第161話 記憶の消失
港を出港し一週間が過ぎ――冬華達は穏やかな航海を続けていた。
暇そうに冬華は手すりに身を委ね水平線を眺めていた。
白波が海に美しい線を描き、激しい水飛沫を上げる。
潮風に吹かれ、冬華の黒髪が肩口で揺れていた。
何かを思うように物思いにふける冬華はふっと深いため息を吐く。
非常に静かだった。
クリスは部屋でジェスと話し合いをしており、ルーイットは疲れていたのかこの所眠りっぱなし、その為、話し相手が居なかった。
一人になるとつい考える。
元いた世界の事を。
だが、その記憶の中で、明らかに切り取られた様に真っ黒なシーンが幾つも頭を巡る。
そこに居たはずの人。
男だったのか、女だったのか。
年上だったのか、年下だったのか、はたまた同級生だったのか。
思い出す事は出来ないが、間違いなくその切り取られた記憶の端々には誰かがいた事だけは覚えている。
大切な思い出だったはずなのに、それが何にも無いただの記憶になって行く。
そう思うと胸が苦しくなった。
そして、最も怖かったのは、その記憶の中で時折親の顔すら薄れる事があった。
それが何よりも怖く、自分が失われていく気がしてならなかった。
前々からそんな予兆があったが、この所その現象が激しくいつか自分が自分で無くなる、そう思えてしまう。
心細く、自分が一人ぼっちになった感覚。
ずっとずっと深く暗い闇に沈んでいく様な、そんな感覚になってしまう。
誰か、助けて。
誰か、手を差し伸べて――。
と、眩い光が差し込むその場所に手を差し伸べる。
聞き覚えのある懐かしい声が響き、冬華の伸ばしたその右手を掴む。
しかし、眩い光の向こうに映るその人の顔は、やはり黒塗りにされ、誰なのかはっきりとは分からなかった。
バッと冬華は顔を上げる。
いつの間にか寝入っていた。
手すりに身を任せて。
懐かしい夢を見た気がする。
幼い頃、深い穴に落ちた時の事を。
あの時、冬華を助けてくれたのは――
「――ッ!」
激痛が頭を襲い、冬華は表情をしかめる。
頭が割れる様に痛い。
それでも、思い出したい。
取り戻したいと、冬華は必死に思い出そうとした。
だが、そこでプッツリと意識が途切れた。
そして、冬華は倒れる。
甲板に激しく頭をぶつけ、鈍く乾いた音が響き渡った。
その音に最初に気付いたのはティオだった。
丁度、外に出た時に、崩れ落ちる冬華の姿を見たのだ。
「冬華!」
ティオが叫び、他の船員達もその異変に気付いた。
甲板を蹴るティオの足音が、部屋に居るクリスとジェスの耳にも届き、何かあったのだと部屋を飛び出す。
部屋を飛び出すと、廊下を数人の船員が駆けており、ジェスはその一人を掴まえ問う。
「何があった! 敵襲か?」
いつに無く怖い表情を向けるジェスに、若い船員は慌ただしく頭を左右に振り、
「い、いえっ! それが!」
若い船員は甲板での出来事をジェスへと話した。
すると、凄い剣幕でクリスは甲板へと走り出し、ジェスもそれを追うように走り出した。
その後、甲板にクリスの声が響いた。
何度も何度も、冬華の名前を呼び、その声だけが波の音へとかき消されていった。
どれ位の時間が過ぎたのか、冬華は静かな部屋で目を覚ます。
ボンヤリと天井を見据え、今の状況を確かめる様にゆっくりと頭を動かした。
やや固めのベッドの上、恐らく冬華とクリスに当てられた部屋だ。
すでに陽が暮れているのか、窓に掛かったカーテンの向こうは暗かった。
足音一つせず、静まり返ったその中で冬華はゆっくりと体を起こす。
もう頭痛は無く、体は平常だった。
落ち着いた様子の冬華はベッドから足を下ろす。
冷ややかな床に右足が触れ、冬華は僅かに身震いさせる。
「つめたっ……」
思わずそう呟くが、その声だけが虚しく部屋に響いた。
それから、冬華はキョロキョロと辺りを確認する。
靴を探していたのだ。
だが、結局靴は見つからず、渋々素足を床へと下ろした。
床の冷たさに表情をしかめる冬華は、奥歯を噛み締めゆっくりとベッドから立ち上がる。
身を震わせ、床を軋ませない様に忍び足でドアの方へと移動すると、ドアノブへと手を伸ばす。
指先がドアノブに触れるその瞬間、バチッと静電気が冬華の手を襲った。
「イタッ!」
素早く手を引いた冬華はその手を激しく振り複雑そうな表情で俯いていた。
「うぐーっ……厄日……かな?」
小さく小首を傾げる冬華は涙目でもう一度ドアノブを握った。
今度は静電気は無く、安堵したように息を吐いた。
「全く……静電気はいやだなぁ……」
一人そう呟いた冬華はドアノブを回し、ドアを開いた。
廊下は明かりも無く薄暗く不気味な雰囲気が漂っていた。
何か違和感を覚え、冬華は気を引き締める。
クリスはどうしたのだろうか、ジェスは――、アースは――、ルーイットは――、ティオは――。
頭の中に過ぎる不安を払拭するように廊下を進む。
そして、部屋のドアを開けようとドアノブを握るが、鍵が掛かっているのかノブは回らなかった。
(おかしい……何が起こってるの?)
更に疑念を強くする冬華は不安から足取りが速くなり、そのまま甲板へと飛び出す。
やはり外は真っ暗だった。
空は闇に包まれ、その中で一筋の輝き、眩い満月のみが海を照らしていた。
人の気配もしないその中に一人の女性の姿が浮かぶ。
女性は手すりに腰掛け、長い白髪を潮風に揺らしていた。
何より、その真っ白な衣服、透き通る様な白い肌は闇の中で一際輝いて見えた。
その女性の姿に冬華は思わず見入る。
すると、女性は透き通った綺麗な声で呟く。
「不思議そうな顔をしてますね」
見透かした様にそう告げる女性に、冬華は身構えた。
「あ、あなた……確か、森の中で……」
記憶を辿り冬華はそう尋ねた。
以前、一人森を迷った時に助けてもらった事があった為、ハッキリと彼女を事を覚えていた。
冬華のその質問に対し、女性は小さく頷くと、大人びた美しい顔で冬華を見据える。
「大丈夫よ。私はあなたと争う気は無いわ」
「皆に何をしたの?」
彼女の言葉に冬華は力強くそう言い放った。
すると、彼女は聊か驚いた表情を浮かべた後に、口元に薄らと笑みを浮かべる。
「あなた、案外勘がいいのね? それとも、それも才能なのかしら?」
意味不明な事を返す女性に、冬華は眉間にシワを寄せる。
そんな冬華へと女性は静かに右手を差し伸べ、ゆっくりと語る。
「この船の船員達には眠ってもらっている。私は、あなたに忠告しに来ただけ」
「忠告?」
冬華が首を傾げると、女性は小さく頷いた。
「えぇ」
「一体、何の忠告? 私はあなたに忠告される事なんて――」
「記憶の消失」
冬華が言い終える前に、女性がそう告げた。
その言葉に冬華は息を呑み、目を見開く。
驚きから瞳孔が開き、冬華はその場を動けずにいた。
何故、彼女がその事を知っているのか、そう考え、答えを求める様に思考をフル回転させる。
しかし、答えなど見つかるわけも無く、女性の答えが返って来る。
「もうかなり記憶は失われてきているはず。恐らく、一番大切な人の顔も名前も思い出せない位に」
その言葉に冬華は「くっ」と声を漏らし、唇を噛み締める。
彼女の言う通り、記憶は失われつつあり、その人が本当に大切な人だったのかすら分らぬ程になっていた。
ただ、大事にしていた記憶だったのに、所々で黒塗りにされた妙な存在がある事だけ。
冬華の反応に、彼女は表情を険しくし、深く息を吐き出す。
「これ以上、あの力は使用しちゃいけない」
「あの力? 何の事?」
訝しげに眉をひそめる冬華の問いに対し、女性は悲しげな瞳を向けた。
「アレは、決して神の力なのではない」
「えっ? 神の力じゃない……て、事は、あの力って神の力の事?」
「えぇ」
静かな女性の返答に、冬華はやはり訝しげに問う。
「でも、それが神の力じゃないって言うなら、一体何なのよ!」
「それを知れば、あなたの心は壊れる。きっと、私の様に……」
悲しげな眼差しを伏せ、彼女はそう呟いた。
それから、更に言葉を続ける。
「あなたはまだ間に合う。私の様になる前に、あの力に頼るのはやめなさい。今、私が言えるのはそれだけ」
「でも、あの力が無いと私は……それに、あの力で多くの人を助けてきた!」
「多くの人を…………助けてきた……ね」
目を細め、彼女はそう呟いた。
その態度はまるでそれが間違いだと言っている様に思え、冬華は思わず怒鳴る。
「何よ! 私が間違っているって言うの!」
「えぇ……まぁ、解釈の仕方が間違っている」
「解釈の仕方? 何の話よ!」
「何れ分かる。とりあえず、私は忠告した。私の様に心を壊したくないなら、もう二度とあの力は使うな。何があってもだ。例え、仲間を失う事になっても、絶対に――」
彼女はそこまで言うとその姿を消した。
まるで幽霊の様に体が透け、やがて消えたのだ。
だが、冬華はそんな事よりも、彼女の言った言葉が頭を巡っていた。
“仲間を失う事になっても――”
その言葉に、冬華は唇を噛む。
(仲間を見捨てるなんて出来ない……私はきっと……)
大切な記憶と、目の前の仲間の命。
秤にかける事なんて出来ない。
もし、そんな状況になったら、冬華は迷わずあの力に頼るだろう。
もう誰も失わない為に――