第176話 静かなる夜
皆が寝静まった深夜の事だった。
月明かりが差し込む森の中を駆ける一つの足音。
纏った鎧が走るたびにぶつかり合いカンカンと金属音を奏でる。
大きく口を開き荒い呼吸を繰り返す兵士は、頭に被っていた鋼鉄の兜を投げ捨て、続いて手甲、胸当て、と次々に重い鎧を外していく。
少しでも身を軽くしようと、少しでも遠くに逃げようと必死だった。
どれ位走り続けたのか、兵士は大木の幹に背を預け、黒髪から汗を滴らせる。呼吸は整わず、肩は大きく上下に揺れていた。
「き、聞いてねぇ……聞いてねぇぞ……あ、あんな、ば、化物がいるなんて……」
声を震わせ、そう呟いた兵士は、息を呑んだ。
背を預ける大木の向こうに人の気配を感じたのだ。
重く長く感じる程の静寂が漂い、兵士は乾ききった口に僅かに湧き出た唾液を呑み込む。喉元がゴクリと動いた。
だが、次の瞬間――
「グアアアアアッ!」
大木の幹に切れ目が入り、兵士の背中からは鮮血が噴き上がる。背を仰け反らせ、兵の体は前方へと崩れた。
そして、その背後では切り裂かれた大木が音をたて崩れ落ち、落ち葉と土煙を激しく舞い上げる。
その中に佇む一つの影。小柄な背丈に似つかわしくない刀身の長い不気味なオーラを放つ刀を持ち、ゆらりと黒髪を揺らすその影は、薄らと開かれた口に微かな笑みを浮かべる。
森の中に兵士の悲鳴がこだました。
木々がざわめく中、隊を組む数十人の兵達の中にジェスの姿があった。
皆、辺りを警戒し、緊迫した空気が漂う。現在、この部隊――いや、レジスタンスと言うべき存在の彼らに、正体不明の存在が襲い掛かっていた。
夜の闇に紛れ襲い来るその人物は、恐らく一人。背丈は低く、幼い子供の様な風貌だった。
ただ、薄暗い為、顔立ちも詳しい年齢も不明で、彼らはこうして一塊になり、辺りを警戒していた。
数人のガーディアンが盾を片手に周囲を固め、内部には魔導師と弓兵が身構える。
ジェスとハーネスは更に彼らの内側で周囲全体に注意を払っていた。
冷たい風の吹き抜ける中、ジェス達の額には大粒の汗が滲み出ていた。それ程、その場の空気は重く、息苦しかった。
真紅の髪を揺らすジェスは黒い瞳を激しく左右に動かし、やがて喉を鳴らす。そして、隣りに佇むハーネスへと目を向ける。
「おい……。アレは一体、何だったんだ?」
深刻そうな表情でジェスがそう尋ねる。
あの正体不明の者が襲い掛かってきたのは、月が傾き始めた頃だった。
奇襲――と、言うわけではなく、静かな足音と共に闇の中に姿を見せたその人物は、まるで自分の存在を誇示するかの様に片手に持った刀を引き摺り足を進める。
一瞬、兵達は戸惑った。かく言うジェスもそうだ。異様なその存在に、一瞬、ほんの一瞬だけ目を奪われた。
直後、ジェスが叫んだ。その者が大きく刀を振りかぶるのを目にしたからだ。だが、時は無情に流れ、その者の近くに佇んでいた五・六人の兵の首が一瞬にして刎ねられた。
鮮血が柱の様に噴き上がり、体を失った頭が空より地上へと舞い落ちる。頭を失った体はやがて崩れ落ち、後に悲鳴がこだました。
それが、開戦の合図になり、その正体不明の者が不適な笑みを浮かべ突っ込み、ジェスは隊を守る為に瞬時に剣を抜いた。
迅速なる一閃だったが、その者はまるでジェスを避けるように身を翻し、次々と兵だけを襲っていった。
その後、散り散りになり逃げ出し、現在に至る。
兵は知る限り十数人は死んでいる。あと、逃げる際に散り散りになった為、更に多くの兵が犠牲になったと、ジェスは推測していた。
そんなジェスの問いに対し、ハーネスは無言のままただひたすら辺りを警戒し続けていた。
「チッ……」
小さく舌打ちをしたジェスは、ハーネスと同じように辺りを警戒する。
そんな折だった。草木がざわめき、空よりジェスとハーネスの間に何かが落ちたのは――。
唐突な事に二人の視線が下へと向いた。そこに転がるのは肘から先だけの血に塗れた一本の腕だった。
目を見張る二人。鼓動が速まり、二人はほぼ同時に動く。
(上か!)
顔を挙げ、視線を空へと向ける。だが、そこには何も無く、傾く月だけが浮かんでいた。
「いない……」
訝しげに眉をひそめるジェス。
だが、次の瞬間、金属が擦れ合う音が響き、悲鳴が轟いた。
「ぐあああっ!」
轟いた悲鳴に、ジェスとハーネスの二人はすぐに振り返る。
そこには右腕を切断され、肘から鮮血を噴かせる一人の兵士が居た。左手でその傷口を押さえ、喚く兵士に止めの一撃と言わんばかりに刃が突き立てられ、その背から細く長い刃が突き出した。
鮮血が刃から滴れ、ジェスとハーネスは目を見開いた。
ゆっくりと刃は抜かれ、兵の体が崩れ落ちる。その向こうに佇む小柄な影に、ジェスは剣を構え、ハーネスは静かに剣を抜いた。
騒然とする兵達はその小柄な影に目を向け、各々武器を構える。
「来るぞ!」
ジェスが叫ぶと、その小柄な影は前傾姿勢でハーネスへと突っ込んだ。
その影に対し、ハーネスはすり足で右足を前に出すと、左腰の位置に構えた剣へと精神力をまとわせる。
その瞬間、駆け出していた小柄な影は勢いを止め、後方へと飛び退いた。本能的に危険を感じたのか、それともハーネスの動きを警戒したのかは定かではないが、それは正しい判断だった。
今、間合いに入っていれば、間違いなくハーネスは奴を切断していただろう。
たった一度のやり取りの後、またしても静寂が流れる。小柄な影と対峙するジェスとハーネスは、全神経を研ぎ澄ませ、ただその影の動きを見据える。
一瞬の勝負になると分っているのだ。
ジリジリと間合いを詰めるように詰め寄るハーネスに対し、小柄な影は自分の背丈以上の長さの刀を中段に構え、大きく後方へと振りかぶっていた。
間合いは圧倒的に小柄な影の方が広い。その為、ハーネスも迂闊に前に出る事が出来なかった。
そんな中、ハーネスはジェスへと目で合図を送る。その合図にジェスは小さく頷くと、小柄な影へと駆け出す。
その動きに小柄な影の視線がジェスの方へと向く。この瞬間にハーネスも走り出す。
完全に陽動役へと回るジェスだが、小柄な影は瞬時にその体をハーネスの方へと向け、振りかぶった刃を放つ。
「ハーネス!」
ジェスが叫び、強引に振り抜かれる刃の軌道上に入り込む。そして、抜刀した剣でその刃を防いだ。
鈍い金属音が響き、月明かり照らすその中に火花が散る。僅かに体が左へと押し込まれるが、ジェスは何とか刃を押さえ動きを止めた。
(力はコッチに分がある!)
ジェスはそう考え、左足を踏み込み力で刃を押す。
あの小柄な体格では俊敏性はあっても、純粋な力勝負でジェスに敵うはずがなかった。
もちろん、ジェス自身もその事を理解した上で、強引に間合いに割り込んだのだ。
そのジェスの動きにハーネスは一気に小柄な影へと間合いを詰め、懐に入り込む。
(貰った!)
ハーネスは右足を踏み込むと、精神力を纏わせた刃に風を纏わせる。
逆巻く風が刃を鋭利なモノへと変貌させ、その瞬間にハーネスは静かに告げる。
「陣風地走り!」
下段に構えた剣をハーネスは鋭く振り抜く。
下段から放たれる迅速の一撃。真下から真っ直ぐ切り上げる一撃は、風の属性により目にも止まらぬスピードで地を駆ける。
切っ先が地面を抉り土煙を巻き上げ、刃は小柄な影へと襲い掛かる。
だが、次の瞬間、ハーネスの上体が後方へと弾かれた。
「ぐっ!」
上半身が大きく後方へと伸び、ハーネスの顔が歪む。鼻から噴出した血から、顔面を殴打されたのは理解した。
「ハーネス!」
一瞬の後の出来事に、ジェスが驚き声を上げる。しかし、その瞬間、力で抑えていた小柄な影の刃がジェスの体をなぎ払った。
「うぐっ!」
弾き飛ばされたジェスは激しく横転する。だが、すぐに体勢を整え、小柄な影の方へと顔を向ける。
そんなジェスの視界に飛び込んだのは、うごめく不気味な影だった。
先程までそこにあったはずの小柄な影は失われ、膨れ上がった両腕が上下に激しく揺らぐ。
「な、何だ……アレ」
驚くジェスは息を呑む。一体、自分達は何を相手にしているんだ、と恐怖を感じていた。