第172話 麗かな日常
早朝、冬華は道場の縁側に胡坐を掻き、精神統一を行っていた。
しかし、昨夜はあまり眠れなかった所為か、自然と大きな欠伸がこぼれた。
「ふぁぁぁぁっ……」
今日、何度目かの欠伸に、クリスは訝しげな眼差しを向ける。
折角の精神統一も、こうも集中力が欠けては全くの無意味だった。
その事を理解している為、クリスは素振りをする手を休め、冬華の方へと歩みを進める。そして、隣りに座ると、静かに尋ねた。
「どうしたんですか? 今日は、やけに集中力が乱れているようですが?」
心配そうな声に、冬華は苦笑する。
「ううん。ちょっと、昨日は眠れなくて……」
「そうですか。それじゃあ、今日はゆっくりとしていてください。集中力が欠けている状態で鍛錬してもしかたないので」
「うん……そうするね」
冬華はそう言うと、もう一度大きな欠伸を一つした。
足を投げ出し、背筋を伸ばす冬華は、何気なく空を見上げる。
青い空に流れる散り散りの真っ白な雲。とても静かで、平々凡々な日常だった。
久しぶりにこんな時を過ごす気がする。平和だなぁーと冬華はもう一度大きな欠伸をして、コクッと僅かに頭を動かした。
麗かな陽気と寝不足から、ここに来て急激に眠くなったのだ。
うとうととする冬華の姿にクリスはふっと、息を吐くと、素振りを再開した。
頭の後ろでまとめて留めた白銀の髪が木刀を振るたびにゆらゆらと揺らす。
久々に道場に響く鋭い風切り音に、寝ていたエリオは目を覚ました。
久しぶりに心の底から安心して寝る事が出来た。
いつもなら小さな物音ですら目を覚ますほど、眠りが浅かったが、今日は熟睡してしまっていた為、少々エリオは寝惚けていた。
まだ十三と言う幼い顔立ちのエリオは、子供のように右手で目を擦り、ゆっくりと庭の方へと出てきた。
「稽古中……ですか?」
眠そうなエリオの声に、クリスは素振りを止め体を向けた。
そして、申し訳なさそうに眉を曲げ、
「すまない。起こしてしまったか」
と、静かに呟いた。
すると、エリオは首を小さく左右に振り、ニコッと無垢な笑みを浮かべる。
「いえ……。木刀を振る音なんて懐かしいなぁ、と思って……」
「そうか……。エリオは、剣術はやらな――」
そこまで言って、クリスは言葉を呑む。昨夜の話を思い出したのだ。
その手で父や、門下生の首を刎ねたのだ。剣術などすれば、余計にその事を思い出してしまう。
エリオの気持ちを考えれば、すぐに理解出来たはずなのに、とクリスは申し訳なさそうに俯いた。
瞼を閉じるクリスに対し、エリオは苦笑する。
「大丈夫ですよ。クリスさんが傷付く事無いですよ」
「本当、すまない……お前の気持ちを分ってやれずに……」
深く頭を下げたクリスに、エリオは寂しげな目で笑う。あんな風に気を使われると、エリオとしても申し訳なくなった。
静まり返ったその場所で、クリスとエリオは言葉を探す。
何を話せばいいだろうか、どうしたらいいだろうかと、二人共押し黙っていた。
そんな折、床の軋む音が響き、ルーイットの大きな欠伸が聞こえた。
「ふぁぁぁぁぁっ!」
縁側までやってきて、ルーイットは両腕を振り上げ背筋を伸ばす。背骨がパキッパキッと音を立て、静まり返っていた空気を一変させた。
ヒョコヒョコと獣耳を動かすルーイットは、鼻を小刻みにヒクヒクと動かし、やがて振り上げた腕を下ろす。
「風が気持ちいいねー。けど、ちょっと道場はかび臭いかな?」
苦笑するルーイットに、エリオは申し訳なさそうに「すみません」と謝った。
すると、ルーイットは慌てて両手を大きく振り、
「わわっ! そ、そんなつもりじゃないよ! べ、別に、文句があるとか、そう言うんじゃないんだから!」
と、必死に取り繕っていた。
しかし、実際、道場がかび臭いのは本当の事で、エリオもそう思っていた為、「気にしないでください」と、半笑いしていた。
獣耳を折りたたみ、落ち込むルーイットは両肩を落とし、「ホントごめんねー」と沈んだ声で謝っていた。
場の空気は一気に明るく変り、クリスは関心する。
冬華と言い、ルーイットと言い、場の悪い空気を変えてしまう不思議な雰囲気を持っていた。
故意的にそうしているのか、それとも天然なのかは定かではないが、その悪い空気を一瞬で変えてしまう二人に、クリスは感謝する。
二人の様な存在がいなければ、クリスもここまで旅を続ける事は出来なかっただろう。
そして、クリスは安堵したように柔らかな表情を浮かべた。
顔を洗ったルーイットは、タオルで顔を拭きながら、クリスの素振りを見ていた。
剣術とは無縁のルーイットだが、クリスの素振りが鋭く美しい事は分かる。
「ほえぇー……」
間抜けな声を上げるルーイットに、エリオは呟く。
「凄いですよね」
「えっ?」
「あの素振りだけで、どれほどの力量があるのか分りますよね」
満面の笑みでそう言うエリオだが、ルーイットにはさっぱりだった。確かに綺麗だとは思うが、イマイチ凄さは分らなかった。
眉をひそめ首を傾げるルーイットは、鼻から息を吐くと腕を組んだ。
それから、暫くクリスの素振りをルーイットはエリオと共に眺めていた。
風切り音の合間に僅かに聞こえるのは、冬華の寝息。余程眠かったのだろう。冬華は気持ちよさそうに寝ていた。
呆れた眼差しを向けるルーイットは、小さく首を振り、
(そっか……昨日は結局寝れなかったんだ……)
と、口元に薄らと笑みを浮かべた。
「はぁ……はぁ……よし。今日はこれ位にしておこう」
ようやく、素振りを終えたクリスは、そう言うと腰に手をあて、背を仰け反らせた。
それから、タオルで汗を拭い、ルーイットへと目を向ける。二人の視線が交錯し、数秒が過ぎた。
何かを言うわけでも無く沈黙が続き、やがてルーイットが小さく首を傾げる。
(な、何で、コッチを見てるんだろう?)
そんな事を考えていると、エリオの方が沈黙を破る。
「そう言えば、クリスさんは、どうしてここに戻ってきたんですか?」
正座したエリオが、両膝に手を置き前のめりになりながらそう尋ねた。
その言葉に、クリスはゆっくりと縁側に腰を下ろす。それから、頭の後ろで留めていた髪を解き、白銀の髪を揺らし答える。
「ここに戻ってきたのは、初心に戻ろうと思ってな。それに、皆の顔も見たかった……んだがな」
苦笑し、遠い目で空を見上げた。
まさか、道場は潰れ、師匠も門下生も皆、死んでいるなどと、誰が予想できただろう。
まだまだ教えてもらいたい事はあった。それに、まだ何も恩を返せていない事を考えると、情け無く思う。
気落ちするクリスに対し、エリオは「すみません」と小声で謝った。
「別に謝る事は無いさ。それより、エリオは大丈夫だったのか? この八年間」
「はい。最初は苦労しましたけど……この辺りは果物も多いですし、海も近いですから、食料に困る事はないですよ」
十三歳の少年とは思えぬ答えに、クリスは「そうか」と静かに呟き、ルーイットはただただ驚いていた。
本当に十三歳なんだろうか、と疑いの眼差しを向け、ルーイットは首を捻った。
「あぁ、それから、実は冬華が元の世界に帰る方法を探している最中でな、その情報も無いかと思ってここに寄ったんだ」
「冬華さんの元の世界に帰る方法?」
「ああ。冬華は異世界から来た英雄だ」
クリスの言葉で、エリオは思い出す。冬華を紹介した時の言葉を。だが、すぐにその表情は曇り、
「本当に、英雄さんなんですか? 何処にでもいる女の人にしか見えませんけど?」
と、怪訝そうに寝ている冬華に目を向けた。
愛らしい寝顔の冬華を見据え、クリスはふっと静かに笑う。
「見えないかもしれないが、彼女は間違いなく英雄だ」
「そ、そうなんですか?」
納得できないと小さく首を傾げるエリオは、渋々と言う感じでそう呟いた。
そんな折、腕を組んでいたルーイットが、
「そう言えば、私も知ってるよ? 異世界から来た人」
と、思い出したように呟いた。
その言葉にクリスは目を丸くし、エリオはジト目を向ける。こうも頻繁に異世界の人がいるわけが無い、そう言いたげな眼差しだった。
だが、クリスは妙に気迫の篭った目をルーイットへと向けると、その両肩を掴み声を荒げる。
「ほ、本当か! ルーイット!」
「えっ、あっ……うん。本人もそう言ってたし、間違いないと思うよ? 周りの皆も、そう……言ってたし……」
おぼろげにそう言うルーイットに、クリスの目が輝いた。冬華が元の世界に帰る為の小さな希望を見つけた。
きっとこれは大きな前進だと、クリスは一人拳を握り締めていた。




