第177話 朝から響くルーイットの悲鳴
明け方の事だった。
「あぁーっ!」
悲鳴の様なルーイットの声で、冬華は目を覚ました。
上半身を起こした冬華は寝惚け眼で周囲を見回し、それから大きな欠伸を一つ。そして、腕を挙げ背筋を伸ばし、「んんーっ」と声を漏らす。
一方、飛び起きたクリスは、瞬時に辺りを見回した後、声の方へと走り出した。
「どうした!」
乱れた白銀の髪を揺らし、クリスは外へと飛び出した。
すると、火の消えた焚き火にかけられた鍋の前に立つルーイットが、涙目をクリスへと向ける。
何があったのか分らず、訝しげな目を向けるクリスが小さく首を傾げると、ルーイットはガックリと肩を落とし、
「鍋……完全に冷えちゃってる……」
「はぁ?」
思わずクリスがそう口にすると、ルーイットは鼻声で、
「うぅー……火の番スッカリ忘れてたよぉー……煮込みなおしだよー……」
と、凄い落ち込みようだった。
余程、料理に対してこだわりがあるのだろうと、クリスは呆れたが、同時に関心もした。
右手で白銀の髪を掻き揚げたクリスは、静かに息を吐き出すと、ルーイットの方へと足を進める。
その際、火の番をしていたであろうエリオの姿を捜し、訝しげに首を傾げた。
「おかしいな……。エリオが火の番をしてたはずなんだが……」
「うぅ……折角美味しいの食べてもらおうと思ったのにー……」
ショックが大きかったのか、ルーイットは未だにそんな事を呟いていた。
その為、クリスは苦笑し、右手で頭を掻いた。
と、そこに、大きな欠伸をするエリオが茂みから姿を見せる。寝癖ではねた髪には数枚の葉っぱが付着し、衣服は土に汚れていた。
「ふぁぁぁぁっ……。す、すみません……。寝てしまいましたー」
申し訳なさそうに俯きそう言うエリオに、ルーイットは涙目で唸りながら、
「いいよー、いいよー……。うん。私が悪いんだよー。やっぱ、料理は自分で見なきゃダメなんだよぉー」
冷え切った鍋の中を見据え、ルーイットはそんな事を呟いた。
申し訳なさそうなエリオに、クリスは微笑しその頭を二度優しく叩いた。
「気にするな。私達の方こそ、悪かったな。一番年下のお前に火の番なんてさせて」
「いえ……そんな……」
視線を逸らし俯いたエリオに、クリスは訝しげな目を向ける。俯いたエリオの右頬に昨夜はなかった切り傷が残っていたのだ。
その為、クリスは右手の親指でその傷をなぞり、尋ねる。
「どうしたんだ? この傷は?」
「えっ?」
慌ててクリスの手を払ったエリオは、右手でその傷を触る。そして、苦笑し、
「多分、寝惚けて木の枝に引っ掛けたんだと思います」
と、早口で述べた。
その言葉を聞き、クリスは鼻から息を吐き出すと、「気をつけるんだぞ?」と優しく告げ、腕を組んだ。
そんな折、道場から大きな欠伸をして冬華が出てくる。寝癖でボサボサの髪を右手で掻く冬華は、まだ眠いのか、目を細めたままボーッと縁側に立っていた。
振り返ったクリスは、寝惚ける冬華に困ったように微笑する。
「冬華」
「ふぁぁぁい。顔……洗ってきまふ……」
右手を挙げ、眠そうにそう言う冬華は、トボトボと洗面所へと歩き出した。
クリスはそれを見送り、ルーイットの方へと足を進め、その肩を叩いた。
「そう落ち込む事ないだろ? また、温め直せばいいじゃないか」
「うーん……。そうかもしれないけど……どうせなら、美味しいモノ食べて欲しいじゃない?」
紺色の獣耳をうなだらせ、そう言うルーイットはもう一度深々と息を吐いた。
それから、昨夜の残りである料理を温めなおし、朝食をとっていた。
穏やかな食卓の中、ルーイットは外で焚き火にかけられた鍋の方を何度もチラチラと見据える。
余程、鍋が気になるのだろう。
そんなルーイットと対照的に、冬華は美味しそうに肉を頬張っていた。
「んんーっ! 美味しいねぇー」
朝からは非常に重いであろう朝食だが、冬華は苦にした様子はなく明るい笑顔を見せていた。
クリスも大して気にした様子が無いが、エリオの食は進まない。流石に朝からお肉は辛いものがあったのだろう。
その為、クリスは心配そうにエリオを見据え、深く息を吐く。
「どうしたんだ? 箸が進んでないぞ?」
「えっ? あっ……。いつもは、朝は食べないので……流石にお肉はキツイです」
「そう? 私は全然平気だけど?」
冬華は不思議そうにそう言い、パクッと肉を一口食べた。そして、幸せそうな笑みを浮かべ、「美味しいー」と声を上げる。
幸せそうな冬華の表情に、エリオは苦笑し、静かにお肉を口に運んだ。
和やかな朝食を終えると、冬華は気合を入れる。
「よし! それじゃあ、朝の鍛錬しよっか?」
「そうですね。では、今日は手合わせでもしましょうか?」
「えぇーっ。まだまだクリスには敵わないよー」
不満げにそう言う冬華だが、クリスは穏やかに笑う。
「いえいえ。冬華の成長が早くて、私も必死ですよ」
謙遜するクリスに、冬華は肩を竦めふっと息を吐いた。
幾ら成長が早いと言っても、それでもクリスの長年の経験と戦術の前に冬華は今の所負け越していた。
そんな二人のやり取りを聞いていたエリオは不思議そうに頭を右へと傾ける。
「冬華さんは、クリスさんと何度も手合わせをしてるんですか?」
唐突なエリオの問いに、冬華は目を丸くし、クリスは苦笑する。
クリスが苦笑するのには理由があった。この道場にいた当時の事を思い出したのだ。
まだ、クリスがこの道場に通っていた頃、本気で相手が出来るのは、龍馬位だった。と、言ってもその当時は少なからずクリスの方が強かった。
その為、毎度毎度クリスは龍馬をボコボコにしていた。それはもう、生傷が絶えない程に。
恐らく、その当時は道場で師範であるエリオの父に次いで強かった為、そんなクリスと何度も手合わせをしているにも関わらず傷など無い冬華の姿に、エリオは少々驚いていたのだ。
そんなエリオに対し、冬華は困った様に笑った。
「ここ最近は無いけど、ついこの間までは稽古つけてもらってたよ」
「そうなんですか……僕がまだ幼い頃のクリスさんは、手加減てモノをしらなくて、門下生をそれはもう何度も病院送りにしてましたよ?」
冗談混じりにそう言うエリオに対し、クリスは赤面に慌てて声を上げる。
「む、昔の事だ! あの当時は、色々とあったんだ!」
「へぇー。クリスにもそう言う過去があるんだねー」
「と、冬華! い、今の話は聞かなかった事にしてください!」
「いやー。とりあえず、暫くは忘れないかもしれないなぁー。うんうん」
腕を組み、何度も頷く冬華に、クリスは恥ずかしそうに「忘れてください!」と声を上げていた。
それから、数時間が過ぎた。
真面目に稽古をする冬華とクリスの二人。久しぶりに本気での手合わせを行った結果――
「あいたた……」
「大丈夫ですか? でも、まさか捨て身の攻撃を仕掛けてくるとは思いませんでしたよ」
頭を冷たいタオルで冷やす冬華に対し、クリスは呆れた様に笑いそう告げた。
結果はもちろん、クリスの勝利だ。ただ、冬華も善戦はした方だった。
素早い連続の突きからの捨て身の特攻。リーチが長い分、先に当たると、踏んでの特攻だったが、クリスはそれを軽く払いのけ、突っ込む冬華の頭へと木刀を振り下ろしていた。
光鱗で守られているとは言え、流石に今回の一撃は重かったのか、冬華の額は赤く腫れ、コブになっていた。
「うぐぅーっ……また負けたー」
「けど、凄かったです! クリスさんをあそこまで追い込むなんて!」
興奮するエリオが両拳を脇の下に握り締め、声を上げる。しかし、冬華は不服だったのか、頬を膨らせクリスへとジト目を向けた。
「凄くないよぉー。クリス、途中で手を抜いて、ワザと私に攻めさせたんだから!」
「えっ? そうなんですか?」
「い、いや……アレは、戦略で、別に手を抜いたわけじゃなく、相手に攻めさせて体力を消耗させ、隙を作るための――」
苦笑しながらそう説明するクリスだが、冬華は両手を挙げ地面に寝転がり、
「くあぁーっ! 完敗だぁー!」
と、大声を上げた。
そして、改めて感じさせられる。クリスの強さと己の未熟さを。