第116話 クマ
静まり返った洋館の応接室に、クリスとシオは招かれた。
招き入れたのは、クマ――の着ぐるみらしきモノを着た人物にだった。
ツギハギだらけだが、愛らしく愛嬌のあるそのクマの気ぐるみは、二メートル程の大きさで、指の無いその手で器用にティーカップに紅茶を注いでいた。
長椅子に腰掛けるクリスとシオは、そんなクマの動きにただただ呆然としていた。
「クマクマクマーっ! クマは賢い執事さんっ」
軽快な鼻歌を交え、舞い踊る様に紅茶の入ったティーカップを二人の前に置く。そして、何処からとも無くお茶請けまで取り出し、二人をもてなす。
ガラス張りのテーブルへと並べられた多数のお茶請けと、紅茶の入ったティーカップに、二人は沈黙していた。何が何なのか理解する間も無く、次々と起きるクマの行動に、頭がついて行かなかった。
紅茶にもお茶請けにも手を着けず、沈黙する二人の様子にクマは不安そうな眉を曲げる。それは、まるで生きているかのように。
「クマ? もしかして、紅茶は嫌いなんですか? クマ、配慮が足りず申し訳ないです!
完璧な執事失格です! クマを煮るなり、焼くなりしてください!」
涙ながらにそう語るクマが、その丸っこい手でクリスの手を掴み懇願した。
あまりの迫力に表情を引きつらせるクリスは、ただただ硬直していた。そして、その腕を掴むクマの手の感触に驚いていた。その手に、人の手と言う感触がなかったのだ。
まるで綿を詰めたぬいぐるみに手を握られている、そう思える程だった。
「わ、悪い……お、お腹、空いて無いんだ……」
表情を引きつらせるクリスが、搾り出す様にそう告げた。すると、クマの表情がパッと明るくなり、その口に笑みが戻った。しかし、その途端に残念そうに眉をひそめ、テーブルに並べられたお茶請けへと顔を向ける。
「残念です。クマの自信作だったのに……」
クマが非常に残念そうにテーブルに並べたお茶請けをさげていく。
(あれをあの手で作ったのか……)
と、クリスは驚き、
(へぇーっ。クマの着ぐるみ着てるから変な奴だと思ったけど……こう言う器用な事出来るのか……)
と、シオは感心していた。
全く別の反応を見せるクリスとシオは、ほぼ同時に吐息を零した。二人の反応に、ツギハギで作られたクマの耳がピクッと動き、慌ただしくうろたえる。
「クマママッ! も、もも、申し訳ないです! く、クマ! 客人にため息を吐かせてしまうほどの失態を!
クマ、一生の不覚! 今、ここで腹を切り、死んで詫びます!」
何処から取り出したのか、クマの手には出刃包丁が握られ、それを逆手に持って自らに向ける。その行動にクリスは慌てて立ち上がり、シオは頬杖をつき傍観していた。
「ま、待て! 落ち着け! 早まるな!」
クマの腕を掴み、クリスは動きを拘束する。その際に触れたクマの腕の感触にクリスはまたも動揺する。やはり、人など入っていないと分かったのだ。じゃあ、このクマはどうして動いているのか、その疑問にクリスの力が緩む。
その隙を突き、クマはクリスの拘束を振りきり、距離を取り大きく腕を振り上げる。
「クマ! 逝きます!」
と、同時だった。扉が荒々しく開かれ、しゃがれた女性の怒声が響いたのは。
「なんだい! クマ! この騒ぎは!」
開かれた扉のノブが壁にぶつかり激しい音を響かせるが、それすらもかき消すその女性の声に、クリスは思わず耳を塞ぎ顔をしかめた。シオも同じく、両手で頭の上の獣耳を押え、悶絶していた。人よりも耳が良い為、その声は相当耳に響いていた。
僅かに白髪の交じった黒髪を揺らす女性は、か細い体でゆっくりと部屋へと足を踏み入れる。四十は超えているだろうと、思わせる僅かなシワが顔には刻まれているが、それでも彼女の姿は若々しく見える。
そんな女性の後に続いて、冬華が一人の少年と一緒に部屋へと入ってきた。
「あっ! クリス! シオ! どうしてここに?」
部屋に入るなり、冬華が驚きそう声を上げる。すると、長く伸ばした髪で目を覆う少年が、顔を冬華へと向け小声で尋ねる。
「お、お知り合い……ですか?」
「うん。私の友達だよ」
少年へと冬華は笑顔でそう答える。その言葉に少年の表情は僅かに綻び、頬を紅潮させ「友達……」と呟いた。何故だか彼は嬉しそうな表情だった。
「よいしょ……」
年寄り臭くそう呟いた女性は、クリスとシオの対面にある椅子へと腰を下ろした。切れ長のキツイ眼差しに、シオは思わず背筋を伸ばす。直感的に感じたのだ。この人には逆らわない方が良いと。
シオの行動に聊か驚くクリスは、思いだした様にクマへと視線を戻す。今にもその出刃包丁で腹を突き刺そうとするクマに、クリスは慌てて声を上げる。
「お、おい! や、やめろ!」
「いいんです。いいんです! クマはお客様を満足にもてなす事も出来ない役立たずの執事! 死んで詫びるしかないんです!」
涙ながらにそう叫ぶクマに、椅子へと座った女性は呆れた様に息を吐く。
「あぁー。死ね……今すぐに死ね」
「はぃぃぃぃい! ご主人様……クマ、クマ……お役に立てなくて申し訳ないですぅ!」
クマは号泣しながらそう言うと、一気に振り上げた出刃包丁を腹へと突き立てた。ぽふっと妙な音が僅かに聞こえ、布の裂ける音が遅れて聞こえた。その音で、クマは勢いよく顔を上げた。
「クマッ! そうでした! クマはぬいぐるみでした!」
「そうだよ。お前はぬいぐるみだよ。分かったら、とっとと綿を詰めなおして、傷口を縫っておいで」
「クマママッ! こ、これは、お見苦しい所を見せてしまって……。申し訳ないクマッ!」
クマは裂いた腹部から溢れる綿を両手で押さえ、深々と頭を下げると慌ただしく部屋を出ていった。唖然とするクリスに対し、シオはホッと息を吐くと正面に座る女性へと目を向ける。
「随分とぬいぐるみになりきってたみたいだが……洗脳したのか?」
「おやおや。あんたは魔族のクセに、分からなかったのかい?」
驚いた様子の女性は、懐からキセルを取り出すと、それを口へと銜えた。彼女の言っている言葉が理解できず、シオは怒った様に鋭い眼差しを向ける。
「どう言う意味だ? オイラを馬鹿にしてんのか?」
「違う。あれには、人は入っていない。自我を持ったぬいぐるみなんだ」
「…………さぁ、冗談はさておき、何の話だったかな?」
妙な間を空け、シオは真剣な表情で、この話を打ち切った。しかし、クリスは納得しない。
「おまっ! 人の話を勝手に打ち切るな!」
「クリス……お前は、疲れてるんだ。うんうん。少し休め」
「いや、だから――」
「アレは生きているよ。私の最高傑作だからね」
キセルから煙を噴きながら女性がそう述べた。すると、シオの表情が僅かに引きつる。そんなバカな事があるわけが無いと、言う表情に、女性はキセルを口から話すと輪型の煙を噴いた。
「う、うそ……だろ?」
「現実だ。受け止めろ。キミらにどう見えてるかは知らんが、これでも私は最強の魔女と呼ばれたもんだよ。
今はもう最強の看板は下しているけどね」
カッカッカッと笑う女性に、シオは唖然としていた。モノに魂を与えるなどと言う高度な術をやってのける程の人物に会うのは初めてだった。
唖然とするシオを尻目に、その女性はキセルでガラス張りのテーブルを叩き静かに告げる。
「私はヴェリリース。この洋館の主だ。私の弟子が、随分と迷惑を掛けた様ですまないな」
ヴェリリースがそう述べると、前髪で目を覆う少年がえへへと、笑った。無邪気な彼の笑顔に、ヴェリリースは穏やかに微笑した。