第190話 響く呻き声の中で
――バレリア大陸南地区統括拠点。
高い塀に覆われた大きな建物、それが、現在南地区の拠点となる砦だった。
外壁の内側には小さいながらも町が存在し、総勢数万の人々が暮らしている。
今の所、人間と魔族の間には隔たりがあるものの、それでも少しずつ仲は改善されていた。
そんな砦の奥から響く呻き声が、夜の街に広がる。
響き渡る呻き声に、次々と家々に明かりが灯り、町には明かりが溢れていた。
不安げに人々は外へと集まり、皆の視線は砦へと向けられていた。
そんな砦の奥、救護室に呻き声の主は居た。
硬いベッドの上で身をよじり、両手を鎖で柱につながれた冬華だった。
その喉には赤く爪で引っ掻いた様な痕が刻まれ、血が滲む。苦しさのあまり、自らの爪で喉元を掻き毟ってしまうのだ。
故に、こうしてベッドの柱に鎖で拘束される形のなっていた。
部屋の隅に佇むアオは腕を組み、その隣に並ぶレオナは不安そうに胸の前で手を組む。
出会った当初の頃と明らかに苦しみ方の違う冬華に、アオは疑念を抱いていた。本当に、アレは神の力なのか、と。
本来、幾ら強い力と言っても、使うにつれ免疫、耐久性が生まれるはずだ。それに、あの頃はまだ体がついて来なかったと言えば納得出来たが、あの頃よりも遥かに力をつけているはずの現在の方が一層苦しんでいると言うのも、その疑念を強くする要因となっていた。
冬華の拘束されたベッドの傍には、一人の男が佇む。赤毛と青毛が混ざった髪を揺らすその男は、冬華の姿に険しい表情を浮かべる。
「どうだ? ケイト」
壁に背を預け佇むロズヴェルは、ケイトと呼んだ男の背を真っ直ぐに見据える。
振り返ったケイトは、穏やかな顔で冷ややかさを伴ったその眼差しをロズヴェルへと向け、首を縦に振った。
「えぇ。確かに、この現象は十五年前の英雄と同じ現象のようですよ。資料の記述とほぼほぼ同じですよ」
ケイトは淡々とそう述べるが、その表情は浮かない。
その為、ロズヴェルも疑念を抱いたのか、瞼と閉じ紫の瞳を一旦隠した。
「しかし、本当にこれが神の力による副作用なのか?」
俯き静かに尋ねるロズヴェルに対し、ケイトは肩を竦める。
「さぁ? 当時のことは僕には分かりませんね。何せ、十五年前は奴隷でしたから」
ニコッと爽やかな笑みを浮かべるケイトに、ロズヴェルは右手を額に当てる。
「そうか……お前も、奴隷出身者だったな……」
「えぇ。まぁ、現在の主力は皆、奴隷出身者かも知れませんね」
穏やかにそんな事を言うケイトだが、それは深い心の傷になっている事だった。
普通ならこんな明るく口にする事なんて出来ないだろう。
ケイトの発言に離れてみていたアオは表情を険しくする。そして、その隣りに並ぶレオナも。
僅かに肩を震わせるレオナの脳裏に深い深い闇が過ぎった。
思い出したくない過去の記憶が僅かに蘇る。震えるレオナの肩へとアオは右手を置くと、静かに呟く。
「外に出てろ」
「で、でも……」
「いいから出てろ。話は俺一人で聞く」
アオの静かな落ち着いた声に、レオナは小さく頷く。
「わ、分かった……ごめん」
「いや、いい。気にするな」
アオはそう言うと、レオナの肩を二度叩いた。
レオナが部屋を出ると、アオは深く息を吐き、ロズヴェルとケイスの方へと足を進める。
その間も部屋に響く冬華の痛々しい呻き声は激しさを増し、とても聞いていられるモノではない程辛い。
それでも、アオは真剣な表情を崩さず、二人の前で足を止める。
ロズヴェルとケイトはアオへと視線を向ける。
「久しぶりですね。連盟の犬、ことアオさん」
ケイトが静かにそう口にすると、アオは眉間に僅かなシワを寄せる。
「十五年前と本当に同じなのか?」
「実際にどれ程苦しんでいたのかは定かではありませんが、記載されている文書を見る限りでは、同じだと断定する方がいいかもしれません」
ケイトが丁寧な口調でそう返すと、アオは腕を組み俯いた。
納得は出来なかったが、資料にそう書かれているならばそうなのだろうと、納得せざる得なかった。
複雑そうな表情のアオに対し、ケイトは右手を胸の前まで上げると、首を傾げる。
「納得行きませんか?」
「そう……だな」
鼻から抜けるような声でアオがそう言うと、ロズヴェルも鋭い眼差しをケイトへ向け口を開く。
「俺も、納得は出来んな。いくら神の力が強大とは言え、あの苦しみ様は異常だ」
ロズヴェルの言葉にケイトは肩を竦める。
「僕にそんな事言われてもねぇ……当事者じゃないですから……」
「お前達はどう思う? 彼女のこの力の事を?」
二人に対し、アオが真剣な眼差しで尋ねた。
その表情に、飄々とした表情だったケイトは、鼻から静かに息を吐き出し真剣な表情を作り、右手で髪を掻き揚げた。
「僕の意見としては、この力は使うべきではない。正直、神の力と言うのも信じがたいですね。それに……。この激痛にこの先彼女が耐えられると言う保障はありません。何れ、壊れてしまう」
「……そうか」
「だが、彼女は同じような状況になれば、また使用するだろうな」
腕を組むロズヴェルがボソリと呟いた。
その言葉にアオは表情を曇らせる。同じ事を思ったのだ。
冬華はきっと誰かを守る為ならこの力を使用する。自分の身よりも、他の人を優先させるだろう。
どんなに苦しもうとも、どんなに恐怖に包まれようとも、救える者がいるなら救いたいと言う気持ちが勝ってしまうのだ。
「正直、何故、彼女がここまでするのか、僕には分かりません」
「英雄……だからか?」
ロズヴェルはそう呟き、アオへと目を向ける。
だが、アオにもその答えは分らず首を振った。
「俺には分からない。けど、そう、単純な事ではないだろ?」
アオの真剣なその言葉に、ロズヴェルとケイトは納得したように瞼を伏せた。
砦の屋上で夜風に当たるライは、空を見上げ深々と息を吐き出した。
未だ響き渡る冬華の声に、耐えられず屋上まで来たが、結局その声は何処に居ても聞こえ、気分は最悪だった。
縁に腰掛け脚を投げ出した形で座るライは、夜風に茶髪を揺らすと一本のタバコを取り出した。
それを口に銜えると、ライはふっと唇の合間から息を吐き出した。
「コラコラ。タバコは体に悪いわよ」
ライへとそう嗜めたのは、今しがた屋上へとやってきたレオナだった。
夜風に身を震わせるレオナは、長い金色の髪を揺らすと、優しい眼差しをライの背に向け、ゆっくりと歩みを進める。
火のついていないタバコを銜えたままのライは、もう一度息を吐くと空を見上げる。
「分かってるよ。大体、俺がタバコ嫌いなの知ってるだろ?」
「あら? じゃあ、どうしてそんなの銜えてるのかしら?」
レオナが手すりへと身を預け、向こう側に居るライへと尋ねる。
すると、ライは片膝を立て、手すりへと背を預けレオナを見上げた。
「そりゃ、女の子の唇が恋しいからさぁ。最近、忙しくて、ナンパもしてらんねぇーからな」
「ふふっ。ご愁傷様ね。でも、元々成功率低いんじゃない?」
「はぁ? 馬鹿言うなよ。狙った獲物は逃さない! 百発百中の男だぞ?」
肩を竦めるライが、冗談めいた風に答えると、レオナは「そっ」と素っ気無く答え笑みを浮かべる。
しかし、その笑みはいつに無く暗く、ライは鼻から息を吐き、
「何だよ? 辛気臭いぞ?」
と、右手で口に銜えたタバコを取り、尋ねる。
その際、なるべくレオナの顔を見ないように視線は夜の町へと向けていた。
パーティーとして長く一緒に居るからだろう。そう言う微妙な空気を察知するのは速く、レオナは呆れた様に息を吐く。
「何でもないわよ。バーカ」
「おい……心配してんのに、バカはないだろ?」
「さぁて、じゃあ、今日は疲れたし、休むわね」
「おい! 人の話を聞け――」
レオナは右手をヒラヒラと振り、そのまま屋上を後にした。
その背を見送ったライは、目を細め鼻から息を吐くと、
「全く……素直じゃねぇーの」
と、呟きタバコをポケットへとしまった。