第179話 じょーだんじゃない!
陽が暮れ始めた頃、冬華はクリスと共に茂みを抜け、一つの古びた道場へとやってきていた。
距離は、紅蓮流剣術道場からおおよそ十キロ程で、開けたその場所に寂れた建物が残されていた。
木造の古びたその建物を見据え、クリスは儚げな表情を浮かべる。
コケやカビの付着する壁、ひび割れ薄汚れた窓ガラス、腐り底の抜けた床。
とても人が住んでいる気配はなかった。
冬華とクリスがここに来たのは、もしかするとエリオと同じようにヒッソリと道場で暮らしている者がいるんじゃないか、と考え見に来たのだ。
だが、結果はごらんの通り、誰かが住んでいると言う事はなかった。
静けさ漂うその中で、クリスはゆっくりと足を進める。
縁側へと足を踏み入れると、腐りかけの床が軋む。今にも割れてしまいそうな音を響かせる床に、クリスは慌てて足を退ける。
やはり誰も出入した形跡は無い。
目を細めるクリスは、その場から道場の中を真っ直ぐに見据える。何も無く、ただ荒れていた。
門下生達はどうなったのか、もう静明流は継承されていないのか、そう考えるクリスに、冬華は背後から声を掛ける。
「ねぇ、どう? 誰かいそう?」
冬華の問いに、クリスは小さく頭を左右に振った。
その答えに、冬華は「そっか……」と静かに答え、俯き眉をひそめた。
やはりここにはもう何もない。無駄足だったか、とクリスが深くため息を吐いたその時、背後で茂みが激しく揺れた。
瞬時に振り返る冬華とクリス。
そして、クリスは右手にひび割れた剣を転送し、冬華は槍を呼び出した。真っ白な細い柄に美しい透き通るような蒼い刃が煌く。
息を呑む二人は、意識を集中し、辺りを警戒する。
と、その時、茂みから飛び出す真っ白な塊。
フカフカの毛並みに長い耳を揺らす、人間と同じ大きさほどの生き物に、冬華は目を丸くする。
それは、昨日、クリスが狩ったジャイアントラビットだった。四本足で地を踏み締めるジャイアントラビットは、赤い瞳を冬華とクリスの方へと向ける。
それから、前歯をカタカタとぶつけ合い、首を右へ、左へと傾けた。
「何だ……ジャイアントラビットか……」
安堵する冬華だが、クリスはすぐに異変に気付いた。
何故、ジャイアントラビットが“ここに居る”のか、と言う事だった。
そして、直後に、クリスは叫んだ。
「冬華!」
クリスの声を同時に、ジャイアントラビットの毛並みが逆立ち、目の色が僅かに濁った。
迸る殺気に冬華とクリスは息を呑む。そして、ジャイアントラビットは空を見上げ声を上げる。
“があぁぁぁぁぁっ!”
その声に草木がゆれ、無数の鳥が空へと飛び立つ。だが、次の瞬間、更に森の中から数体のジャイアントラビットが空へと飛び出し、その口で舞う鳥を仕留め冬華とクリスの前へと降り立つ。
衝撃など無く、僅かな土煙を巻き上げる程度の静かな着地を決めたジャイアントラビットが五体。先程の鳴き声を上げたモノと合わせ、計六体のジャイアントラビットが二人へと目を向ける。
完全に息の根を止めた鳥を地面へと下したジャイアントラビットの目の色がやはり濁る。
違和感を感じるクリスは、一歩足を退くと冬華へと囁く。
「合図を出したら、全力で逃げますよ」
クリスの声に冬華は静かに頷く。
だが、その二人の声が聞こえたのか、六体のジャイアントラビットはその大きく長い耳をピクッと動かすと、その内二体が跳躍し道場の天井を破り、二人の背後へと回りこんだ。
屋根が壊れる音が響き、道場の中には瓦礫が散乱する。埃が舞う中へと目を向けるクリスは表情を歪める。
やはり、何かがおかしい。
臆病なジャイアントラビットにしては、その行動が好戦的過ぎた。
何が起こっているのか分からず、クリスは眉間にシワを寄せる。考えようと思うが、現状そんな事をしている場合ではないと、判断した。
「冬華!」
クリスが合図を出すと、冬華は腐りかけの木製の手すりを壊し、そのまま森へと駆ける。クリスもその後に続く。
だが、ジャイアントラビット達もその動きに反応するように跳躍し、冬華の正面へと一体のジャイアントラビットが降り立った。
「クリス!」
足を止めた冬華がそう声を上げると、クリスはその横を駆け抜け、正面のジャイアントラビットへと突っ込む。
「紅蓮一刀!」
クリスがひび割れた剣を振り上げる。炎が刃を包み込み、クリスはジャイアントラビットへと右足を踏み込む。
その動きに対し、ジャイアントラビットも大きく右手を振りかぶる。その指先には鋭利な爪が三本飛び出ていた。
だが、本来ジャイアントラビットの武器は鋭い二本の前歯。その為、その爪は短くとても致命傷を与えられるものではない。
それをクリスは理解している為、気にせず踏み込んだ足へと体重を乗せ、頭上に構えた剣を振り下ろした。
「――火斬!」
紅蓮の炎に包まれた刃がジャイアントラビットの体を上から下へと切りつけた。火の粉が舞い上がり、ジャイアントラビットの真っ白な毛が燃える。傷口は炎により焼け、血は一切出ない。
だが、クリスの振り下ろした剣の切っ先が地面へと触れた瞬間、ジャイアントラビットの足元に亀裂が生じ真っ赤な炎が地面を突き破り火柱が吹き上がった。
それと同時に塞がっていた傷口が開き、鮮血が激しく噴出す。まるで溶岩の様に。
“ぐがああああっ!”
ジャイアントラビットの悲鳴が響き渡るが、クリスは気にせずその横を駆け抜ける。
「冬華! 立ち止まらずに突き進んでください!」
クリスの声に、立ち止まっていた冬華は我に返り走り出す。
背後に迫っていたジャイアントラビットの拳が地面へと突き刺さり、爆風が冬華の背中を押した。
それにより、転げそうになるが、何とか冬華はバランスを保ち、クリスへと追いつく。
「な、何なの! アレ! お、おと、大人しい動物じゃないの?」
冬華が声を上げると、クリスは複雑そうに表情を歪め、小さく頷いた。
「えぇ。本来は臆病で大人しい動物です。人を襲うなんてありえません」
「い、今の状況見ても、同じ事言える?」
明らかにジャイアントラビットに襲われているこの状況に、冬華がそう言うと、クリスは苦笑する。
「案外余裕ですね。冗談を言えるなんて」
「じょーだんじゃないから! ホント、何処が臆病で大人しいのよ!」
冬華がそう叫んだ時、二人の間を一体のジャイアントラビットが突き抜ける。その跳躍力を上へではなく、真っ直ぐに正面に向けて突っ込んできたのだ。
「くっ!」
クリスが足を止め、遅れて冬華も足を止める。それにより、冬華の方が少しだけ前に出る形になった。
二人が足を止めた事により、後ろから迫っていたジャイアントラビットも追いつき、二人は完全に前後を挟まれた。
背中合わせに立つ冬華とクリス。正直、状況は最悪だった。
「どうしますか?」
「ど、どうしますって……戦うしか……ないでしょ?」
クリスへとそう答えた冬華は表情を引きつらせる。
すると、クリスは「ふふっ」と静かに笑い、
「そうですね。愚問でした」
と、小さく頭を下げた。
そして、静寂が辺りを包み、冬華とクリスは深く息を吐き出した。
気を引き締め、戦闘態勢に入った二人に、ジャイアントラビットは一斉に襲い掛かる。
冬華には正面の一体。クリスには後方から来ていた四体。
ひび割れた剣で何処まで戦えるか、一瞬クリスはそんな事を思う。だが、すぐに体は動く。
一番最初に突っ込んできたジャイアントラビットへと前蹴りを見舞い、左側で大きく右拳を振り上げるジャイアントラビットへと体を反転させながら斬撃を見舞う。
踏み込みが浅かったのか、僅かに毛を切り裂いただけで、拳を振り上げたジャイアントラビットにダメージは無く、そのままその拳がクリスへと下された。
もちろん、かわす事は容易い。だが、クリスはかわさず、それを剣で受け止める。ひび割れた刃が軋み、クリスは「くっ!」と声を漏らした。
それに遅れ、右側から飛び出したジャイアントラビットが口を開き、その鋭い牙をクリスへと振り下ろした。