さな声だった。
それにより、ライは近くに見回りの兵が居ない事を確認し、両手を頭へと持っていった。
そして、
「よし、あった……」
と、髪の中から細い針金を一本取り出した。
いざと言う時に、ライは常に針金を一本髪の中に隠しているのだ。
その針金を手枷の鍵穴へと突っ込むと、器用に手を動かす。
やがて、カチャリと音がし、手枷が腕から外れた。
「おっ! 腕は衰えてねぇーな」
手首を回しながら、ライはそう呟き立ち上がった。
「さて、次はコイツか……まぁ、手枷がないなら……」
鉄格子の向こうへと腕を出したライは、手枷同様に鍵穴に針金を入れる。
程なくして、鍵が開く音が静かに聞こえ、金具を軋ませ扉が開いた。
案外簡単に開いた為、ライは呆れた様に目を細める。
「おいおい……大丈夫か? この牢獄は……」
そう呟き、牢屋から出ると、ライは一瞬で空気が変わったのを感じ取った。
それは、背筋の凍る恐ろしい程の殺気だった。
「流石、元・超一流のハンターだな」
人の気配などなかったはずの通路の端に、その声の主はいた。
壁にもたれかかり、腕を組むその男は、白銀のローブを纏っていた。
瞬時に身構えるライは、反射的に右手を腰に伸ばす。
だが、そこにナイフは無く、ライは表情を険しくする。
壁からゆっくりと背を離した男は、正面を向くと、フードの奥に赤い瞳を煌かせる。
薄暗い廊下だが、ライはすでにこの男が誰なのか分かっていた。
「驚いたぞ。まさか、潜入のお前が……裏切ってたとはな。キエン」
ライがそう言い、半歩下がると、
「ほぉーっ。よく……分かったな。声色も、口調も変えていたのに」
と、キエンと呼ばれた男はフードを取った。
茶色の髪が揺れ、大人びたキエンの顔があらわとなった。
表情を引きつらせるライは、身を低くする。
すると、キエンは背負った長剣をゆっくりと抜いた。
入り組んだ牢獄の更に奥にクリスはいた。
痛々しく潰された右目の義眼。頬を伝う赤い血が、ポツポツと血で黒ずんだ床へとこぼれる。
意識はあるものの、酷い凍傷と右目の痛みにクリスはただ横たわり呻くしかなかった。
両腕は背に回され、他の皆と同じように手枷をされていた。
当然、魔力や精神力の類を遮断するものだ。
その為、クリスは何も出来ない。
ただ、その場で蹲り、呻くだけだった。
そんな時だった。
冷たい風が鉄格子の向こうから流れ込み、一つの静かな声がクリスの耳に届く。
「紅蓮の剣……クリス」
「誰だ!」
思わずクリスは叫ぶ。
そして、頭をあげ、痛みに歪んだその顔を声の方へと向ける。
薄らと開いた左目。視界は殆ど遮られているその中に、ハッキリと映る。白装束の女の姿が。
一瞬、クリスは戸惑う。
まさか、殺しに来たのか、と。
だが、彼女のもの悲しげな表情が、そうでない事をすぐに証明し、クリスは警戒しつつも温和な声で尋ねる。
「何の……用だ……。私は……今……」
「機嫌が悪い?」
クリスが言う前に、彼女はそう口にした。
その言葉に、クリスは一瞬不快な表情を浮かべたが、すぐに肯定するように頷いた。
「そうだ……。機嫌が悪い。この右目の痛みと……自分自身の弱さに、腹が立つ!」
そう吐き捨てたクリスに対し、彼女はもの悲しげな目を伏せ、「そう」と小さく呟く。
そして、薄紅色の唇を僅かに開き、静かに息を吐き出すと、鉄格子の扉を壊した。
「な、何のマネだ!」
突然の彼女の行動に、クリスは狼狽する。
わけが分からない。
何故、彼女がこんな行動を取るのかも。
何故、彼女が自分の頬に手をあて、顔を近づけているのかも。
クリスの頬に触れる彼女の冷たい右手。
体温など無いかの様に氷の様に冷たい。
今にもクリスを凍りつかせてしまいそうなその冷たさに、息を呑む。
クリスの左目と彼女の右目は交錯する。
偶然な事に、両者共……片目を失っていた。
「あなたの目は……真っ直ぐで……綺麗ね……」
「ッ!」
彼女の言葉に、背筋が凍る。
クリスの脳裏に浮かぶ。最悪の光景。
コイツの目的は――。
「目か!」
クリスが叫び、彼女の体を体で突き飛ばす。
よろめいた女は、尻餅を着くと、目を伏せ、頷いた。
「そう……ね。目……ね」
淡々と彼女はそう口にすると、ゆっくりと腰を上げる。
そして、右手を自らの右目へと突っ込んだ。
濁った血がはね、クリスの頬に付着した。
目の前で起きた奇行に、クリスはただただ呆然としていた。
この女は何をしているんだ。
何故、自分の目を抉っているのか。
驚き、瞳孔を開いたままクリスはただその光景を眺めていた。
「…………コレを、あなたに……差し上げる」
濁った血で染まった女の右手は震え、その手の中には眼球が一つ。
膨大な魔力が、神経を傷つけぬように眼球を守っていた。
それを、差し出す女の姿に、クリスは表情をしかめた。
「な、何のマネだ……」
不快きわまり無い事だった。
義眼でさえ、不快だったのに、この期に及んで魔族から目を提供されるなど。
奥歯を噛み、睨みつけるクリスに、女は血の涙を流したまま俯く。
「ごめんなさい……。もう、私にあなたの表情は見えない……。けれど、怒らせてしまったようね」
「魔族の……力など、私には不要だ!」
クリスが声を荒げると、女は困ったように眉を八の字にする。
しかし、すぐに首を振った。
「違うわ……。これは、あなたに移植した時点で、あなたの力。魔族の力なんかじゃないわ」
「ふざけるな! 私は、魔族の目を移植するなどごめんだと、言っているんだ!」
クリスがそう言い放つと、女は眉間にシワを寄せる。
そして、深く頭を下げた。
「お願い……魔族が嫌いでもいい……それでも、この目を……あなたの目にして。私の左目はすでに奪われた……。魔力も殆ど失われた」
「だから、どうしたというんだ……。そんなもの私の――」
「時期に、この目も奪われ、知らない人間に移植される。私は、すでに死人。彼らに逆らう事は出来ない……自分で死ぬ事も出来ない。お願い。私の力で多くの人が殺されていくのを、私は許せない……。
だから……英雄の右腕あるあなたが、私の代わりに……私の目と力で、それを止めて欲しい……。そして、私自身を殺して欲しい……」
深く深く頭を下げる女の姿に、クリスは戸惑っていた。
魔族が悪い奴ばかりで無い事は分かっている。冬華と旅をして、そんな魔族の人々と沢山出会ってきた。
それでも、魔族を受け入れられない。
そんな自分にここまで頭を下げ懇願するこの女の姿に、クリスは唇を噛み締める。
何て、自分はちっぽけな人間なんだと。
プライドなど捨てよう。力が手に入るなら、それを受け入れよう。
どうせ、このままにしていけば、右目の傷口は腐り、一生視力が戻る事は無いのだから。この申し出を受けようと、クリスは小さく頷いた。
「分かった……。お前の右目を……私に下さい……」
クリスはそう言い、女へと深々と頭を下げた。