第183話 過去を失うよりも今を失う方が
ふら付く冬華は、右手の甲で鼻血を拭った。
手の甲にこびり付く真っ赤な血。だが、冬華はそれを気にする事無く、深く息を吐くと、呻くような声を上げる化物と化したルーイットへと目を向けた。
何故、急に獣化したのか、冬華にもクリスにも分らない。
唯一分かる事は、現在ルーイットは自我を失い暴走状態だと言う事だけだった。
体勢を低くし槍を構える冬華は、複雑そうな表情を浮かべる。仲間に――友達に刃を向けるなんて、思っても居なかった。
だから、心が激しく痛む。
「ぐおおおおおっ!」
背を仰け反らせ、おぞましい濁った声をルーイットは轟かせる。
その声量により生まれた衝撃が、古びた道場を半分以上破壊し、瓦礫が宙より降り注いだ。
ゆっくりと体を起こすルーイットは大きく裂けた口を薄らと開くと、熱の篭った息を吐き出し、その真っ赤な目をギョロギョロと動かし辺りを見回す。
殺気を帯びたおびただしい魔力に、冬華もクリスもその場を動く事が出来ない。
今、動けば、間違いなくやられると、直感していたのだ。
(ど、どうしたら……)
冬華の額に汗が滲む。
(くっ……こんな時に……)
唐突にクリスの体を襲う眩暈。ここに来て、三日間の不眠不休の影響が出始めていた。
視界がかすみ、平衡感覚が僅かに失われ、右へ左へと上体は揺れる。どうにか、倒れるのだけは堪えているが、それでも倒れるのは時間の問題だとクリスは感じていた。
ここで、冬華を一人きりにするのだけは、避けなければならない、そうクリスは考えていた。
奥歯を噛み締め、目を凝らし必死に意識を保つクリスは、苦しげに息を吐き出すとその手に精神力を集中する。
だが、こんなフラフラな状態で上手く精神力を集中する事などできず、クリスはその手に剣を呼び出す事すらままならない。
(くっ……このままじゃ……)
焦りが更にクリスの集中力を見出し、精神力は徐々に失われていく。
その最中、化物と化したルーイットはゆっくりと動き出す。低く腹に響く様に喉を鳴らし、その不気味な顔を左右に動かした。
クリスの方に目を向けた後、その顔は冬華へと向く。
まるでどちらを最初に狙うのかを決める様に何度も何度も頭を振るう。
やがて、その動きが緩やかになり、冬華の方にピタリと動きを止めた。その瞬間、冬華は寒気を感じ、全身の毛が逆立つ。
それは、直感したのだ。
“来る!”
と。
そして、その直感通り、ルーイットは数倍に膨れ上がったその足で強く地面を蹴り、冬華の方へと突っ込む。
「と、冬華!」
思わずクリスは声を上げる。だが、その瞬間、凄まじい眩暈に襲われ、ついに膝を地面へと落とした。
「ぐっ……」
表情をしかめ、声を漏らす。
(冬華が危ない時に、私は……)
硬く瞼を閉じ、悔しげに唇を噛み締めた。
地面を砕きながら冬華へと直進するルーイットは、指先から飛び出した爪を地面に突き立て、更に加速する。
攻撃に備える様に、冬華は槍を体の前に構え、防御体勢に入った。踏ん張りやすい様に両足は肩幅に開き、僅かに膝を曲げる。どんな衝撃でも膝のバネを使って受け止めよう、そう考えたのだ。
それから、意識を集中し、体に精神力をまとわせる。自動発動の光鱗の効果が強まればいい、と考えとった行動だった。
(大丈夫! 大丈夫!)
そう自分に言い聞かせ、冬華は両足に力を込めた。
直後、衝撃と共にルーイットの右足が冬華の前へと踏み込まれる。地面が砕け、鋭い砕石が冬華の体を襲う。皮膚が裂け、血が滲むが、それでも冬華はその視線をルーイットから外さず、ただその拳を見据える。
「うがああああっ!」
雄たけびと共に振りかぶられた右拳が冬華へと振り下ろされた。
強靭に膨れ上がった腕から放たれる速く鋭い一撃が冬華を襲う。
「うぐっ!」
槍の柄でルーイットの拳を受け止める冬華の表情が歪んだ。槍の柄が大きくしなり、ミシミシと軋む。折れてしまうんじゃないか、そう思うほどしなった後、冬華の両足が地面から引き剥がされ、後方へと弾かれた。
「がっ! うっ、くっ……」
体を縦回転させながら、冬華は地面に何度もバウンドする。バウンドする度に地面が砕ける音が響き、激しく土煙が舞い、砕石が飛び散った。
どれ程まで飛ばされたのか、どれ程までバウンドしたのか、冬華には定かではない。
だが、もうろうとする意識の中、冬華は自分が立ち上がっている事に驚いた。
光鱗により、打撃は完全に受け止めたが、地面にバウンドした時の衝撃は防げず、冬華の額からは血が流れ、腕や足などからも血が流れていた。
最近になり気付いたが、光鱗が発動するのは純粋な攻撃にのみ。その為、地面に叩きつけられたり、壁に打ち付けられたりと言うモノに対しては全く持って効果が発揮されない。
故に、投げ技や打撃により弾かれた際に壁などに衝突するとその衝撃をモロに体に受けてしまう事になる。
左肩を宙ぶらりんに揺らす冬華は、表情をしかめ左瞼を閉じた。
激痛が左腕を襲ったのだ。折れているのか、それとも脱臼しているのかは定かではないが、力を入れようにも動かす事が出来ず、痛みだけが激しく体を駆け巡る。
「うがああああっ!」
もう一度背を仰け反らせ、ルーイットが声を上げる。激しい衝撃が地面を大きく陥没させ、砕石が宙へと舞う。
もうろうとする冬華には、雄たけびを上げるルーイットが、苦しんでいる様に見えた。涙で視界が滲み、冬華は唇を噛み締める。
友達を傷つけたくない。刃を向けるなんてしたくない。
葛藤する冬華は、瞼を閉じ俯いた。このままで言いわけが無いのは分っている。だからこそ、覚悟を決めなきゃいけない。
あの船で出会った女性の忠告を思い出す。
『二度とあの力を使うな』
『仲間を失う事になっても』
その言葉が頭の中を巡るが、冬華は決断する。
(例え、過去を失う事になっても、今を失う方がよっぽど怖い! 私は守りたい! 大切な仲間を――、大切な友を!)
もうろうとしながらも冬華は神の力を解放する。全身から迸る眩い輝き。体中に駆け巡る激痛は、神の力を使用する度に間隔が短くなり、冬華は思わず表情を歪める。
それでも、意識を保ち、荒れ狂うルーイットへと目を向けた。
「い……今……、助けて……あげる……」
片目を閉じたまま、冬華はそう静かに口にした。右手に握り締めた真っ白な柄。その先に輝く透き通る様な蒼い刃は、神の力を受け眩き光を放つ。
ゆっくりと右足を踏み出した冬華は、深く息を吐き出し、意識を集中する。
(絶対に外せない……この一撃で、ルーイットを助けないと……)
膝が震えるのを、必死で堪える。この体であとどれ位動けるだろうか、ルーイットを元に戻す事が出来るのか、色々と疑問は浮かぶ。
だが、激痛によりそんな疑問はすぐに吹き飛んだ。考えている場合じゃないと、理解したのだ。
激痛に耐えながら冬華は二度、三度と深呼吸を繰り返す。心を静め、落ち着きながら冬華は左足を踏み出す。
大きく腰を捻り、背を仰け反らせる冬華は、その右手を引く。右腕を折り、柄を握り締める右手は冬華の頭よりも後ろまで引かれていた。
上半身をねじった為、自然とふっくらとした小高い胸がこれでもかと張られ、骨がミシミシと軋む。
「いっけぇっ!」
激痛の走る左肩を引き、連動するように腰を回転させる。そして、一気に右肩が前へと飛び出し、冬華はルーイットに目掛け、槍を放つ。
体は前のめりになり、全体重を踏み込んだ左足一本で支える。その衝撃が地面が砕き、放たれた槍は拘束でルーイットへと迫った。
(当たる!)
僅かに顔を挙げ、槍の軌道を確認した冬華は、そう思う。だが、直後だった。
鈍い音が冬華の体を貫き、
「ゲホッ!」
その口からは大量の血が吐き出された。
唐突に自分の体が地面へと崩れ、何が起きたのか冬華には理解できなかった。