第180話 闇に身を委ねて
ジャイアントラビットの大きく長い耳がピクッと大きく跳ねる。
クリスへと向かっていたジャイアントラビットの前歯は、ピタリと止まっていた。
その肩へと突き刺さる直前だった。その他のジャイアントラビットも突然動きが止まり、皆、その大きな耳を左右に動かしていた。
完全に殺気は消え、戦意喪失した様子のジャイアントラビットに、呼吸を乱すクリスは、剣を下ろしゆっくりと後退りする。
なるべく、ジャイアントラビットを刺激しない様に、冬華の下まで移動する。
冬華も槍を下ろし、肩の力を抜いた。
何が起こったのか分からないが、ジャイアントラビットの様子がおかしい。
先ほどまであれ程鋭かった目付きも穏やかに変わり、空を見上げキョロキョロと辺りを見回す。
そして、冬華とクリスの存在に気付いたのか、ジャイアントラビットは身を震わせると、逃げるようにその場を後にした。
静まり返ったその場に吹き抜ける静かな風が、木々の葉を揺らす。
葉の擦れ合う音だけが響き、冬華とクリスは静かにその手にしていた武器を消した。
何もなく無言の時が流れる。
その中で、冬華は苦笑すると、右手で頬を掻き首を傾げた。
「な、何だったの……かな?」
「さ、さぁ?」
クリスも苦笑し、肩を竦める。
だが、すぐに表情を引き締め、静かに呟く。
「でも、やはり何かが起きている様です……」
深刻そうなクリスの様子に、冬華は腕を組み鼻から息を吐くと肩の力を抜いた。
クリスは考えすぎだと、冬華は思った。しかし、冬華も妙な感じがしていた。
何がどうか、と聞かれると分らないが、何かヘンな感じがしていた。
深く息を吐いたクリスは、腰に手を当てると口元へと笑みを浮かべ冬華を見据える。
「とりあえず、戻りましょうか」
「そうだね。日が暮れる前に戻れるといいね」
「そうですね」
クリスはニコッと笑みを浮かべ、小さく頷いた。大人びたクリスの笑顔に冬華も微笑し、ゆっくりと歩き出した。
ルーイットとエリオの待つ道場へと向かって。
静明流剣術道場の奥。
そこに一つの影があった。
小柄な背丈に長い黒髪を揺らすその男は、その唇に当てていた小さな筒を下すと、薄らと口元へと笑みを浮かべた。
「今日の所は見逃してやろう」
そう呟き、男は肩を揺らし静かに笑った。
夕刻。
冬華とクリスは何とか、道場まで辿り着いていた。
「はふぅーっ! 疲れたーっ」
縁側で大の字に倒れる冬華がそう声をあげると、鍋の様子を見ていたルーイットが半笑いで冬華へと顔を向けた。
「もう、そう言う所、おっさん臭いよ?」
「そ、そうかな?」
慌てて体を起こした冬華は、不安げな表情をルーイットへと向ける。流石に女を捨てているわけではない為、おっさん臭いと言われると正直、胸が痛んだ。
料理も苦手で、女としての魅力もない。そんな自分に一体何が残されているんだ、と、冬華は肩を落とし重い空気を漂わせる。
一方、頭の後ろで束ねていた白銀の髪を下ろしたクリスは、腰に手を当てその美しい髪を揺らしながら辺りを見回す。
とりあえず、辺りの気配を探ってみたが、今の所危険なモノはなさそうだった。
それと、同時に目視でエリオを探すクリスだが、その表情が険しく変わる。
「ルーイット!」
「んんっ? 何かなぁ?」
鍋の蓋を外し、お玉で中をかき回すルーイットは、手を止める事無くそう答えた。
慌てた様なクリスの様子に、落ち込んでいた冬華は顔を上げると、小首を傾げる。一体、何をそんなに、慌てているのだろう、と。
だが、すぐに冬華も気付いた。辺りにエリオの姿がない事に。
「アレ? え、エリオは、どうしたの?」
思わず冬華がそう口にすると、ルーイットも手を止め、思い出したように顔を上げる。
「あ、アレ? そ、そう言えば、お昼過ぎから見てないよ? 二人と一緒だったんじゃないの?」
「いや、エリオはここに残ると……」
眉間にシワを寄せるクリスは、くっ、と声を漏らすと拳を握り締める。
自分の所為でエリオの心に深い傷を与えた上に、これ以上エリオが傷付いてしまったら――。
そんな事を考え、クリスは唇を噛み締めた。
場の空気が緊張に包まれるその瞬間、冬華は跳ねる様に立ち上がり声を上げる。
「探そう! きっと、昨日みたいに果物や木の実を探しに行ってるだけかも知れないから、この辺りにいるはずだよ!」
胸の横で拳を握り、そう言う冬華の声に、クリスは唇を薄らと開き息を吐いた。
肩の力を抜き、焦りで空回りしてしまいそうだった自分を、冷静にさせてクリスは返答する。
「そう……ですね。それに、エリオは、ここでずっと生き延びていた実績があります。きっと……大丈夫だと思います」
「うん。そうだよ! とりあえず、私とクリスで森を探して来るから、ルーイットはここで待機しててね」
「わ、分かった! 気をつけてね!」
お玉を片手にルーイットはそう言った。
森の奥深くにある泉の前に、エリオの姿はあった。
泉の前に佇むエリオは、その薄汚れた黒髪を揺らし、ただその場に立ち尽くす。
何かをするわけでも無く、何かを口にするわけでもない。
ただ、魂が抜け落ちたかの様にその場に佇み、水面に映る蒼い空を見据えていた。
風の音と草木の囁きが響き、時折鳥や獣の鳴き声が聞こえてくる。
とても静かな場所で、人によって穢される事無く、美しい花々が咲き誇っていた。
泉も透明度が高く、深いその泉の底まではっきり見る事が出来る程だった。
エリオの――エリオの家族だけの知っていた特別な場所。ここに来ると、エリオは父や母の事を思い出す。
思い出しては、あの日の記憶が蘇る。
父を――、母を――、その手で殺した時のあの瞬間を。
「ぐっ!」
奥歯を噛み締めるエリオは、拳を震わせ堅く瞼を閉じる。
その目尻に僅かに溢れる涙は、静かに頬を伝う。
無力だったあの頃の自分を呪い、恐怖の前に屈した自分の弱い心を憎み、この国の絶対的な悪であるバルバスに忠誠を誓う、全ての者を恨む。
憎悪が胸の奥で逆巻き、エリオは胸元へと隠していた水晶を左手で取り出した。
まるでエリオの憎悪を模した様に水晶の中では黒い霧状の物質が荒れ狂っていた。そして、エリオの頭に声が響く。
(力を――解放しろ)
(思うがままに暴れろ)
(全てを壊せ……この世界の全てを――)
様々な声が響き、エリオは両手で頭を抱えるとその場に蹲った。
「うああああっ! ああああああっ!」
呻き声を上げ、エリオは頭を強く掴む。激しい頭痛がエリオを襲っていた。
耐え難い苦痛に、エリオはただただ声を上げる。悲鳴にも似た声を――。
そして、心の奥底から溢れ出した憎悪は、ジワジワとエリオの体を――、心を――、蝕んでいた。
(クリス……さん……ごめんなさい……)
そう心の中で呟き、エリオはやがて身を委ねる。
その激痛から逃れる為に――。
その心の傷を忘れる為に――。
自分の心の奥底から湧き出る憎悪へと、その手に握り締めた水晶から発せられる禍々しい力へと、エリオは呑まれていった。
光など届かぬ深い深い闇の中へと……