第144話 クマへの願い
誰かに名前を呼ばれた。
聞き覚えの無い声だった。
恐らく女の子。
幼く、何処か可愛げのある声。
一体、誰の声だろう。
何故、私を呼ぶのだろう。
クリスはそんな事を闇の中で考えていた。
すると、もう一度、闇の中で声が聞こえた。
“クリスさん。起きてください!”
と、言う謎の声が。
その声に遅れ、クリスの体を暖かなモノが包み込んだ。
体が大分楽になる。癒されているのだと、なんとなく分かった。
真っ暗な意識の中で、クリスはその声の主へと尋ねる。
“お前は誰だ?”
と。
しかし、返って来た言葉は、
“冬華様を守ってください”
と、言う一言だった。
その言葉にクリスは思いだした。
自分が意識を失う前に見た光景を。
雪原を血で赤く染め、倒れる冬華の姿を。
それを思い出し、クリスは拳を強く握り締めた。
「もう冬華は……」
そう言いかけた時、その声の主が力強く否定する。
“冬華様は生きています! だから、あなたが守ってください!”
と。
だが、クリスはその声に頑なに首を振る。
もう何度目だろう。
目の前で、冬華が苦しむ姿を見るのは、冬華が血を流す姿を見るのは……。
その光景を見るたび思う。自分の無力さ、自分の弱さを。
だから、もうクリスは戦えない。
だから、もう、冬華を守るなんて口にする事は出来ない。
結局、クリスは一度も冬華を守る事は出来ず、ただ傷付き苦しむその姿を見ている事しか出来なかった。
悔しくて、噛み締めた唇からは血が流れ出す。
握った拳は震え、手の平へと食い込んだ爪が皮膚裂き、血を溢れさせた。
「私では……無理だ……。冬華は守れない。お前が……守ってやればいい……」
クリスが唇を噛み締め、そう喉の奥から吐き出す様に告げると、僅かな間が空いた。
闇の中に永遠と続く様な沈黙の後、その声の主は静かにその震えた声を発する。
“私は何も出来ません。冬華様をお守りする事も、癒す事も。でも、あなたなら――”
その声にクリスはハッとする。
記憶の中で、一人の人物が思い浮かぶ。
自分には見る事の叶わなかったその人物の名前。
それを、口にしようとしたその瞬間、突如、闇が晴れ光が満ちる。
眩き光にクリスは静かに瞼を開いた。
「大丈夫か?」
その視界に飛び込んだのはアオの顔。
その顔に、思わずクリスは肘打ちを見舞った。
「ふがっ!」
見事に鼻頭を直撃し、鼻血を噴きアオは後方へと尻餅を着いた。
ボンヤリとするクリスの顔を、今度はレオナが覗きこんだ。
大人びた色白のレオナは、蒼い瞳を真っ直ぐにクリスへと向け、金色の長い髪を右手で掻き揚げた。
見覚えの無いその顔にクリスは、眉間にシワを寄せる。
「だ、誰?」
「あ、あぁ……私は、レオナ。アオと同じパーティーのヒーラーよ」
真っ白なヒーラー独特の衣服に身を包んだレオナの姿に、クリスは小さく頷く。
「そ、そう……」
まだ意識が混濁しているのか、クリスの様子はおかしかった。
と、言っても、レオナは普段のクリスの事を知らない。その為、そんな事には気付かず、穏やかに微笑し、右手を差し出した。
「大丈夫? 怪我は無いようだけど……」
心配そうなレオナの眼差しに、クリスは訝しげな表情を浮かべた。
「え、えぇ……だ、大丈夫よ」
レオナの手を取らず、クリスは静かに立ち上がる。
差し出していた手を引いたレオナは、苦笑し雪原でのた打ち回るアオへと視線を向けた。
「ふごぉーっ! は、はな、鼻が……」
悶絶するなんとも無様な自らのリーダーの姿にレオナは額を押さえ、大きくため息を吐いた。
暫しその光景を傍観していたクリスだったが、唐突に、思いだしたかのように呟く。
「そうだ……冬華を探さないと……」
その呟きに、のた打ち回っていたアオがようやく真剣な顔をし、クリスを見据える。
「冬華を知ってるのか?」
「……はぁ? 何を言ってるんだ? 貴様は」
アオの発言に、クリスが不快そうな表情を浮かべた。
その表情に、アオはすぐに状況を悟り、鼻血を出したまま右手で頭を掻いた。
「いや……その、お前が、王都で会った俺は、偽者で、俺はお前と初対面なんだ」
「……言っている事がよく分からないが、私は今、お前と遊んでいる場合じゃないんだ。冬華の下に行かなくては」
「それが、その冬華が……」
真剣な表情のクリスに、レオナは眉間にシワを寄せ土と化した冬華の体へと視線を向ける。
その山積みになった土にクリスは目を細め、レオナへと目を向けた。
「もしかして、アレが、冬華……なのか?」
「えぇ。深手を負っていたから、私が治療していたんだけど……。突然、土になって……」
レオナの発言にクリスは脳裏に一人の女性の顔が浮かび、複雑そうに息を漏らした。
「こんな事が可能なのは、やはりアイツか……でも、一体、何の目的が……」
「……どうやら、この騒動の主犯を知っている様だな?」
「ああ。私の考えが確かなら、魔女と呼ばれるあの女が主犯だ」
クリスがそう言い、アオへと視線を向けた。
だが、その表情がすぐに曇る。
「お前、鼻血を流して何カッコつけているんだ?」
「なっ! こ、これは、お前が!」
「もう……。ほら、止血してあげるからジッとして……」
声を荒げるアオへと、呆れた様にそう告げたレオナは、まるで母親の様に鼻血の止血を開始した。
木々に囲まれた雪原。
そこで、クマは戦いを見据えていた。
自分のご主人である魔女ヴェリリース。
彼女の放った大鎌は国王ヴァルガの体を貫き、やがてヴァルガの体が崩壊する。
その両目から零れ落ちた淡い紫色の瞳の眼。それを地面から突如飛び出した手が掴んだ。
崩れ落ちるヴァルガの体から、クマはそれが土人形だったのだと気付き、そして、地面から飛び出したその腕の主が、ヴァルガを操っていた人物なのだと理解する。
丸い手に力を込めクマはアックスを握り締めた。
クマは戦いを禁止されている。
それは、クマがぬいぐるみであるからだった。
ぬいぐるみは子供を楽しませるモノ。決して人を傷つけてはいけない。
そう、ヴェリリースに言いつけられたのだ。
元々、クマが作られたのは、一人の少年の為だった。
当時、その少年は怪童と言われる程の才能を持った者だった。
しかし、そんな彼の前に突如現れた二人の天才。いや、化物。
そんな二人に追いつこうと、少年は努力した。だが、努力しても詰まらぬ力の差。
そして、少年の背後には迫っていた。ひたすら努力し、化物二人に追いつこうとする者が。
何をしても上手くいかなくなり、少年はやがて一人で部屋に篭るようになった。
ヴェリリースはそんな彼を元気付ける為に、クマを作ったのだ。
地面から姿を見せた漆黒のローブを着た男。
深々とフードを被り、顔は見えないが、クマには分かった。
自分が彼の為に作られた存在のだと。
淡い紫の眼を両目へと移植し、赤い涙を流すその男に、ドクロの仮面を被ったヴェリリース。
膨大な魔力が混ざり合う。
重苦しく張り詰めた空気の中、ヴェリリースが駆ける。
すると、片膝を着いていた男が両手を地面へと着け叫ぶ。
「縛術、蟻地獄!」
魔力によりヴェリリースの足元へと巨大な蟻地獄が作り出される。
土を呑み込む様にその中心でうごめく影。足を取られたヴェリリースはその中へと吸い寄せられていく。
だが、焦った様子も無く、ヴェリリースは左手に魔力を込め、
「属性硬化!」
叫び、左腕を黒光りする物質へと変換し、陥没する地面の中心へとその拳を叩きこんだ。
轟音が轟き、地響きが起こる。
爆風で弾かれたヴェリリースはそのまま宙へと浮かび、黒衣を揺らす。
そして、静かに男へとドクロの仮面から覗く赤い眼差しを向け、鎌を振り上げた。
「砂鉄撃!」
ヴェリリースの声に地面を抉り拳大の黒い塊が無数飛び出した。
その塊は男の体を貫き、皮膚を裂き、ヴェリリースの左手へと集まった。
地面に含まれる鉄分を先程、地面に拳を叩きこんだ時に魔力で固めておいたのだ。
集めた鉱石を左手で握ったヴェリリースは、それを吸収し自らの持つ大鎌の刃をより大きく強度の高いモノへと変化させる。
死神と呼ばれたヴェリリースのその戦い方に、クマは悟った。
自分の主人であるヴェリリースは、もう自らの魔力で鉱石を作り出す事も、その大鎌を強化する事も出来ない程、弱っているのだと言う事を。