第207話 残酷な光景
地に膝を着く冬華は俯き、肩を大きく上下に揺らしていた。
すでに耐え難いほどの頭痛が冬華を襲い、その痛みに声を挙げぬように必死に奥歯を噛み締める。
噛み締めた歯の合間から熱気を帯びた吐息だけが漏れる。
意識は薄らとあった。
ただ、もういつ途切れてもおかしくない程、それは脆弱なものだった。
体が何度も前方へと倒れそうになるが、冬華はギリギリでそれを踏み止まっていた。
強靭なる精神で何とか耐えていたのだ。
気を抜けば、もう立てなくなる。このまま意識を失ってしまう。
それを理解しているからこそ、冬華は拳を握り、意識を保っていた。
自分に切っ先を向けるケイトに、冬華は呼吸を乱したまま肩を落とす。
そんな折だった。
突如として冬華の頭の中に静かな声が響く。
(……貸そう。お……絶……力……)
雑音の混じった聞き取り辛い声。
その声が何なのか、冬華は分からない。
ただ、今までとはちょっと違う、そんな気がした。とても背筋がゾクリとする声に、どうするかを考えていると、その声が今度ははっきりと聞こえた。
(お前に絶対なる力を貸そう!)
と、言う低くおぞましい声が響くと、冬華の意識がプツリと途切れた。
そして、その瞬間、周囲の空気が張り詰め、耐え難いほどの重圧がその場を支配した。
息を呑むアオは、今まで感じた事のない重圧に険しい表情を浮かべる。
いつもの冬華とは全く別の気配に、アオは奥歯を噛み締めた。
もちろん、その異変にケイトも身の毛を弥立つ。俯く冬華の体から湧き上がる黒い気配に、寒気を感じていた。
「な、何だ……この力は……」
表情を引きつらせるケイトに対し、俯いていていた冬華が顔を上げると、金色の瞳が輝きを放った。
西地区へと場所は変る。
互いに譲らず剣を交えるクリスとエリオの両名。
二人共、すでに体は傷だらけだった。
互いの剣が体を斬りつけ、致命傷とまで行かないものの、出血は酷い。
呼吸を乱す二人は距離を取り、互いの顔を見据える。
ゆっくりと流れ行く風を頬に受けるクリスは、額から流れる血の混じった汗を左手の甲で拭うとふっと息を吐いた。
クリスの精神力は殆ど使いきっていた。
それは、エリオも同じで、疲弊しふら付いていた。
流石にこれだけ打ち合えば、エリオも疲れが出て当然だ。
元々、体を鍛えていたわけじゃないエリオと、クリスではやはり体力的な面で差が出ていた。
どれ程強力な力を手に入れたとしても、それを扱う者の体力が無ければそれは無力となる。
「そろそろ、終わりにするか……」
ボソリとクリスが呟く。
すると、エリオの表情が険しく変る。
戦いなれしていない為だろう。この長丁場で、胸が苦しく張り裂けそうな状態だった。
声を発する事すら出来ない程、エリオには余裕がなかった。
口を開き荒々しい呼吸を繰り返すエリオに、クリスは目を細める。
「どうした? 大分、余裕が無い様に見えるが?」
「だ……だま……」
呼吸が乱れ、エリオは上手く喋る事が出来なかった。
その様子に静かに息を吐き出すクリスは、静かに剣を振り上げる。
これで決着をつけようと、クリスは考えていた。
そんなクリスに対し、エリオもゆっくりと手にした長刀を振り上げる。
互いにやろうとしていることは同じだった。
「力比べをしよってわけか……」
クリスは静かにそう言うと、振り上げた剣へと精神力を注ぎ、炎を灯す。
螺旋を描き煌く炎が刃を包みこみ、その火力が徐々に上がっていく。
遅れて、エリオも自らの剣へと精神力を注ぎ炎を灯した。
同じく螺旋を描く炎が刃を包み、火力が爆発的に上がる。
同じ構えの両者が同じように精神力を注ぐ。
そして、二人は同時に動く。
「紅蓮大刀!」
「紅蓮大刀!
クリスに遅れてエリオが叫ぶ。
二人の声に鼓動するように、刃を包む炎が更に火力を上げる。
「「極炎」」
二人の声が重なり、振り上げた剣を勢い良く振り下ろす。
煌く炎が刃を振り下ろすと同時に前方へと勢い良く飛ぶ。地面を抉り螺旋を描く炎がぶつかり合う。
激しい衝撃が広がり、熱風が吹き荒れる。
炎の衝突により、二人の足は地面を抉りながら後方へと下がり、それでも力を緩める事無く炎を放ち続ける。
どちらかの精神力が尽きるまで、二人は止める気はなかった。
高熱が二人の体を襲い、全身から大量の汗が溢れ出す。
ジリジリと後ろへと押さえるクリスの足の裏には抉られた土が山のように積もっていた。
それ程、エリオの放った極炎の威力が強力だった。だが、それも最後の灯火だった。
力を使いすぎたのか、エリオの懐に入っていた水晶に亀裂が生じる。
そして、その亀裂から邪悪な力が漏れ、やがて亀裂は広がっていく。
すでにエリオの体がこの力に耐え切れない程の状態だった。
だが、もちろん、そんな状態で長く持つわけが無く、エリオの力は唐突に途切れた。
エリオの極炎の炎が消滅すると、今まで抑えていたクリスの極炎が勢い良くエリオを呑み込んだ。
それにより、エリオの懐から零れ落ちた水晶は砕けて消えた。水晶が砕けた事により、エリオの体から黒い霧状の煙が噴き上がる。
剣を振り下ろした状態で動かないクリスは、荒々しい呼吸を繰り返し静かに膝を地面へと落とした。
クリスも全ての精神力を使いきった。もう腕も上がらない、足も動かない。
これ以上、戦う事など出来ない状態だった。
「はぁ……ぐっ……はぁ……」
大口を開け荒々しい呼吸音を響かせるクリスは、よろめき左手を地についた。
「え、エリオは……」
そう呟きクリスは顔を上げる。
視線の先に映るのは仰向けに倒れるエリオの姿。
衣服は焼け、体も酷い火傷を負ったエリオは、ピクリともしない。
生きているのか、死んでいるのかも分からない状態の中、クリスの体はゆっくりと前のめりに倒れる。
もう体が限界だった。意識は遠退き、クリスはそのまま意識を失った。
それは、一瞬の事だった。
反射的にケイトは神速状態へと入る為に、地を蹴り一速目のギアを上げた。
だが、冬華の金色の瞳は、そのケイトの動きを追うようにゆっくりと動き、遅れて顔を、そして、体がケイトを正面に捉える様に動く。
本来、一速であっても、初速から一気に加速する為、目にも止まらぬ速さのはずなのだが、冬華はその動きを完全に目視していた。
(な、何だ! コイツは!)
焦り、動揺、恐怖。
ケイトの心臓は激しく鼓動を打ち、その音だけが体の中を駆け巡る。
(二速!)
右足を地面へと着くと同時に、力を込め更にギアを上げる。
先程は右へと移動したが、今度は左へと向きを変えた。足に掛かる負担は大きいが、これでさっきのはたまたまだと、自分に言い聞かせる。
そう。ケイトが右利きだから、冬華もそれを予想し、たまたまそれが上手くいっただけ、そうケイトは考えたのだ。
だが、ケイトの考えと裏腹に、冬華の金色の瞳はやはりケイトを追うように右へと動き、遅れて顔、そして、最後に体を向ける。
(くっ! 何故だ! 何故――)
一速目よりも、二速目は遥かに加速してスピードも上がっている。なのに、何故、冬華はその動きを目視できる。
そう思うケイトは奥歯を噛み締めると、続けざまに三速目を蹴り出す。
あと一速上げれば、神速へと入れる。そう思うケイトだったが、直後その額を拳が打ち抜く。
鈍く骨の砕ける音が響き、ケイトの体が空中で一転し地面へと落ちた。
額が割れ、鮮血が飛び散っていた。
三速目に入り、常人を超えるスピードだったのも影響したのだろう。その一撃でケイトは動けなくなった。
頭蓋骨が砕かれる程の衝撃。
その衝撃を生み出したのは、やはり冬華だった。
右拳は返り血で真っ赤に染まり、その血が顔にまで付着していた。
ここまでが、一瞬の出来事だ。
仰向けに倒れ動かないケイトの視点は揺らいでいた。いまだに何が起きたのか、理解していない。
そして、アオも分からない。ケイトが消えて次の瞬間には鈍い打撃音と衝撃が広がり、地面をケイトが跳ね土煙が舞っていた。
目を見開くアオは、呆然と目の前の光景を眺めていた。
静かに歩みを進める冬華は、仰向けに倒れるケイトの前で足を止めると、拳を振り上げそれを顔へと叩き落す。
鈍い音が轟き、地面が砕ける。放射線状に鮮血が散り、冬華の拳がゆっくりと上がる。すると、続けざまに逆の拳を振り下ろす。
鈍い音が、何度も何度も響き、地響きが起こる。
目の前の残酷な光景に、呆然としていたアオは我に返り、声を上げた。
「と、冬華! 止めろ!」
アオの声で、冬華の動きが止まる。
その瞬間、冬華の肩が脱力し、瞼を閉じた。
遅れて、ゆっくりと瞼が開かれる。金色だった瞳がいつもの黒い瞳に戻っていた。
「んっ……んんっ?」
手に残る妙な感触に冬華は首を傾げる。
そして、ゆっくりと拳を上げ、驚愕する。
血で真っ赤に染まった両拳と、自分の足元に転がる顔を潰された一つの遺体。
それを見て冬華は――
「えっ……な、な、何で……そ、そんな……わ、私が……イヤアアアアアッ!」
悲鳴があがる。
その手に着いた血が――、足元に転がる遺体が――、物語る。
冬華が、ケイトを殺したのだと。