第169話 入浴
鬱蒼と生い茂る草を掻き分け、冬華達は一軒の古びた道場へと辿り着いた。
柱は腐り、窓ガラスはひび割れくぐもっていた。
周囲には草が生い茂り、とても道場とは思えぬ姿の建物だった。
呆然と道場を見上げる冬華とルーイット。
一方、クリスは愕然としていた。
クリスがここを出た時はこんな状態ではなかった為、驚き戸惑っていた。
そんな三人を置き去りにし、エリオは一人道場へと足を踏み入れる。
床が軋み、今にも抜けてしまいそうな程、嫌な音を奏でた。
その音で我に返ったクリスは、険しい表情でエリオへと尋ねる。
「一体、何があったんだ! 私が出て行ってすぐに潰されたってどう言う事だ!」
クリスの声に、エリオは道場の真ん中で足を止め、拳を握り締めた。
肩を震わせ、拳を震わせ、唇を噛み締めるエリオは、俯き目を伏せる。
瞼を閉じれば蘇る惨劇。
目の前で、父が――母が――兄の様に慕っていた門下生達が――次々と処刑されていった。いや……処刑させられた。
エリオはゆっくりと瞼を開き、握り締めた両手を見据える。
未だにその手には残っていた。肉を――骨を――裂くその感触が――。
その耳には未だに残っていた。絶命する瞬間の皆の声が――。
握り締めた拳から血が滴れる。爪が手の平に突き刺さり、血が流れ出すほど力を込めていたのだ。
そんなエリオの姿に、クリスは硬く瞼を閉じた。
自分が居ない間に、何があったのかは分らない。分らないが、エリオが相当辛い経験をしてきた事を理解し、静かにその背に歩み寄り、小さなその体を抱き締めた。
「すまない……嫌な事を思い出させてしまって……」
囁くような小さな声でそうクリスが告げると、エリオは声を殺して泣いた。
今までどれ程の悲しみを内に溜め込んでいたのか、エリオのその大きな目からは大粒の涙が溢れ、頬を伝う。
そんなエリオをクリスはただ黙って抱き締め続けた。
どれ程の時間、泣き続けたのか、辺りは真っ暗になっていた。
道場の外で焚き火をする冬華とルーイットは、土で汚れた手を焚き火にかざし暖を取っていた。
道場の周りを覆っていた鬱蒼とした草は根っこから抜かれ、あたりはスッキリと茶色の地表が広がっていた。
冬華とルーイットの二人が、草むしりをしていたのだ。
虫が出るのが嫌だ、と言う理由から始めた草むしりだったが、やり始めると止まらなくなり気付いた時には道場の周り全ての草をむしっていた。
いい汗を掻いたと、焚き火の前でニコニコする冬華とルーイットだが、ここで少々問題が生じていた。
「あぁー……お風呂、入りたい……」
「うん……そうだねー。ここの所、野宿ばっかりだし、暖かいシャワー浴びたいねぇー」
焚き火を挟んで冬華とルーイットはそんな会話をしていた。
ここ一週間、野宿ばかり。原因はこの辺りに町が無いからだ。故に、宿に泊まる事も出来ず、シャワーなどもってのほかだった。
汚れた衣服の胸元をパタパタとする冬華は、眉間にシワを寄せルーイットを見据える。
そして、困った様に眉を八の字に曲げた。
「ちょ、ちょっと臭うかな?」
冬華がそう尋ねると、ルーイットは鼻をヒクヒクとさせる。
獣魔族だけあり、嗅覚は優れているルーイットは目を細め、首を右へと傾けた。
「うーん……そだねー。ちょっとだけ……臭うかな?」
「やっぱり? ハァ……洗濯もしたい……」
女の子ならではの重大な問題に直面し、非常に落ち込む冬華に、ルーイットも大きくため息を吐いた。
獣魔族のルーイットは、長く風呂に入っていないと獣臭が強くなる。
その為、その紺色の長い髪からは薄らと獣臭が漂っていた。
それが、ルーイットは嫌いで、顔を窄め肩を落としていた。
落ち込む二人に、道場からクリスが声を上げる。
「冬華。お風呂の用意が出来ましたが、どうですか?」
クリスの声に、冬華はバッと顔を挙げ、
「お、お風呂!」
と、大きな声を上げた。
その声に、ルーイットは両手で耳を塞ぎ、冬華の顔を見据える。
明るい笑顔を見せる冬華に、苦笑するクリスは、右手で頬を掻き、
「え、えぇ、一応、道場ですから、お風呂位はありますよ? 長く使っていないので、少々準備に手間取りましたが……」
「入る! お風呂、入る!」
何故かカタコトになる冬華に、クリスは表情を引きつらせた。
しかし、すぐに微笑すると、
「私は、裏で薪をくべますので、冬華とルーイット、二人で順々に入ってください」
と、クリスは道場を出て裏へと向かった。
静まり返り、冷たい風が吹き抜ける。
それにより、焚き火が揺らいだ。
焚き火の前に座るルーイットは冷たい風に身をちぢこませ、僅かに肩を震わせた。
そんなルーイットの姿に、冬華は静かに立ち上がり満面の笑顔を向け、
「じゃあ――……一緒に入ろうか?」
と、提案した。
しかし、ルーイットはその提案に戸惑う。今までの事を思い出していた。
冬華が事ある毎に耳に触れたり、体に触れたりしてきていた為、どうも一緒に風呂に入るのに抵抗があった。
押し黙り、返答に困っていると、冬華の表情が儚げに変る。
「ダメ? 一緒に入れば、時間も短縮できるし、何より一人で居るより楽しいよ?」
潤む冬華の眼差しに、ルーイットは根負けし、小さく頷いた。
「分かったよー……一緒に入るよ……」
「やったっ!」
ルーイットの返答に、冬華は嬉しそうに声を上げた。
脱衣所で衣服を脱いだ二人は風呂場へと足を踏み入れた。
少々くたびれた木造の湯船にはお湯が張られ、大量の湯気が辺りを包み込んでいた。
二人で入るには十分すぎる程の広さの風呂場に、冬華は目を輝かせ声を上げる。
「わわーっ! 凄い!」
冬華の声が壁に反響し、風呂場へと響き渡る。
大きめのタオルを巻き、両手をブンブンと振り回し興奮する冬華に、遅れて入ってきたルーイットは苦笑していた。
「あんまり、はしゃいでると転んじゃうよ?」
獣耳に水が入らぬ様に頭にもタオルを巻いたルーイットがそう言うと、
「大丈夫だよ! 大丈夫!」
と、冬華は早足で湯船の方へと向かった。
そんな冬華の後を追い、ルーイットはゆっくりと湯船へと足を進める。
木の桶でお湯をすくい、冬華は右肩からお湯を被った。
「あううっ! あっつーい!」
お湯を浴び、そう声を上げた冬華に、ルーイットは苦笑し同じように桶でお湯をすくい、体へとお湯を浴びる。
「んんーっ! あ、熱い……」
お湯を浴び、ルーイットは俯き呟いた。
えへへ、と笑う冬華はもう二・三度お湯を浴びた後、体を綺麗に洗い湯船へと浸かった。
まだまだ全然熱いが、それでも堪えられぬ程の熱さではなかった為、冬華はおっさん臭く「あぁーっ」と声をあげ、肩まで湯に浸かり天井を見上げた。
「はぁー……久しぶり……あったかーい……」
恍惚の表情を浮かべる冬華は、開いた口からもう一度息を吐き、瞼を閉じる。
久しぶりのお風呂。しかも、湯船にまで浸かれ、心まで癒されていた。
そんな冬華に遅れ、湯に浸かったルーイットも同じく「あうぅーっ」と声をあげ、やがて深々と息を吐き出した。
湯船に浸かる二人は、押し黙る。
沈黙が漂い、天井から落ちた水滴が湯に落ち、小さな音を奏で何重もの波紋を広げた。
静けさ漂う中で、唐突に冬華は口を開く。
「そう言えば、獣魔族て、尻尾は無いんだねー」
冬華は湯に浸かるルーイットのお尻を見つめ、そう尋ねる。
その視線に気付いたルーイットは顔を真っ赤にし、冬華へと体を向けた。
「ど、ど、何処見てるのよ! 何か、そう言う所、オジサン臭い!」
「よいではないか! よいではないか! あっはっはっ!」
湯船の縁にもたれかかり両腕を乗せ大らかに笑う冬華の姿に、ルーイットは目を細めた。
膨れっ面のルーイットは、深く息を吐き出すと、
「獣魔族でも種類があるの。私やシオは獣魔族の中でも獣型に属してて、他にも鳥獣型とか、魚類型とか」
「へぇー……魚類型って事は、人魚とか?」
「人……魚? うーん。人魚って言うのが何かはわかんないけど……どっちかって言うと半魚人って感じかな? 私は見た事無いけど……」
ルーイットが立てた右手の人差し指を唇にあて、右斜め上を見据えながらそう呟いた。
ルーイットの説明に「へぇー」ともう一度相槌を打った冬華は、瞼を閉じそのまま湯船の中へと沈んで入った。