第163話 失う恐怖
「くっそーっ!」
ジェスが船の一室でそう声をあげた。
その声は廊下の方まで聞こえ、耳を澄ませる冬華は苦笑し隣りにいたルーイットへと顔を向けた。
結局、入港を許されず、船は大きく迂回していた。
入港は許されなかったが、この大陸は外回りは殆ど砂浜になっている為、港に停泊しなくても上陸する事は出来るのだ。
しかし、ジェスのギルドの船では大きすぎる為、砂浜まで入る事は出来ず、ある程度近づいた後に小船で上陸しなければならない。
バルバスがこの大陸を支配していた時は特に問題にはなっていなかったが、今は入国するのにも許可が必要で、今回ジェスが行おうとしているのは、当然、不法入国と言う事になる。
その事について、現在ジェスとクリスの双方が大論争を巻き起こしていた。
「くっそーじゃない! お前は、冬華に犯罪を犯せというのか!」
激しく机を叩いたクリスに対し、ジェスは真紅の髪を右手で掻きながら面倒臭そうに答える。
「しょうがないだろ? こうなっちまったもんは」
「しょうがないで済ませるな! そもそも、バレリア出身の私が行くと言ったのを、お前が任せろと言うから譲ってやったのに!」
「だーかーら! 俺だってまさか関所があんなにガード固いなんて思ってなかったんだよ! 不測の事態だ!」
何度も右手で机を叩き、ジェスがそう言い放った。
その言葉にジェスの後ろに佇むアースが呆れた様に半笑いし、クリスは怒りをその額に浮かび上がらせていた。
そもそも、最初、関所の交渉はクリスが行くはずだったのだ。
バレリアの出身の為、交渉も楽に進むだろうと、考えての事だった。
しかし、それを強引にジェスが止め、「俺に任せておけ」と自信満々だった為、任せても大丈夫だろうと、ジェスに譲ったのだ。
これが、間違いだったと、今になり後悔する。
そして、こんな奴に任せた自分が馬鹿だったと、自分自身に怒りを覚えていた。
机に着いた手をギュッと握り締めたクリスは、ワナワナと肩を震わせる。
明らかに怒りのオーラを全身から溢れさせるクリスに、ジェスは息を呑む。
流石にこれは殺されるかもしれない、そう思いジェスの背には冷や汗があふれ出していた。
緊張が高まるその中で、深く息を吐き出したクリスは顔を挙げ天井を見上げる。
怒りを静めるように深くゆっくりと。
それから肩の力が抜け、クリスは無言でジェスを真っ直ぐに見据える。
暫しの沈黙。
それが、逆に恐ろしく、ジェスの喉ぼとけがゴクリと動いた。
「とにかく、これからどうするか、私は冬華と話をする。行動に移すのはそれからだ」
「お、おう……俺らは小船の用意と、その他もろもろの準備をする。行くか行かないが決めたら教えてくれ」
僅かに狼狽するジェスだが、それを見せぬ様に強気にそう言った。
一瞬蔑む様な眼差しを向けたクリスはすぐに背を向けると、
「分かった」
と、一言呟き部屋を後にした。
クリスが部屋を出て、扉が完全に閉まるのを確認し、ジェスは大きく息を吐き出し、脱力した。
安堵から思わず天を仰ぐジェスは瞼を閉じもう一度深々と息を吐き出した。
「凄く怒っていましたね」
アースも肩の力を抜き、目を細めそう呟いた。
流石にクリスの威圧感に圧倒されてしまった。
紅蓮の剣と呼ばれるだけの事はあると、改めてアースはクリスの強さを感じていた。
しかし、そんなアースと裏腹にジェスは、眉間にシワを寄せ複雑そうな表情を浮かべていた。
そんなジェスの表情にアースは訝しげに尋ねる。
「どうかしたんですか?」
「ああ……だいぶ、焦っているように感じたな」
「そうですか? 自分にはその様には見えませんでしたが?」
ジェスの言葉にアースが不思議そうにそう言う。
すると、ジェスは右手を天井へとかざし、目を細める。
「ああ。そうだよ。俺もそうだ。正直、こえぇーと思ってるよ」
「怖い? 何がですか?」
弱気なジェスに、アースは表情を強張らせる。
何を言っているんだ、この人は、そんな思いを宿した眼差しをジェスへと向けた。
アースにとってジェスは目標だ。
そんな目標の人がこんな弱気な事を言えば、アースが不審に思うのも当然だった。
アースの気持ちを悟ってか、ジェスはゆっくりと俯き「ふっ」と静かに笑った。
「何がおかしいんですか?」
不快そうにアースが尋ねる。
その言葉にジェスは深刻そうな表情で手を組んだ。
「俺は小規模だが、ギルドのマスターだ。それなりに力はあるし、ゼバーリックでは正直敵なしだと自負している」
「まぁ、マスターの力はある程度あったかと思いますね。狙った物は絶対に奪う……そんなギルドでしたし……」
確かにジェスはそれなりに名の通ったギルドマスターだった。
能力の高さもさながら、切れ者だと言われていた。
だからこそ、アースはジェスの下についた。
しかし、今、それが何の関係があるのか、アースは分らなかった。
そんなアースに、ジェスは静かに胸の内を語った。
「だが、どうだ。ゼバーリック大陸を出て、俺らがした事と言えば、飛行船を墜落させ、戦争に参加するも戦果を残せず……」
「仕方ないですよ。飛行艇は龍王が相手でしたし、戦争に関しても元々参加する気はなかったわけですし……」
取り繕った様にそうフォローするアースに対し、ジェスは小さく首を振った。
「それに、俺らはあの男に手も足も出なかった」
「それは……」
思い出す。
あのローブを纏った男を。
結局二人は、あの男に一太刀も当てる事が出来なかった。
もちろん、本気でやって。
自分は強いと言う自信が崩れ落ちる瞬間だった。
悔しげに瞼を閉じるジェスの背を見据え、アースも唇を噛み締める。
「もし、あの時、助けが来なかったら……。もし、あれが俺のギルドで起きた戦いだったら……。そう考えると正直、こえぇ。
俺は、マスターだ。小さなギルドだが、俺はそのギルドの支柱。それが、こんなにも簡単に折れていいのか? 皆を守るべき存在である俺が、簡単に負けていいのか」
初めて見せるジェスの弱い部分。
初めて目にする悲痛の思いに泣きそうになるジェス。
正直、こんな姿は見たくなかった。
自分の姉が愛した程の男のこんな姿は。
だから、アースには何も言えない。
いや、言わない。
それが、自分がするべき事であると、思ったからだ。
組んでいた手を解き、机の上で拳を握る。
そして、ジェスは肩を震わせた。
ジェスが怖いのは、失う事。
もう経験したくない思いだった。
心臓を抉られるような痛みを、もう味わいたくなかった。
自分の命よりもよっぽと大切な存在。
それが、自らのギルドのメンバー達だった。
アースを含め、今、ギルドにいるメンバー全てが、ジェスにとってかけがえの無い存在であり、失いたくないものだった。
だからこそ、怖かった。
自分の敵わない存在と戦う事が――。
仲間を守れないかもしれないと思う事が――。
心の底から怖かった。
だからこそ、クリスの焦りも理解できる。
冬華を守らなければならない。
その重圧を一人で背負い込み、抗い続けるクリスが、今の自分とダブっていたから。
守るものは違えど、同じような境遇だった。
クリスもゼバーリックでは名の知れた騎士。
紅蓮の剣と言う異名も与えられていた。
しかし、冬華と旅をし、クリスは何度も敗れた。
日々、鍛錬し技術を磨き続けていたはずなのに、何度も冬華を危険な目に合わせた。
そんなクリスの気持ちが、ジェスには痛いほどよく分っていた。