第14話 助ける理由
異臭の漂う通路をひたすら歩き続ける。
膝まで届くぬめりのある水。歩くたびにグチョグチョと嫌な音をたてた。
暗い通路。壁伝いに何とか足を進めていたが、ようやく目もその暗さに慣れ始めていた。
「うぅー。くさーい!」
「仕方ありません。下水ですから……」
鼻声の冬華に、クリスも鼻声で返答した。いまだ両腕には錠がしてあるクリスは、両手を壁へとあてがい、歩き辛そうに足を進める。時折、腕につけてる錠が壁と擦れ嫌な音が周囲へ広がった。
「大丈夫?」
「えぇ。少々歩き難いですが……問題はありません」
暗がりで冬華の背に笑みを向けた。自分は大丈夫だと言うアピールのつもりなのだが、背を向ける冬華――いや、それ以前にこの暗がりでは全く意味は成さなかった。
二人の声が止み、ぐちゃぐちゃと嫌な音だけが流れる。どれ位歩いたのか分からないが、不意に冬華が足を止め振り返る。と、同時にその冬華の顔に柔らかな感触がぶつかる。
「むぐっ!」
「はわっ! と、とと、冬華様!」
驚きすぐに一歩後退したクリスに、冬華が僅かに俯く。
「うぐぅー。騎士の癖にー。なんて大きなものを……」
冬華の言葉に思わず胸を隠す様にするクリス。そう、先程冬華の顔に当たったのはクリスの胸だった。今現在、鎧などを纏っていない為、クリスの大きな胸が急に立ち止まった冬華の顔に見事にぶつかったと言うわけだった。
耳まで真っ赤にさせるクリスは、大袈裟に腕を上下に振り、「そ、そそ、そんな全然大きくなどありませんよ!」と、否定し、その言葉が冬華の胸にグサッグサッと釘を突き刺していく。
「そ、そうねぇー。でも、クリスのが小さいって言ったら、私のはどうなんだろう? 無って感じかな? あははは」
殆ど棒読みの冬華に、クリスは焦った様に、「ち、ちち、違いますよ!」と叫び、訂正しようとするが、何と言っていいか分からず、しどろもどろになっていた。そんなクリスの姿が暗がりに薄らと浮かび、冬華は「ぷっ」と笑いを噴出す。あまりにもクリスの動きがおかしくて。
「な! 何ですか! わ、笑うなんて……」
俯き恥ずかしがるが、その表情はこの暗がりでは冬華に伝わらなかった。だが、なんとなくどう言う表情をしてるのか、冬華には分かった。
「ごめんごめん」
「もういいです……」
右頬を膨らせ、ソッポを向く。そんなクリスに、苦笑した冬華だったが、すぐに真剣な表情を向け、
「それより、大丈夫かな?」
と、尋ねた。その言葉にソッポを向いていたクリスも薄らと映る冬華の影へと視線を向け、真剣な面持ちで答える。
「心配はないと思います。あの城に、私以上の強さを持つ者は、現在いませんから。正直、あの魔族の少年が一般兵に遅れを取るとは……」
最後の方は大分声が沈み聞き取りにく、冬華は軽く首を傾げた。聞き返そうとも考えたが、何処か気持ちが落ち込んでいる様に見えた為、そうしなかった。数秒の沈黙の後、天井から雫が水面へと落ちた。水音が僅かに響き、水面が揺らめく。
嫌な予感がしていた。クリスは大丈夫だと言っていたが、あの時冬華は不思議な感覚を感じたのを覚えている。兵士達の背後に薄らと漂う漆黒の影の様なモノを。アレが何なのか分からなかったが、胸の奥が締め付けられる様な嫌なモノを感じたのは確かだった。だから、あの場にセルフィーユを残してきた。もしもの時は、彼の力になる様にと――。
衝撃が広がった。
冷たい床を転がる魔族の少年は、血まみれの手を床に落とし、肩で息をしながら体勢を整える。体中切り傷だらけだった。目の前に佇む和服の男。その手に握られた不気味に輝く刀に、険しい表情を見せる。
美しい金色の髪は頭から流れる血で所々赤く染まり、衣服もその刃により裂け血に塗れた皮膚が露出されていた。幸い傷は浅い。それは、この少年の野性的な勘と、反射速度のお陰だった。ギリギリで致命傷だけは避けていた。
「はぁ…はぁ……」
『も、もうダメです! これ以上は――』
「うるせぇ……お前はとっととあいつ等の所へ――!」
背後に浮かぶ心配そうな表情を向けるセルフィーユにそう怒鳴った少年へと、和服の男が腰にすえた刀を一振りする。疾風の太刀。吹き抜ける風が、少年の体を切りつけ、血飛沫が舞う。それでも尚、その場に立ち続ける少年は、歯を食い縛り呼吸を乱す。
「ぐっ……ふぅー……ふぅー……」
口元から僅かに血が漏れる。それでも尚、強い眼差しで男を睨み付ける。
束ねた黒髪を左右に揺らす和服の男は、そんな少年の表情を見据え、口元に笑みを浮かべた。
「流石に打たれ強いな。魔族で、あの獣王の血を引くだけはあると言うわけか」
「オイラには、シオって名前がある。獣王、獣王ってうるせぇんだよ」
シオと名乗った魔族の少年は、右足に体重を掛けると、一気に床を蹴る。足に出来た傷口から地を蹴るたびに血が吹き出、床に大量の血痕を残していく。そんなシオの背中を心配そうに見据えるセルフィーユは、どうしていいのか分からず、ただ傍観していた。
冬華にはもしもの時は助けてあげて、とお願いされていたが、魔族であるシオを助けるのに少なからず抵抗があった。
「双連――」
「疾風斬」
シオが拳に力を込めるよりも早く、和服の男の刀が空を裂く。放たれた疾風が床を駆け、またしてもシオの体を切りつけ、その足を止めた。攻撃をしながら相手の攻撃を防ぐ。見事な攻撃だった。切り付けられ、血を吹き床を転がる。これで、もう何度目になるだろう。そんなシオの姿に、セルフィーユは叫ぶ。
『何度やっても同じです! そろそろ――』
「同じじゃねぇ……同じじゃ……」
左膝を床に落とし右膝を立てながら、鋭い眼差しを和服の男へと向ける。闘争本能が、そうさせるのだろう。しかし、ふら付くシオにこれ以上和服の男と戦うだけの力は残っていない。それは、シオ自身がよく分かっていた。
元々、相性が悪いのだ。武器を持たず打撃のみで戦う近距離タイプのシオに対し、和服の男の武器は刀。しかも、疾風斬と言う疾風の如く切りつける中距離タイプの技を駆使する。幾ら身体能力の高い獣魔族のシオでも、接近戦に持ち込めなければ全く意味がないのだ。
肩で息をするシオは、床に落とした左膝を震わせながらゆっくりと立ち上がる。
「そろそろ、終わりにしようか?」
「やれるもんなら……やってみろ」
ふら付きながらも強気な言葉を返すシオに、和服の男は刀を鞘に収めた。そして、右足を踏み込むと腰を低く落とす。今まで以上に不穏な空気が流れ、彼の周囲に僅かな白煙が昇る。
「我が刃は一太刀で全てを両断する」
「なら、オイラも……」
両足を肩幅に開いたシオが、腰をやや落とすと、両拳を腰の位置に構え静かに息を吐く。瞼を閉じ、静かに己の残り僅かな魔力を集中する。体全体から放出された魔力は腰の位置に構えた拳へと集まっていく。その光景に、セルフィーユは自らが何を出来るかを考え、考え抜き、静かにシオの背後へと回った。
その背中に両手をかざす。両手が光を放つと、シオの体に刻まれた傷がゆっくりとだが塞がって行く。
「……悪い」
『お礼は冬華様に言ってください。私は、魔族の人を助けようなんて……』
「それでも、ありがとう。勝ち目は無いけど……あの二人が逃げるだけの時間は稼げた……この一撃で終わりだ。お前も、早く二人の後を――」
『ダメです! あなたには、ちゃんと冬華様にお礼を言ってもらうんです! こんな所で死なせません!』
強い意志のこもったセルフィーユの言葉に、シオは静かに笑った。
「あんた、面白いな。魔族を助けたくないみたいな口ぶりだったのに……」
『助けるんじゃありません。冬華様にお礼を言わせるためです!』
「ああ。分かった。じゃあ、ここを上手く切り抜けたら……お礼でも何でも言ってやるよ!」
そう叫ぶと、更にシオの体から魔力が放出される。その光景に、不適に笑みを浮かべた和服の男の体が僅かに前方に傾く。シオもその動きに体重を足先へと以降する。
「居合い――」
「獣拳――」
二人の声が重なる。
和服の男の鞘を握った左手の親指が刀の鍔を弾き、シオは腰をひねると右拳を大きく振り被る。
「波状一文字」
「獅子爪激」
澄んだ刃の擦れる音が三度聞こえ、刃が真一文字に飛ぶ。だが、シオの拳は真下へと振り下ろされると、石畳の床を激しく殴打した。刹那、獅子の遠吠えの様な声が聞こえ、床が砕け砕石が土煙と一緒に舞い上がった。
「しまっ!」
男は気づく。これは、目くらましだと。だが、もう遅かった。放たれた刃は土煙と砕石の中へと消え、爆音と、激しい衝撃だけを残す。狭い通路を吹き抜ける衝撃に、思わず顔を腕で覆う。そして、衝撃が収まると、ゆっくりとその腕を下ろした。
「…………逃がしたか」
砕かれた床。崩れた天井と壁。漂う僅かな土煙に、男は目を細め、抜いた刀を静かに鞘へと納めた。床に僅かながら残された血痕。追おうと思えば追えたが、男は静かに背を向けると、その場を立ち去った。




