第219話 異世界から来た魔族の少年
ただ、怖くて怖くて仕方なかった。
だから、冬華は堅く瞼を閉じたまま、全てを見ないようにしていた。
そうすれば、傷つかなくても済む。もう、誰かが傷つく所を見なくて済む。
そう、考えたのだ。
何が周囲で起こっているのか分からない。
ただ、ライオネットの怒鳴り声が響く。
「英雄、冬華を救い出せ!」
と。
肩を震わせる冬華は、その声に恐怖を感じた。
周囲を包む熱気に、自分が炎に囲まれたのだと分かった。
怖い。ただ、怖い。得体も知れない者が自分の目の前に居るのが。
そして、その人物が何もしないで、荒い呼吸を繰り返している事が、より一層恐怖だった。
何故、彼が自分の目の前に居るのか、何故、黙っているのか、わけが分からず、冬華の頭は混乱していた。
炎の向こうから兵達の声と、炎に何かがぶつかる音が聞こえる。
きっと、冬華を助けようと、多くの兵が攻撃を仕掛けているのだ。
それでも、炎は消える事無く燃え続けていた。
そんな折、冬華の耳に届く。
優しく穏やかな温かみのある声が――
「冬華、冬華?」
と、呼びかける。
しかし、冬華がその声に答えない為、更に彼は言葉を続ける。
「だ、大丈夫……か? おい。冬華」
心配そうな、不安げなそんな感じの男の声。
声の質から、若い事は分かった。恐らく、冬華と同じ位の歳だろう。
息遣いが荒いが、それをひた隠しにするように、少年は優しく言葉をかける。
「ごめん……冬華……遅くなって」
まるで、知り合いのように言葉をかける少年に、冬華は静かに顔をあげ、その瞼を恐る恐る開く。
一体、誰だろうか、と考える。
確かに、その声には聞き覚えがあった。ただ、思い出す事が出来ない。
顔を見れば、思い出すだろうか、と思ったが、やはりその顔に、覚えはなかった。
飛び散った鮮血を頬に付着させ、短い黒髪を揺らす少年。背丈は冬華よりも少し高く、俯く彼と冬華は目が合った。
赤い瞳に、尖った耳で、彼がすぐに魔族だと冬華は分かった。
だが、やはり冬華は彼を知らない。だから、思わず口にする。
「あ、あなた……誰?」
と。
そして、更に言葉を続ける。
「何で、私の事を……」
当然の疑問だ。
顔も知らない魔族の少年に、助けてもらう理由などない。
それに、どうして、自分の事を知っているのか、知っている風な事を口にするのか、分からなかった。
冬華の言葉に、魔族の少年は一瞬表情をしかめた。だが、すぐに微笑し、冬華の頭を右手で優しく撫でた。
(どうしてだろう……初めて会うはずなのに……懐かしい感じ……)
恐らくそこら辺に居る大人と比べると彼の手は小さい。
同年代だと平均的な手の大きさで、何処にでもいる普通の人の手だ。
なのに、どうしてか、彼に頭を撫でられると胸の奥が暖かくなり、気持ちが落ち着いた。
でも、何故、こんなにも気持ちが落ち着くのか、どうして懐かしいと思ってしまうのか分からず、冬華は戸惑っていた。
(本当に、私は彼を知らないの?)
そんな疑問が胸の奥深くで芽生える。
しかし、記憶を辿っても、名前も顔すらも分からない。しかも、魔族の少年。この世界であっているならば、必ず覚えているはずだった。
それだけ、冬華は記憶力には自信があった。
戸惑いを見せる冬華に対し、魔族の少年は一瞬悲しげな表情を見せる。だが、ほんの一瞬の事で、冬華はその事に気付かなかった。
いや、気付かなかったのではなく、気付くだけの余裕はなかった。頭の中がグチャグチャだった。
そんな冬華に、魔族の少年は静かに告げる。
「帰ろう。元の世界へ」
「えっ?」
魔族の少年の言葉に、思わず冬華はそう口にした。
正直、驚いていた。と、同時に、彼に対し、芽生える疑い。
信じる事など出来なかった。そもそも、本当に帰る方法があるのか、と冬華は考えていた。
しかし、魔族の少年は、真剣な眼差しを冬華へと真っ直ぐに向ける。
「大丈夫。俺を信じてくれ」
真剣な口調でそう言う少年に対し、
「で、でも……な、何で、そんな事……。わ、私、あなたの事、知らないし……」
と、冬華はうろたえる。
当然だ。初めて会う人に、信じてくれと言われても、信じる事など出来るわけがなかった。
不安を過ぎらせる冬華に、魔族の少年は息を呑み意を決した様に口を開く。
「俺も、キミと同じ、異世界から来た」
その一言に、冬華は驚き目を見開く。
何故なら、目の前に居るのは尖った耳に赤い瞳の魔族だからだ。
「えっ? あ、あなたも? でも……その耳……魔族、だよね?」
当然の疑問を冬華は投げ掛けると、少年は小さく頷く。
「ああ。俺は、この世界に来て、魔族になった。どう言う原理かは分からない。けど、元々はキミと同じ異世界の人間だ。だから、俺を信じて、一緒に来て欲しい」
真剣な言葉、真剣な眼差しに、冬華は思わず目をそむけた。
彼のその目には、嘘偽りは無い。それは分かるが、怖かった。
人を信じるのが――。
だが、それでも、帰りたいと言う気持ちが勝り、冬華は胸の前でギュッと手を握ると小さく頷き、
「わ、分かった」
と、口にする。
しかし、すぐに、
「……けど、本当に、帰れるの?」
と、顔をあげ、真っ直ぐに少年の目を見据え、確認するように尋ねた。
すると、彼は冬華の頭をもう一度優しく撫でた。冬華の不安を振り払うように、優しく。
そして、温かみのある声で、
「ああ。安心しろ。絶対に、お前だけは帰すから……何があっても……」
と、囁くように口にした。
その言葉に冬華の胸はドキッとする。と、同時に何故だか、不安が頭を過ぎる。
罠とか、騙されているだとか言う事ではなく、自分を助けてくれようとしている彼が、何故か消えてしまうような気がしたのだ。
だが、何かを言う前に、彼は冬華の手を握った。と、同時に周囲を囲っていた赤黒い炎が消滅し、
「行くぞ!」
と、魔族の少年は叫び走り出す。
炎が消えた事により、周囲を囲んでいた兵士が一斉に魔族の少年に襲い掛かる。
当たり前の事だが、ここは魔族にとって、敵地のど真ん中。当然の結果だった。
それでも、魔族の少年は襲い来る兵を一層するように左手に赤黒い炎をまとい、それを外に払う様に振り抜いた。
小高い丘の上から、混乱する戦場を見据える三つの影があった。
一人はケリオス。一人は長い黒髪を結った和服の男。そして、もう一つはローブを身にまとう魔術師。
魔術師は口元に薄らと笑みを浮かべ、戦場へと放った自らの僕である黒い影の化物を観察していた。
「しかし、いいんですか? 三つ巴の戦いにしても?」
戦場に居る黒い影の化物を見据えるケリオスは、腰に手をあて魔術師へと尋ねる。
すると、魔術師は肩を揺らし笑う。
「三つ巴? 何の為に最初の一撃で魔族と人間を分断したと思ってんだよ」
「何の為に? 開戦の合図、ではなかったんですか?」
爽やかな笑みを浮かべるケリオスは興味津々に尋ねる。
そんなケリオスへと、和服の男は目を細め、告げる。
「魔族からすれば、あの化物は人間が用意したモノ。そして、人間からすれば、魔族が用意したモノ。そう言う所だろ」
和服の男の説明にケリオスは小さく頷き、魔術師は「くくくくっ」と笑う。
「ホント、バカな連中だよ。敵が誰なのかも分からないまま戦ってるんだから」
「全くだ……」
「そうですねー」
三人の冷めた眼差しが、炎に包まれた戦場の全てを見据えていた。
魔族の少年に手を引かれ、どれ位走っただろう。
すでに兵達は振り切り、森の中を進んでいた。
強く握られた右手に、何故だか、冬華は幼い頃にこんな光景を目の当たりにした記憶が蘇った。
ただ、どうしてもその手を引く少年の顔は思い出せない。
それが、もどかしく、冬華は眉間にシワを寄せていた。
そんな冬華の手を引く魔族の少年は、大分呼吸を乱していた。
流石に、左手でアレだけの兵を相手にするのは無理があったようで、彼は負傷していた。
どれ程の傷なのかは分からないが、出血が酷いという事だけはハッキリと分かる。
「だ、大丈夫?」
思わず冬華は魔族の少年の背にそう尋ねる。
すると、魔族の少年は冬華の方へと微笑し、
「だ、大丈夫……心配するな」
と、掠れた声で告げた。
相当、無理をしているように見えたが、冬華は何も言わない。
彼が自分を安心させようとそうしているのだと分かったからだ。
どうして、そこまでしてくれるのか、考えれば考える程謎だった。
そんな時、少年は静かに足を止める。それに釣られ、冬華もゆっくりと足を止めた。
こんな所で立ち止まってていいのだろうか、と考える冬華だったが、その視界に蒼い二つの炎を目にし、息を呑む。
そこには、以前出会った魔族、ケルベロスが佇んでいたのだ。