第170話 八年前――
風呂上り、ポカポカな体から湯気を上げる冬華は、真っ白な胴衣に身を包んでいた。
この道場の胴衣で、使われていない綺麗なものだった。
初めて着る胴衣に、冬華もルーイットも妙にはしゃいでいた。
床を軋ませキャッキャと騒ぐ二人に対し、エリオは大人しく道場の隅で正座し、手は膝の上に置かれていた。
クリスは入浴中の為、エリオ一人が孤立する形になっていた。
道場の中央でルーイットとじゃれあっていた冬華は、不意にそのエリオの姿が視界に入る。
落ち込んでいるのか、肩を落とし表情も暗い。
その為、冬華は訝しげな表情を浮かべる。
「どうかした?」
冬華の表情にルーイットがそう尋ねた。
まだ湿った紺色の髪を揺らし、獣耳をパタパタと動かすルーイットに、冬華は微笑し首を左右に振り答える。
「ううん。何でも無いよ」
「ホントに?」
冬華の答えにルーイットは眉を八の字に曲げ、小首を傾げた。
愛らしいその仕草に冬華はふっと静かに息を吐き出し、右手の中指でコメカミの辺りを掻いた。
それから、冬華はもう一度チラリとエリオへと目を向け、鼻から息を吐き出し腕を組む。
こじんまりとした冬華の胸も腕を組むと、それなりに見栄えはよく、胴衣の胸元から谷間がチラチラと見えていた。
女であるルーイットだが、思わずその胸元に目を向け、「ほほーっ!」と目を細める。
「な、何?」
ルーイットの妙な視線に冬華は身の危険を感じ、反射的に一歩下がった。
そして、その視線が向けられる胸元を隠すように胴衣を直した。
僅かに湿った黒髪を肩口で揺らし、険しい表情を浮かべる冬華に、ルーイットは「ぐへへへーっ」と、如何にもイヤラシイオヤジの様な笑い声を発する。
その笑い声に冬華の表情は引きつった。
「気持ち悪い……」
「ひゃっ!」
冬華の呟いた一言に、悲鳴のように声を上げたルーイットは両手で胸を押さえ、膝から崩れ落ちた。
冬華の放った「気持ち悪い」と言う一言が、ルーイットの胸に突き刺さったのだ。
重く深く心の奥底まで届く程の鋭い一撃が――。
その為、ルーイットは、
「うっ……ううっ……」
と、呻き声を上げた。
「だ、大丈夫?」
呻き声をあげるルーイットに、冬華は心配そうな表情で尋ねる。
正直、何故ルーイットが崩れ落ちたのか、冬華は理解しておらず、その目は疑念を抱いていた。
冬華のその眼差しを背に受けながら、床に蹲るルーイットは、震える右手をゆっくりと冬華に伸ばす。
「う、ううっ……ひ、ひど、酷くないかな? 気持ち悪い……は……」
「あーぁ……ごめん。つい、本音が……」
「はうっ!」
ルーイットはそう声を上げると、右手を床に落とし一層肩を落とした。
平伏すルーイットに、苦笑する冬華は目を細める。
そんな不思議な光景にエリオは訝しげな表情を浮かべ眺めていた。
冬華とルーイットがどう言う話をしているのか、エリオには興味がなかったが、それを眺めていると何となく心が安らいだ。
今までずっと一人だった為、人の会話を聞くのは楽しかった。
それから、数分後、道場へとタオルで頭を拭きながら、クリスが姿を見せた。
流石に胴衣姿が様になっているクリスは、湿った白銀の髪から水を滴らせ、小さく息を漏らす。
「ふぅーっ……いい湯だった……」
肩の力を抜き、頭に被っていたタオルを首に掛け、クリスは冬華とルーイットの方へと顔を向ける。
何故か、平伏し落ち込むルーイットと困った表情の冬華。
何があったのか分らず、訝しげな表情を浮かべるクリスは、小首を傾げエリオの方に顔を向け、尋ねる。
「あの二人は、何があったんだ?」
「はい? 僕はちょっと分からないです」
「そ、そうか……」
にこやかに答えたエリオに、クリスは困った様にそう答え、小さく息を漏らす。
それから、ゆっくりと冬華とルーイットの下へと歩みを進め、
「何をしてるんですか?」
と、尋ねた。
その声に冬華は体をクリスへと向け、苦笑する。
「う、ううん。べ、別に何にも無いよ!」
「そ、そうですか? それじゃあ、ルーイットは……」
平伏すルーイットに目を向けるクリスに、冬華は両手を胸の前で振りながら、
「ほ、ホント、何でも無い何でも無い!」
と、力強く言った。
その為、クリスは戸惑い気味に「そ、そうですか……」と返答し、訝しげにルーイットを見据えていた。
そんな二人のやり取りに、ルーイットは唐突に立ち上がり、拳を振り上げる。
「ひっどーい! 何でも無いって事ないんじゃないかな? 私に気持ち悪いって言ったー! 冬華が言ったー!」
ルーイットの怒鳴り声に、クリスは背を仰け反らせ、やがてゆっくりと冬華に視線を送り、
「言ったんですか? 気持ち悪いって……」
「えっ? あぁー……話の流れ上、確かに……言いました……」
「でしょでしょ!」
「けど、あんなオヤジ臭い笑い声聞いたら、誰だって気持ち悪いって言うよ!」
クリスに詰め寄るルーイットの抗議に対し、冬華がそう言い放った。
何が何だか分らないクリスは、困惑し言葉に困っていた。
そんなクリスに助け舟を出すように、エリオが床を軋ませ歩み寄る。
そして、クリスの胴衣の裾を引っ張り、
「あ、あの……そろそろ、お話を……」
と、控えめにエリオが言うと、クリスも思いだした様に頷き、冬華とルーイットに両手を向け、
「お、落ち着いて、話をしましょうか」
と、冷静に告げた。
その言葉で、落ち着きを取り戻した冬華は、鼻から息を吐き出し「そうだねー」と肩の力を抜き、ルーイットも不満はあったが「分かったー」と頬を膨らせ了承する。
とりあえず、古びた布団を四枚敷き、その上に坐すると、クリスは真剣な表情でエリオへと尋ねた。
「もう、大丈夫か? 何があったか、聞いても?」
クリスの問いかけに、エリオは小さく頷き、静かに語り出す。
「クリスさんが、この大陸を出た日の事です――……」
時は八年前――。
丁度、クリスがバレリア大陸を旅立った日の事だ。
この道場に悲報が告げられた。
それは、クリスの母、レイチェル・リバースの死だった。
その時、クリスはすでに大陸を離れており、クリスの親しい人間に、と言う事でこの道場にその悲報が届けられた。
道場の主であるエリオの父、バズは、その死に疑念を抱いた。
レイチェルの死は、火の不始末による火災での死だと言う事だったが、バズが現場に駆けつけ発見した黒焦げたレイチェルの遺体には明らかな鋭利な刃物で切りつけられた痕が残っていたのだ。
当時、エリオは五歳だった。
父であるバズが何をしていたのか、ハッキリとは覚えていないが、唯一覚えている言葉があった。
それは、夜の道場で、ロウソクを囲い多くの弟子と共に声を殺し話す父の言葉――
“我々は、巨大な悪と戦わねばならぬ。旅立ったクリスの為、志半ばに亡くなった、レイチェルの為……。あの暴君を討ち取らねばならぬ!”
と、言う言葉を。
正直、その当時は何の話なのか、エリオには理解出来なかった。
だが、すぐに理解する事になる。その数時間後に――。
道場は囲まれていた。バレリア王国、国王バルバス直属の部隊の兵によって。
父、バズの企てを、バルバスにもらした人間がいたのだ。
もちろん、それが誰なのかは知る事が出来なかった。なぜなら、その情報を漏らした者も、皆処刑されたからだ。
道場の連帯責任として、弟子達の親も子も、全ての者が処刑された。
その中で、何故エリオだけが生き残ったのか――。
それは、バズが懇願したのだ。
“息子の命は助けて欲しい”
と。
そして、バルバスは不適な笑みで、その願いを聞き入れた。
だが、その願いを聞く代わりに、一つの条件を突きつけられた。
それは、その当時すでに有名となりつつあった美しき剣士――クリスを自分の嫁によこす事だった。
この瞬間、バズは自分の考えが間違っていなかった事を理解する。
この男こそが、クリスの母レイチェルを殺した張本人だと。
もちろん、そんな条件が飲めるわけがなかった。
何故なら、クリスはすでに海の上。
その為、バズが何も返答せずに居ると、バルバスは選択肢を与えると、エリオに自らの剣を握らせたのだ。
バルバスが与えたその選択肢――それは、自らの息子に処刑の執行人になってもらう事だった。
バズは絶望した。この国がここまで腐っていると言う事に。
それでも、バズは安堵する。自分の命を差し出せば、息子が助けられると。
だが、この時バズは知らなかった。
殺されるのが、自分だけではなく、弟子達全ての家族だと言う事を――。