第230話 撤退
鈍い打撃音が響き、冬華は地面を転げる。
これで、幾度目になるだろう。
冬華の体には擦り傷が無数あった。
唯一の神の力である光鱗により、相手から受ける外傷は防げても、その衝撃と地面を転げて擦り剥いた傷だけは防ぐ事が出来ない。
蹲り吐血する冬華は、額を地面に押し付け苦悶の表情を浮かべる。
バロンは、光鱗の仕組みを分かっているのだろう。
執拗に冬華の腹部へと拳を叩きこんでいた。
光鱗では絶対防げない衝撃が何度も腹部を襲い、冬華の膝は震え、激痛だけが腹部には残っていた。
「どうした? その程度でワザワザ舞い戻ってきたのか?」
バロンはそう言い、ゆっくりと冬華の方へと足を進める。
その足音だけが冬華の耳に届く。
近付いているのが分かり、冬華は奥歯を噛み、槍を握る手に力を込めた。
氷河石から生まれたこの槍で、一瞬にして氷付けにしようと考えていた。
だが、バロンはそんな冬華の考えを悟ったのか、一気に地を駆ける。
そして、精神力を練る時間さえ与えず、容赦なくその顔を蹴り上げた。
「うかっ!」
一転、二転と地面を転げ、冬華は顔を押さえ蹲る。
鼻からは血が溢れる。
折れてはいないだろう。
それでも、激痛には変わりはなかった。
奥歯を噛み締め、口に広がる鉄の味の唾液を吐き出し、冬華はゆっくりと体を起こす。
自分が何をすべきなのかを、今一度思い出し、頭を振った。
こんな所で意識を失うわけには行かない。
痛みに平伏すわけには行かない。
大切な記憶を失う恐怖に比べれば、この程度の痛みは軽いものだった。
鼻から――口から――血を流しながら立ち上がる冬華の姿に、バロンは聊か驚き、肩を竦める。
「英雄ともあろう方がなんとも無様な……」
「無様で……何が……悪い……」
途切れ途切れの声で、冬華はそう告げる。
握り締めた槍を構え、冬華は腰を落とす。
震える膝に力を込め、視線だけを真っ直ぐにバロンへと向ける冬華のその瞳は薄らと金色に輝く。
冬華自身はその変化に気付かないが、対峙するバロンはその変化に即座に気付き、身構えた。
「私は……英雄、何かじゃ……ない! ただ、守りたいだけ……。取り戻したいだけ……失いたくないだけ!」
冬華はそう叫び、地を駆ける。
だが、雪で足を取られ、しかも、再三の腹部への打撃で、冬華の足は完全に死んでいた。
どれ程全力で走っても、その動きでは獣魔族のバロンに、槍は届かない。
鈍い打撃音が響く。
冬華の腹部に突き刺さるバロンの左膝。
「カハッ!」
血が冬華の口から吐き出され、雪原を赤く染めた。
よろよろと後退する冬華の膝が折れる。
しかし、そこで冬華は動きを止めた。
ここで、膝を着けば、立てなくなると、冬華は考えたのだ。
その為、必死に奥歯を噛み、膝に力を込めた。
だが、それでも立っているのがやっと。今の冬華には、それだけの力しか残っていない。
モウロウとする意識の中で、冬華の目はバロンではなく、その後ろに佇むシオの姿を見据えていた。
腕を組みただ金色の髪を揺らすシオは、その口から白い息を吐き出した。
「退くぞ……」
ボソリとシオは呟く。
その声に、バロンの頭に生えた獣耳がピクリと動き、静かに振り返る。
「シオ様? 今、なんと?」
驚き、我が耳を疑うバロンに対し、シオはもう一度白い息を吐き出し、
「聞こえなかったのか? 撤退だ」
と、冷ややかな眼差しをバロンへと向ける。
その殺気立った眼に、バロンは一瞬気圧され、息を呑んだ。
しかし、すぐに奥歯を噛むと「くっ」と声を漏らし、通信用のオーブを取り出した。
その頃、黒騎士――いや、勇者アルベルトと激闘を続けるクリスは――その膝を雪原へと落としていた。
大きく肩は上下に揺れ、その表情は険しい。
やはり、かつての英雄の右腕。その実力は相当なものだった。
何よりも、彼が扱う聖剣の破壊力は凄まじく、その一振りで軽々と数十名の兵をなぎ払う。
彼が怪力なのか、それとも、聖剣自体がそれだけの力を持っているのかは不明だが、そう考える方が妥当だろう。
白い息を吐くクリスは、両手の剣を地面へと突き立て、ゆっくりと立ち上がる。
クリスの動きに、アルベルトは鼻から息を吐き出す。
「まだ立つと言うのか? 諦めが悪いな」
アルベルトの言葉にクリスは左手を右目の眼帯へと掛ける。
だが、その直後、アルベルトのポケットから薄らと光が漏れ、
「すまん。通信だ」
と、アルベルトは聖剣を地面へと突き立て、ポケットからオーブを取り出す。
「なんだ? …………そうか。分かった」
アルベルトは手短にそう返答すると、聖剣を地面から抜き頭を右へと傾ける。
「悪いな。撤退だ。勝負はおあずけだな」
「なっ――くっ」
何故、逃げる。そう言い掛け、クリスは言葉を呑んだ。
そんな事を言える立場ではないと、理解していた。
それに、この場合、クリスの方が救われた立場だ。幸運だった。
と、同時に、クリスが最優先に考えたのは冬華の事だ。
冬華は無事なのか、シオはどうなったのか、何故、撤退するのか。
色々と考えるクリスは唇を噛み、アルベルトを睨んだ。
中衛――ディーマット対魔人族の青年。
その一帯は雪が剥げ、茶色の表皮があらわとなっていた。
地面に走るのは鋭い刃物で切りつけられた跡だけ。
そして、その土の上にディーマットは倒れていた。
右拳は砕け、引きちぎられた導線がバチバチと火花を散らす。
回路が壊れ、ディーマットの右腕は完全に動かなくなっていた。
「すみませんね。あなたに恨みはないんですが……」
魔人族の青年はそう言い、静かに剣を収める。
僅かに胸を上下に揺らすディーマットは、瞼を閉じその口から白い息を吐いた。
外傷は酷くは無いが、魔道義手は完全に破壊され、ディーマットに戦う術など残されていなかった。
白銀の騎士団“魔導の貴公子”と呼ばれていたディーマットが、圧倒的な魔力の前に敗北を喫したのだ。
それ程、相手の方が強かった。
それだけだった。
後衛――アース対獣魔族の青年。
双剣・嵐丸を嵐の如く振り回すアースは、次第に獣魔族の青年を追い込んでいく。
奥歯を噛む獣魔族の青年は、ブーメラン状の刃を戻し、一本ののこぎり状の刃の剣を構える。
すでに息を切らせる獣魔族の青年に対し、アースは殆ど息は切れていない。
二人の眼差しが交錯し、ゆっくりと時が流れる。
「この……化物め……」
獣魔族の青年がそう呟き、薄らと笑みを浮かべると、
「化物はお前の方だ!」
と、アースは地を蹴った。
間合いを詰めるアースへと、獣魔族の青年はのこぎり状の刃の剣を振り下ろす。
しかし、アースはその剣を右手の剣で右へと払い、左手の剣を突き出した。
「ぐっ!」
切っ先が深く獣魔族の青年の腹部へと突き刺さり、血が滲む。
それから、アースは獣魔族の青年を足蹴にし、剣をその体から抜くとすぐに距離を取った。
よろめく獣魔族の青年は、腹部を左手で押さえ苦悶の表情を浮かべる。
「くっそが……」
そう吐き捨てる獣魔族の青年に対し、アースは嵐丸を構える。
しかし、その直後、疾風が駆け、鋭い風の刃がアースを襲う。
「ッ!」
嵐丸を交差させ、その刃を防いだアースだが、それでも後方へと弾かれ地面を横転する。
「くっ! 誰だ!」
体勢を整え、そう声を上げるアースの目の前に、魔人族の青年が剣を構え立っていた。
「悪いですが、彼をここで失うわけにはいかないんですよ」
「誰だ……」
眉間にシワを寄せるアースへと、魔人族の青年は微笑する。
「僕はシオ様の右腕。フリード。次に会う時は僕が相手をして差し上げますよ」
フリードは紳士的にそう言うと、深く頭を下げ突風と共に土煙を巻き上げ、獣魔族の青年と共にその姿を消した。