第171話 辛さの大きさ
全てを話し終えたエリオは、正座した膝の上に置かれた両拳を震わせていた。
その手に、未だに残る。父の首を刎ねた時の感触。
その目に、未だに残る。涙を流しながらも、笑う死に際の父の顔を。
その耳に、未だに残る。父の最期の言葉――。
“私は死しても、汝の傍に居続ける。たとえ、この先、どれ程の苦悩があろうとも、きっと汝を照らす日輪の輝きがあらん事を”
父のその言葉を胸に刻み、エリオは今、この時まで生きてきた。
一人で、ずっとずっと。
心が折れそうになった時も、この言葉を思い出し必死に堪えてきた。良い事なんて殆どなかったが、つい最近感涙した事があった。
それが、バルバスの死だった。
誰だか分からないが、暴君バルバスを殺してくれた、そう思った時涙が自然とこぼれたのだ。
しかし、それでも、エリオの罪は消えない。その背に刻まれた十字架は、重く重く、今も尚エリオを苦しめていた。
噛み締める奥歯がギリギリと僅かな音を立てる。
それほど、エリオは苦しんでいたのだ。
エリオの苦しみをクリスは理解し、震えるその手を優しく握り締めた。
「すまない……私の所為で……」
全ては自分が悪い、そう言うように呟いたクリスは、瞼を閉じ俯いた。
クリスが母の死を知ったのは、船上だった。
丁度、フィンク大陸へと向かう途中。あの時、すぐにバレリアに戻ればよかった。
だが、あまりにショックが大きく、結局クリスは放心したまま、フィンク大陸を横断し、クレリンス大陸に渡り、ゼバーリック大陸へと流れ着いた。
それからは、母の死を忘れるようにイリーナ王国でひたすら腕を磨いてきた。
まさか、ここがこの様な状態になっているなどと、考えすらしなかった。
胸が締め付けられる。自分の所為で多くの人が命を落とし、エリオは深い心の傷を負った。
今まで平然と生きてきた事に、怒りを覚える。そして、自分自身が憎い。
重苦しい空気が道場内を包み、沈黙が漂う。
あまりにも衝撃的な話だった為、冬華もルーイットも言葉を失っていた。
五歳の子供に処刑をさせるなんて信じられない事だった。
結局、その後、話など出来はしなかった。
皆がショックを受け、言葉を発する事が出来なかったのだ。
敷かれた布団の中で、冬華は天井を見つめる。あんな話を聞かされた後に眠れるわけはなかった。
その為、冬華は静かに布団から抜け出した。
床の軋む音に、ルーイットはピクッと獣耳を動かす。そして、ゆっくりと起き上がると、小さく首を傾げる。
「冬華?」
ルーイットも眠れなかった為、空っぽになった冬華の布団を見据えて、静かに道場を抜け出した。
綺麗になった庭の真ん中に佇む冬華は、月明かりを浴び美しくその黒髪を輝かせる。
それを縁側から眺めるルーイットは、静かに息を吐き出し、
「どうかした?」
と、その背に向かって投げ掛ける。
ルーイットの声にビクッと肩を跳ね上げた冬華は、慌てて振り返った。
「る、ルーイット? な、何で?」
「何でって、私も眠れなかったから」
驚いた表情の冬華に、ルーイットは微笑し右手で頭を掻いた。
紺色の髪を揺らし、庭へと出たルーイットは、空に浮かぶ月を見上げる。
それから、静かに息を吐き出し、腰に手を当てた。
「酷い話だったね」
「そう……だね」
エリオの話を思い出し、冬華は眉間にシワを寄せる。
嫌な話だった。思い出したくも、想像したくも無い、とても不快な話だった。
肩を落とし俯く冬華の姿に、ルーイットは困った様に眉を八の字に曲げる。正直、ルーイットもこの国であんな残酷な事が起きていたなんて、知らなかった。
だから、気持ちは冬華と同じだった。
何と言えばいいのか、何て言っていいのか、分らず言葉を選びながらルーイットは口を開く。
「今はもう、そんな事起きないよ。その暴君って呼ばれた人ももう居ないし……」
「でも、心に刻まれた傷は、一生残るんだよね……」
「それでも、人は生きていかなきゃいけないんだよ。クリスだって、冬華だって、同じでしょ?」
「えっ?」
ルーイットの言葉に、冬華は顔を挙げ首を傾げる。
すると、ルーイットはニコッと笑みを浮かべ、右手で紺色の髪を掻き揚げ、
「今まで、辛い事があったでしょ? 私だってそうだよ。けど、だからって立ち止まってられない。前に進まなきゃ、未来は切り開けないんだから!」
と、ルーイットは胸元で右拳を握り締めた。
何となく、ルーイットの言いたい事は分かる。
冬華も、今まで辛い事はあった。セルフィーユが居なくなり、シオが居なくなり、大切だった記憶を失い……。
でも、それらの事を足しても、エリオが受けた心の傷には到底及ばない事だと、小さく頭を左右に振った。
「やっぱり、エリオと比べたら、私の辛さなんてちっぽけなモノだよ」
「辛さに大きいも小さいもないと思うよ。だって、誰にも比べられないじゃない? 人にとって大した事ない事でも、本人とっては凄く辛い事だってあるんだから。だから、比べちゃダメだよ」
「そう……なのかな?」
「うん。そうだよ」
まるで、お姉さんのようにそう言うルーイットは、えへへ、と子供のように笑った。
その笑顔に釣られ、冬華も「ふふっ」と思わず笑顔を零した。
そんな深夜の森の中を複数の足音が静かに響き渡る。
場所は――クリスの幼い頃住んでいた町の廃墟。
鉄の鎧が擦れ合う音が闇に響き、数本の松明の明かりが町を照らす。
その中に真紅の髪を揺らすジェスの姿あった。珍しく腰に剣をぶら下げ、そこに左肘を置き静かに辺りを見回す。
何も無いただの擦れた廃墟に過ぎないその場所に、数十の兵士達。
それを先導するのは、あの黄緑のガントレットをした真っ赤な長い髪を揺らす女だった。
鋭い眼の奥で赤黒い瞳を輝かせる女は、片膝を着き松明で照らされた地面を見据える。
静けさが漂い、冷たい風が松明の炎を揺らし、吹き抜けていった。
兵士達は表情一つ変えず、周囲を警戒するように皆、気を張っている。
無駄に緊張感の漂うその空気に、ジェスは耐え切れず深いため息を吐き、ジト目を女の背中へと向けた。
「おい。いい加減にしろ。俺は、テメェの付き人をするためにここに来たわけじゃねぇぞ!」
不快そうなジェスの声に対し、その女は軽く右腕を挙げ、静かにしろと合図を送った。
その為、ジェスは一層不快そうに言葉を呑み込み、鼻から息を吐き出した。
この女は、ジェスの昔馴染みで、名をハーネスと言う。元々、二人は同じ盗賊ギルドに居り、その後、ジェスは独立し、ハーネスはある依頼でミスを犯し、ここバレリア王国に囚われていた。
相当な拷問にあったのか、ハーネスの体には深い傷痕が今も尚残っており、それを隠すように、彼女は常に鎧を身にまとっている。
「誰かが……ここに来たようだな」
静かな声が吹き抜ける風に乗り、ジェスの耳に届いた。
一瞬だが、ジェスの表情が歪むが、この暗さゆえに誰一人気付くものは居ない。
ゆっくりと立ち上がるハーネスの腰にぶら下げた剣が、鎧とぶつかり僅かな金属音が響き渡る。
その音は次第に消えていき、また静けさが漂う。
とても静かな時間が流れ、ハーネスがジェスへと振り返った。
「私の目的は、この国を取り返す事」
「取り返す? 取り返すも何も、暴君は死に、この国は平和になった。それだけだろ?」
訝しげに肩を竦めるジェスに対し、ハーネスは強い怒りにも似た感情を抱いた眼差しを向け、低い声で告げる。
「あの方は、偉大な方だ。我々は、あの方の国を取り返す」
まるで、暗示でもかけられているかのようなハーネスの姿に、ジェスは複雑な心境だった。
昔はこんな感じではなく、明るくとても気さくな女性だった。
この国に囚われ、何をされたのか、何があったのか。それを、今のジェスが知る事は出来ない。
だが、彼女をこれ程まで変えてしまう事がこの国ではあったのだと、言う事だけはハッキリと分かった。
複雑そうに眉間にシワを寄せ、唇を噛み締めるジェスは、真っ直ぐにハーネスを見据える。
「お前……変ったな」
静かなジェスの言葉に、ハーネスは真っ赤な髪を右手で撫で、
「人は変らねばならない。いつまでも、夢を見ているわけには行かない。私は、知った。この体に流れる呪われた血を根絶しなければ、世界は変らないと!」
と、鼻筋にシワを寄せ、自らの体にも流れる魔族への憎しみをその体から迸らせる。
その表情は恐ろしく、まるで彼女の方が悪魔のように、ジェスの目には映った。
そして、危惧する。このままでは、彼女は第二のバルバスになるんではないかと――。
 




